00087 氣比神宮祭
福井県敦賀市曙町一一
氣比神宮
□祭神
ケヒノカミ 気比神
ミケツノカミ 御食津神
イザサワケノカミ 伊奢沙和気神
□祭は九月上旬-中旬
敦賀祭、敦賀の山というときは氣比神宮の祭をいい、祭礼が約半月つづくことから「氣比の長祭」の名がある。山車六臺を曳く。祭の期間中いつでも山車が曳かれるわけではない。
□山車
・御所辻子山車
元町
・金ヶ辻子山車
桜、蓬莱町
・唐仁橋山車
相生町
・東町(旭)山車
相生町
・観世屋町山車
相生町
・鵜飼ヶ辻子山車
相生町
□汎論
気比神宮は北陸道(ほくろくどう)の総鎮守として祀られ、祭神のイザサワケノミコト、伊奢沙別命が気比大神古来の主祭神であろう、社伝によると文武天皇期(六九七-七〇七)に社殿が造営され、大宝二年(七〇二)に仲哀天皇と神功皇后を合祀したといわれる。これらは古記録や文献、資料等でさかのぼりうる年代で、さらに数百年を遡りうるのではと推定する。七柱の祭神を祀るとされるが不明な点が多い。
敦賀、若狭は古来朝鮮半島、大陸からの渡来系民族が多く上陸した地であり、断定はできないが、東の古関安発(あらち)を経て近江、山城、甲賀、美濃方面に定住したその玄関口でもあった。
穴穂(穴太)、安曇(安土)、三上、小野、息長、伊福(伊吹)、永原、国友などの各氏は敦賀から上陸した氏族と推定され、滋賀県蒲生郡の石塔寺、多賀大社、日撫神社、阿自岐神社なども敦賀から入ったと考証する。湖北を故郷とする神功皇后が、三韓征伐に船出したのもこの敦賀だったという。滋賀県の草津市に伊佐々神社がある。越、加賀など北陸から、あるいは上方から北陸へ旅する多くの旅人が往来の都度参詣に訪れ殷賑をきわめた。
福井県敦賀市曙町一一
氣比神宮
□祭神
ケヒノカミ 気比神
ミケツノカミ 御食津神
イザサワケノカミ 伊奢沙和気神
□祭は九月上旬-中旬
敦賀祭、敦賀の山というときは氣比神宮の祭をいい、祭礼が約半月つづくことから「氣比の長祭」の名がある。山車六臺を曳く。祭の期間中いつでも山車が曳かれるわけではない。
□山車
・御所辻子山車
元町
・金ヶ辻子山車
桜、蓬莱町
・唐仁橋山車
相生町
・東町(旭)山車
相生町
・観世屋町山車
相生町
・鵜飼ヶ辻子山車
相生町
□汎論
気比神宮は北陸道(ほくろくどう)の総鎮守として祀られ、祭神のイザサワケノミコト、伊奢沙別命が気比大神古来の主祭神であろう、社伝によると文武天皇期(六九七-七〇七)に社殿が造営され、大宝二年(七〇二)に仲哀天皇と神功皇后を合祀したといわれる。これらは古記録や文献、資料等でさかのぼりうる年代で、さらに数百年を遡りうるのではと推定する。七柱の祭神を祀るとされるが不明な点が多い。
敦賀、若狭は古来朝鮮半島、大陸からの渡来系民族が多く上陸した地であり、断定はできないが、東の古関安発(あらち)を経て近江、山城、甲賀、美濃方面に定住したその玄関口でもあった。
穴穂(穴太)、安曇(安土)、三上、小野、息長、伊福(伊吹)、永原、国友などの各氏は敦賀から上陸した氏族と推定され、滋賀県蒲生郡の石塔寺、多賀大社、日撫神社、阿自岐神社なども敦賀から入ったと考証する。湖北を故郷とする神功皇后が、三韓征伐に船出したのもこの敦賀だったという。滋賀県の草津市に伊佐々神社がある。越、加賀など北陸から、あるいは上方から北陸へ旅する多くの旅人が往来の都度参詣に訪れ殷賑をきわめた。
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