徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「サラエボの花」ー救いと慈しみー

2008-06-21 23:00:00 | 映画

1992年のことであった。
旧ユーゴスラヴィアが解体してゆくなかで、ボスニア紛争は勃発した。
95年の決着をみるまでに、死者20万人、難民、避難民が200万人も発生したと言われる。
第二次世界大戦後の、ヨーロッパにおける、民族と宗教が複雑に絡み合った、最悪の紛争となった。
これまで、このバルカン半島での未曾有の紛争をテーマにした作品は数多く作られてきたが、この映画もそのひとつである。
ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリ、平和映画賞をはじめ、ブリュッセル・ヨーロッパ映画祭などで数多くの映画祭賞を受賞した作品だ。

74年、サラエボ生まれの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチは、ボスニア紛争当時、まだティーン・エイジャーであった。
彼女にとって、長編デビュー作となるこの作品を製作することは、自らの恐怖の体験を掘り起こす辛い作業だった。
しかし、この紛争の悲劇に立ち向かうことによって、ヤスミラ・ジュバニッチ監督は、ここに生命の尊さと美しさを見出したのだった。

山々に囲まれたサラエボは、戦時中はセルビア人勢力に包囲され、長期間にわたって、市民は砲撃と狙撃兵の標的にされてきた。
この映画の舞台となった地域は、セルビア人の勢力に制圧されていたところで、ここで、戦争という名目のもと、多くの多彩で悲惨な出来事が起った。

この作品は、その犠牲者たる女性の12年後を描いている。
ここでは、殺戮のシーンも、暴力の恐怖も、戦争の生々しさも描くことなく、平和を取り戻そうと懸命に努力し、生きる人々の日常を丁寧なカメラワークが捉えていく。
ジュバニッチ監督が、「これは、愛についての映画である」と言っているように、作品に描かれるシーンの数々には、慈しむような、穏やかな視線を感じるのだ。
そこには、許しも復讐もない。
主人公は、戦争の悲惨と、さらには衝撃的な事実までも淡々と語っていくのだ。

純粋とは言えない愛がある。憎しみがある。
それらは、いつもトラウマと成り、絶望、嫌悪が入り混じって、救いがたい現実となった。
憎しみという感情の中で、生まれてしまった子供を持つ女性の心が、純粋であればあるほど、襲いかかる感情の凄まじさは、どれだけ第三者に理解できるだろうか。
実際、自分の子供に授乳しながら、ジュバニッチ監督はシナリオを書き上げたそうだ。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボ、グルバヴィッツァ地区・・・。
かつて母は、自分のお腹に宿した生命を怖れていた。
しかし、生まれてきた娘は、母の大きな喜びに変っていく。

シングルマザーのエスマ(ミリャナ・カラノヴィッチ)は、12歳の娘サラ(ルナ・ミヨヴィッチとつましく暮らしている。
学校のサッカーで、男子生徒と張り合うくらい、男まさりのサラの一番の楽しみは、もうすぐ出かける修学旅行であった。

戦死したシャヒード(殉教者)の遺児は、旅費が免除されると言うのに、何故かエスマはその証明書を出そうとしない。
かわりに金策に奔走する母に、サラの苛立ちは募るばかりだ。
娘の怒り、母の哀しみ・・・、12年前、この街で何が起ったのか。

娘への愛のために、母が心の奥深くひたすら隠してきた真実が、次第に明らかになってゆく・・・。

戦争の犠牲となった女性の現在を、この作品は描いていく。
初監督にして、弱冠32歳の女性監督ジュバニッチは、十代をまさに戦争の真っ只中のサラエボで生きた。

ボスニア戦争は民族戦争と言われるが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナには、そもそも民族間の深刻な対立というものは存在していなかった。
セルビア人、ムスリム人、クロアチア人の三民族が合意した政治機構が確立されなければ、統一した独立国家としてスタートするのは困難だったのだ。
その「独立」に際して、「手順」を誤ったために悲劇は起きたのだった。

女性に対する性的暴力は、残念なことだが、戦争ではいつでも起きている。
そして、このボスニア紛争でも、女性への暴力だけでなく、敵民族の子供を産ませることで、所属民族までを辱め、後世に影響を残すことが作戦として組織的に行われたと言うではないか。

三民族が混住した地域が、戦場となってしまったのだ。
死傷者は、戦闘の前線や攻撃で生じるばかりではない。
民族浄化のために、自宅から追いやられる際に、男性や子供は殺され、女性はその場で凌辱され、連行されていった。
各地に収容された女性は、連日多くの兵士に乱暴され、妊娠すると、本人の意志に反して子供を出産させられた。
それは、民族間の和解の可能性を消すためだったのだろう。
収容所での自殺や、子供を殺した例も多いと言う。

映画の中で、戦争の「悲惨」が映像として登場しないのは、もとより監督の意図するところであろう。
そのためもあるのか、どうも、訴えてくる力が希薄で、頼りなく思われる。
ヒロインの台詞だけで、過去の痛ましい傷跡を語りつくせるものではない。
戦争の深い傷を持つ母親と、真実を知らされる娘の、双方の苦悩と慰藉の念が描ききれていない。
心の葛藤や相克だってあるだろう。
どうも、こなれていないのだ。十分とは言えず、物足りなく感じる。
一番大事なところだ。
ジュバニッチ監督の若さか。未熟か。
希望と再生を謳うのであれば、悲惨な現実を直接あぶり出すべきではなかったか。
回想シーンがいつでもいいとは思わないが、もうひとつ、演出に工夫があってもいいのではないか。
ヤスミラ・ジュバニッチ監督には、もう一歩踏み込んだ演出をこそ期待したかった。
ともあれ、ボスニア・オーストリア・ドイツ・クロアチア合作の映画
サラエボの は、母娘の再生と希望を描いて、まずまず良質の作品には違いない。