男子二人、女子一人を持つ働き者の彼女の結婚の条件は、離婚した夫も一緒に暮らすことだった。
そんなこともあるのだろうか。
しかし、この映画を観ると、そういう離婚夫婦も納得がいく。
女の気持ちは、あくまでも純粋だ。
気立てもよくて、気っぷも文句なしだ。
切なる女の願いをかなえてあげようではないか、ということになるようだ・・・。
ワン・チュアンアン監督の、中国映画「トゥヤーの結婚」は、ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリ受賞作品だ。
ベルリン国際映画祭は、内モンゴルの荒野で、凛として生きるヒロインをグランプリに選んだ。
この作品には、涙とユーモアがある。
ヒロインに“母”の姿を重ねて描き出した、人間の温かみにあふれた作品だ。
モンゴルの光いっぱいに満ちた景色の中で、色は赤く燃え上がり、水平線までもが砂漠になじんでいく。
厚手のコートに包まれ、赤いスカーフで頭を覆っている。
いつも、生き生きと輝いている女性トゥヤー(ユー・ナン)・・・。
広く果てしない、中国内モンゴルの荒野に、トゥヤーの一家は住んでいる。
水を汲むために、井戸を掘っていたところ、夫のバータル(バータル)は、ダイナマイト事故によって半身不随になってしまう。
トゥヤーは二人の幼い子供を抱えながら、家族を養うため重荷を背負って、厳しい生活の中に果敢に突き進む。
妻の苦難を見ていたバータルは、生きていくために離婚に同意するよう説得しようとする。
過酷な現実を前にして、トゥヤーは悲しみと憤りを胸に、障害を抱えた夫を支えながら、仕方なく裁判所へ行く。
そこでトゥヤーは、家族への愛から、ひとつの決断をする。
生きていくために、夫のために・・・。
裁判所は、バータルの請求に基づいて、トゥヤーとの離婚を認めた。
しかし、そこでトゥヤーが出した離婚の条件は、新しく見つける夫は、障害を負ったバータルとも一緒に生活し養ってくれる人に限るということであった。
トゥヤーへの求婚者が、次から次へと現れる。
・・・そして、誰からも祝福され、感謝される日の訪れを待ちながら、トゥヤーはどんな苦難にも立ち向かっていこうとする。
そんな時、トゥヤー一家の隣人センゲー(センゲー)が、勇敢にも彼女との結婚を申し込んできた。
トゥヤーの家族に起ったすべてを見ていたセンゲーは、彼女を尊敬し、トゥヤー家の全員を愛しているのだった。
彼は、心からバータルを受け入れる。
そして、センゲーとトゥヤーの結婚式で、バータルは様々な思いが交錯する中、祝い酒を飲む。
トゥヤーの目に、光るものがあった。
それは、みんなに祝福されるその日、彼女が見せた初めての涙であった。
ベルリン国際映画祭というところは、中国映画から、コン・リーに続いて、純粋で力強いヒロインを見出した。
砂漠化の進む、中国内モンゴル自治区の西北部での撮影後、彼らの生活は永遠に失われたという。
作品は、そういう土地柄だからこその、自然や大地を大切に思う気持ちが滲み出ている。
夫を連れた再婚というテーマを扱いながら、ひとつの家族愛を描いている。
母なる女の強さは、いつでも映画の主役だ。
トゥヤーの二度目の結婚祝いの宴で、逞しい母のことをからかわれたらしい息子が放つ言葉がいいではないか。
「親父が二人いて、何が悪い」
息子同士がとっくみ合いの喧嘩になるシーンは、ほほえましい。
人間と人間、家族同志の絆とは何だろう。
普通に考えれば、夫を連れての再婚など許される筈もない。
再婚して、なお身体の不自由な前の夫の面倒を新夫婦でみるというシーンに、ワン・チュアンアン監督の「家族」を見守る温かい視線を感じるのだ。
心温まる映画はいい。
余談だけれども、この作品の舞台は、中華人民共和国の北方にある、内モンゴル自治区ということで、大相撲の朝青龍たちの出身国モンゴル国とは、国が違うそうだ。
中国北部の内陸に位置し、モンゴル国、ロシア連邦と国境を接している。
近年、急速な砂漠化が問題になっていて、これまであった広大な草原は半分に減っているそうだ。
このために、牧畜民たちが、故郷を去らなければならない移住計画が進められてる。
この地が、いつの日か砂漠に化してしまうのだ。
そして、すべてが永遠に消え去ってしまう日が来る。
その前に、彼らの暮らしの記録を貴重な映像として残すためにも、この中国映画 「トゥヤーの結婚」 を撮ったと言う、ワン・チュアンアン監督のメッセージは重いものがある。
光あふれる、モンゴルの雄大な荒野の映像が美しい。