30009 銅鐸
銅鐸(どうたく)もまた起源について諸説がある。
筆者は、朝鮮半島に出土する馬鐸が日本において巨大化したものと推定する。
カンアオイ(asarum)科の植物に馬兜鈴(ばとうれい)の漢名がある。地上すれすれ、もしくは地中に隠れて花を咲かせる。花をつけて結実した種子が発芽するのに平均的な統計値は、十年で約一ミリメートルの移動。換言すると一万年かけてもわずか一メートルしか移動していないという研究がある。このためカンアオイ属の植物は地史との関係が深く、九州と四国の両方に見られるオナガアオイが自生するのは、かっては豊予海峡がなく陸続きだったのでは? と推理するむきもある。コシノカンアオイはフォッサマグナの影響をうけたとみられ、糸魚川近辺に自生があるやや大型の草本である。
名和博士が岐阜県金山町(現下呂市)で採集された春の女神ともいわれるギフチョウは、カンアオイを食草として成長する。
京都の上賀茂、下加茂両者の社紋になっているのは、やはりこの仲間のフタバアオイであり、徳川家の家紋三葉葵もコノフタバアイオイである。
、銅矛、銅鉾、銅戈は北九州に多く、銅鐸は中国地方日本海側に初期のものが分布し、畿内から中部地方に分布が伸びる。
しかし、おなじ弥生時代であっても銅矛、銅鉾、銅戈と、銅鐸の分布圏はほとんど重ならない。これもなぞとされている。
筆者は、北九州は宗像系海神系の民族、中国、畿内、中部は出雲系の民族の支配下にあったと推定する。
海神系の安曇氏、宗像氏と出雲系の大国主(大己貴)は血縁であり、弥生時代にはきわめて強い同族意識があったと推定され、たとえば、古代に出雲地方に宗像神社が争うことなくきわめてすんなりと祀られ、信州安曇の穂高神社は、諏訪大社と争った形跡が無い。
信州では諏訪大社に見られる「御柱」が立てられ、その例は屋敷に祀られる屋敷神の祠にもみられ、諏訪とは無関係の神社にもみられ、上田市の生島足島神社にも立てられているのに穂高神社には御柱がない。
これは海神系の安曇氏、出雲系の諏訪氏のあいだにはきわめて強い相互不可侵の同盟関係があったからではなかろうか。
日向の高天原は天孫降臨の地であるが、宮崎県児湯郡農町都農神社は創祀不明といわれ、延喜式にも記載のある古社だが、祭神は大己貴である。
このことは、日向の国はすでに出雲系氏族の支配が及んでいたことを推定させる。
すこし横にそれたが、銅鐸は上に梵鐘の龍頭に相当する部分があり、内側に舌(ぜつ)をさげたようである。やや扁平で、上部に小さな穴がある。祭のときは銅鐸の両側に人が立ち、穴に紐を通して揺らして鳴らすというような使い方をしたのではなかろうか。
いまでこそ寺院の梵鐘は専門の業者によって鋳造されるが、明治期になっても、梵鐘の無い寺院では、鐘鋳り(かねいり)といって地区内に櫓を組んで梵鐘を鋳た。僧侶の読経のうちに善男善女が列を作って順番を待ちながら寛永通寶などの古銭を投げ入れた。
日夜鳴らされる梵鐘の音には、信者の喜捨がこめられている。
山車には、富山県の高岡市の御車山、新潟県村上市のおしゃぎり山車などに梵鐘がのすぇられている。
大国主の国譲りが無く、弥生時代が続いていたら、山車の上に銅鐸がのるということがあったかもしれない。
銅鐸(どうたく)もまた起源について諸説がある。
筆者は、朝鮮半島に出土する馬鐸が日本において巨大化したものと推定する。
カンアオイ(asarum)科の植物に馬兜鈴(ばとうれい)の漢名がある。地上すれすれ、もしくは地中に隠れて花を咲かせる。花をつけて結実した種子が発芽するのに平均的な統計値は、十年で約一ミリメートルの移動。換言すると一万年かけてもわずか一メートルしか移動していないという研究がある。このためカンアオイ属の植物は地史との関係が深く、九州と四国の両方に見られるオナガアオイが自生するのは、かっては豊予海峡がなく陸続きだったのでは? と推理するむきもある。コシノカンアオイはフォッサマグナの影響をうけたとみられ、糸魚川近辺に自生があるやや大型の草本である。
名和博士が岐阜県金山町(現下呂市)で採集された春の女神ともいわれるギフチョウは、カンアオイを食草として成長する。
京都の上賀茂、下加茂両者の社紋になっているのは、やはりこの仲間のフタバアオイであり、徳川家の家紋三葉葵もコノフタバアイオイである。
、銅矛、銅鉾、銅戈は北九州に多く、銅鐸は中国地方日本海側に初期のものが分布し、畿内から中部地方に分布が伸びる。
しかし、おなじ弥生時代であっても銅矛、銅鉾、銅戈と、銅鐸の分布圏はほとんど重ならない。これもなぞとされている。
筆者は、北九州は宗像系海神系の民族、中国、畿内、中部は出雲系の民族の支配下にあったと推定する。
海神系の安曇氏、宗像氏と出雲系の大国主(大己貴)は血縁であり、弥生時代にはきわめて強い同族意識があったと推定され、たとえば、古代に出雲地方に宗像神社が争うことなくきわめてすんなりと祀られ、信州安曇の穂高神社は、諏訪大社と争った形跡が無い。
信州では諏訪大社に見られる「御柱」が立てられ、その例は屋敷に祀られる屋敷神の祠にもみられ、諏訪とは無関係の神社にもみられ、上田市の生島足島神社にも立てられているのに穂高神社には御柱がない。
これは海神系の安曇氏、出雲系の諏訪氏のあいだにはきわめて強い相互不可侵の同盟関係があったからではなかろうか。
日向の高天原は天孫降臨の地であるが、宮崎県児湯郡農町都農神社は創祀不明といわれ、延喜式にも記載のある古社だが、祭神は大己貴である。
このことは、日向の国はすでに出雲系氏族の支配が及んでいたことを推定させる。
すこし横にそれたが、銅鐸は上に梵鐘の龍頭に相当する部分があり、内側に舌(ぜつ)をさげたようである。やや扁平で、上部に小さな穴がある。祭のときは銅鐸の両側に人が立ち、穴に紐を通して揺らして鳴らすというような使い方をしたのではなかろうか。
いまでこそ寺院の梵鐘は専門の業者によって鋳造されるが、明治期になっても、梵鐘の無い寺院では、鐘鋳り(かねいり)といって地区内に櫓を組んで梵鐘を鋳た。僧侶の読経のうちに善男善女が列を作って順番を待ちながら寛永通寶などの古銭を投げ入れた。
日夜鳴らされる梵鐘の音には、信者の喜捨がこめられている。
山車には、富山県の高岡市の御車山、新潟県村上市のおしゃぎり山車などに梵鐘がのすぇられている。
大国主の国譲りが無く、弥生時代が続いていたら、山車の上に銅鐸がのるということがあったかもしれない。