暘州通信

日本の山車

30009 銅鐸

2008年08月12日 | 日本の山車
30009 銅鐸
銅鐸(どうたく)もまた起源について諸説がある。
筆者は、朝鮮半島に出土する馬鐸が日本において巨大化したものと推定する。
カンアオイ(asarum)科の植物に馬兜鈴(ばとうれい)の漢名がある。地上すれすれ、もしくは地中に隠れて花を咲かせる。花をつけて結実した種子が発芽するのに平均的な統計値は、十年で約一ミリメートルの移動。換言すると一万年かけてもわずか一メートルしか移動していないという研究がある。このためカンアオイ属の植物は地史との関係が深く、九州と四国の両方に見られるオナガアオイが自生するのは、かっては豊予海峡がなく陸続きだったのでは? と推理するむきもある。コシノカンアオイはフォッサマグナの影響をうけたとみられ、糸魚川近辺に自生があるやや大型の草本である。
名和博士が岐阜県金山町(現下呂市)で採集された春の女神ともいわれるギフチョウは、カンアオイを食草として成長する。
京都の上賀茂、下加茂両者の社紋になっているのは、やはりこの仲間のフタバアオイであり、徳川家の家紋三葉葵もコノフタバアイオイである。
、銅矛、銅鉾、銅戈は北九州に多く、銅鐸は中国地方日本海側に初期のものが分布し、畿内から中部地方に分布が伸びる。
しかし、おなじ弥生時代であっても銅矛、銅鉾、銅戈と、銅鐸の分布圏はほとんど重ならない。これもなぞとされている。
筆者は、北九州は宗像系海神系の民族、中国、畿内、中部は出雲系の民族の支配下にあったと推定する。
海神系の安曇氏、宗像氏と出雲系の大国主(大己貴)は血縁であり、弥生時代にはきわめて強い同族意識があったと推定され、たとえば、古代に出雲地方に宗像神社が争うことなくきわめてすんなりと祀られ、信州安曇の穂高神社は、諏訪大社と争った形跡が無い。
信州では諏訪大社に見られる「御柱」が立てられ、その例は屋敷に祀られる屋敷神の祠にもみられ、諏訪とは無関係の神社にもみられ、上田市の生島足島神社にも立てられているのに穂高神社には御柱がない。
これは海神系の安曇氏、出雲系の諏訪氏のあいだにはきわめて強い相互不可侵の同盟関係があったからではなかろうか。
日向の高天原は天孫降臨の地であるが、宮崎県児湯郡農町都農神社は創祀不明といわれ、延喜式にも記載のある古社だが、祭神は大己貴である。
このことは、日向の国はすでに出雲系氏族の支配が及んでいたことを推定させる。
すこし横にそれたが、銅鐸は上に梵鐘の龍頭に相当する部分があり、内側に舌(ぜつ)をさげたようである。やや扁平で、上部に小さな穴がある。祭のときは銅鐸の両側に人が立ち、穴に紐を通して揺らして鳴らすというような使い方をしたのではなかろうか。
いまでこそ寺院の梵鐘は専門の業者によって鋳造されるが、明治期になっても、梵鐘の無い寺院では、鐘鋳り(かねいり)といって地区内に櫓を組んで梵鐘を鋳た。僧侶の読経のうちに善男善女が列を作って順番を待ちながら寛永通寶などの古銭を投げ入れた。
日夜鳴らされる梵鐘の音には、信者の喜捨がこめられている。
山車には、富山県の高岡市の御車山、新潟県村上市のおしゃぎり山車などに梵鐘がのすぇられている。
大国主の国譲りが無く、弥生時代が続いていたら、山車の上に銅鐸がのるということがあったかもしれない。

30007 日本古代の銅文化 銅鉾、銅戈

2008年08月12日 | 日本の山車
30007 日本古代の銅文化 銅鉾、銅戈
日本古代の銅文化は弥生遺跡より出土する遺物に多種が見られる。
山車に関連するもので、注目を要するのは、銅鐸、銅劔、銅鉾、銅戈、銅鏡などであろう。銅製器物は中国殷代に作られたものがよく知られる。その技術は朝鮮に移入され、銅鉾、銅戈などがつくられ、その製品は九州地方にもたらされた。当初は武器であったろう。やがて、銅鉾、銅戈は、九州において巨大化し武器としての実用性をいちじるしく失う、使用目的は祭祀のためだったと推定されている。
この風習は現代にうけつがれいまも各地の神幸祭に供奉する。山車の頂部に鉾をとりつけるのは京都の祇園祭をはじめ各地に見られる。

30005 神宮

2008年08月12日 | 日本の山車
30005 神宮
祭は天神地祇を「まつる」神事であり、天下泰平、五穀豊穣、子孫繁栄、病魔退散などを願っておこなわれる。
一般的に春祭は、豊作祈願など予祝神事としておこなわれ、夏祭は、祇園祭、ねぶた祭などのように悪疫の懲散にはじまるものが多い。秋祭は豊作を感謝する収穫祭の色合いがつよく収穫した農産物を神に捧げ、神人が共食する饗宴がおこなわれる。
子孫繁栄は、山車彫刻の「瓢箪」「鶉と粟穂」などに見られる。瓢箪はひとつの種から千瓢が得られる比喩である。
「あえば」とは神と人が饗場のことだという。北陸能登方面には「あえのこと」をおこなう地がある。
祭は、おおむね神社を中心にしておこなわれる。一律には言えないが、神社に祭られる神は祖先の霊をまつる霊廟である場合が多い。多くの場合は先祖を祭る、神社の祭礼としておこなわれている。
神社に祭神を祀る風習は日本各地に普遍的に見られるものであるが、じつは神社の起源は中国大陸、朝鮮方面にあると考える。
おそらく弥生時代に稲、稲作と共に入ったもので、古いものは紀元前にさかのぼると推定する。
現在朝鮮半島には神社が無いようであるが、朝鮮の史書『三国史記』に祖先の霊を祀る「神宮」の文字が出てくる。



30003 まつり

2008年08月12日 | 日本の山車
30003 まつり
日本各地の古代祭祀は、縄文時代の遺跡から出土する土偶や石製器物に見ることができる。またストーンサークル(環状列石)、ストーンヘンジ、ドルメン(支石墓)など世界に共通する遺跡がある。甘南備ともいわれる秀麗な山は山そのものが御神体であり、各地にあるが、奈良県の三輪山、滋賀県の三上山などはその例といえる。
山嶽を霊場とあがめる山も各地にあり、富士山、長野県の木曾の御嶽、群馬県の妙義山、栃木県の二荒山(日光)、山形県の出羽三山、青森県の岩木山、石川県の加賀の白山、富山県の越中立山、奈良県の大台など数々あり、なかには修験道の霊場として護摩など火と結びつく例もあり、奈良県の吉野山には仏教色の強い蔵王権現が祀られる。
天から降った神が坐す場所は神籬(ひもろぎ)であり、古くは「アレ」とよばれる。京都市上賀茂の「アレ」、長野県塩尻市の「阿禮神社」などがある。
古代の人たちは神が岩に乗って移動したと信じていたようで、磐船、岩舟の名称は各地にある。
天から降った神が籠る石や磐は神座であり、四国地方の各地ほかに多く見られる。
春になると山から降って「田の神」となる「山の神」信仰も各地にあり、岐阜県下呂市小川では「湯の花神事」も行われる。
家を普請するときは敷地を限って四方に竹を立て、注連縄(しめなわ)を張り祭壇を設けて神饌を供え、地を祓いきよめる地鎮祭が行われる。
ドイツに築庭に日本庭園を築いたとき、地鎮祭をおこなって不審気に見ていた現地の人が質問したので、説明したら大いに納得し賛意を得たというはなしも伝わっている。
「まつり」とは「まつらう」神事であるが、鎮守や産土神をまつる神社の祭神をまつる祭は「御祭禮」とよばれるのに対し、家を新築するときの地鎮祭を御祭禮とは言わない。
日本人にはこの関係はよく分かっているのだが、欧米人には理解しがたいらしい。
「祭」は名詞であるが、「まつらう」という動詞つかいのとき、送り仮名として「り」がつけられることが多い。
祭のポスターなどでも「〇〇祭り」などと書かれるのを多く見かけるが、動詞の五段活用、あるいは送りかなの「り」を各地の祭たる固有名詞につけるのは望ましくない。
「〇〇祭」と書くべきであろう。