34482 日本の稲作文化
日本に稲作が伝わったのは弥生時代である。弥生時代はいわば稲作と農耕が、土地に定着した生活が確立していった時代ともいえよう。
稲の原産地は東南アジアからヒマラヤの低地にまで広がっているが、長籾と短籾に二大別される。東南アジアには長籾種、ヒマラヤの高地には短籾種がある。
長籾種は、亜熱帯に適応した種で、粘りが少なく、チャーハンやカレーなどには適する反面、おにぎりや寿司を握ることはできない。またその生育地が示すように、寒冷地での栽培はできない。
一方、短籾種は、やや高冷地の栽培が可能で、炊くと強い粘りがでる。
現在は多様種の稲があるが、日本に伝えられた当時の稲は、短籾種と考えられる。
では、その稲と稲作はいかにして日本に伝えられたか。これについては多くの研究があるが、ベトナムあたりから中国南部を経て、台湾、沖縄九州南部にいたる海上の道を経た説。ヒマラヤから中国四川省を経て揚子江をくだり、福建省から大陸に沿って海上を北上し、山東、朝鮮半島を経て日本に渡ったとする説。ヒマラヤから中国北部をまわり、北魏、旧満州、扶余、朝鮮半島を経て日本に渡ったとするが三概略説である。もちろん肯定、否定論はある。
米は農産品であるが、日本には農作物として栽培耕作技術とともに移入されたのは明らかである。
その農業技術とともに短籾種を日本に伝えたのはおそらく朝鮮半島の人たちであっただろう。
百済、新羅、高句麗(高麗)、任那に居住するひとたちが日本に渡来し、稲を作り始め、集団生活を営み、土地に定着する生活範囲を広げていった。それは日本に伝えたのではなく、自らの生活のためであったはずである。
それが次第に定着して、広域の文化圏を広げていったと推定されるが、古代の朝鮮半島の民族は単一ではなく、百済、新羅、高句麗、任那はそれぞれに戦いながら成立し、消えていった歴史がある。
その確執は日本に渡った民族間にも互いの反目となった。弥生時代と一口に言われるが、弥生人にもまた争いがあった。
日本には弥生時代以前には縄文時代があり、かつ、前期、中期、後期と大別される。
歴史上、この縄文時代がおわり弥生文化になったように考えられるのだが、縄文時代の終焉がそのまま弥生時代となったものではない。朝鮮半島にも若干の縄文時代の遺物が出土するといわれる。弥生時代のはじまりは、常識的に通用するよりもはるかに古く始まり、紀元前十八世紀あるいはそれ以上も古くにはじまり、縄文時代は紀元前三世紀くらいまでは続いていたのではないだろうか。
弥生時代は縄文時代と錯綜して同時期に並行して営まれていた可能性がある。
日本に稲作が伝わったのは弥生時代である。弥生時代はいわば稲作と農耕が、土地に定着した生活が確立していった時代ともいえよう。
稲の原産地は東南アジアからヒマラヤの低地にまで広がっているが、長籾と短籾に二大別される。東南アジアには長籾種、ヒマラヤの高地には短籾種がある。
長籾種は、亜熱帯に適応した種で、粘りが少なく、チャーハンやカレーなどには適する反面、おにぎりや寿司を握ることはできない。またその生育地が示すように、寒冷地での栽培はできない。
一方、短籾種は、やや高冷地の栽培が可能で、炊くと強い粘りがでる。
現在は多様種の稲があるが、日本に伝えられた当時の稲は、短籾種と考えられる。
では、その稲と稲作はいかにして日本に伝えられたか。これについては多くの研究があるが、ベトナムあたりから中国南部を経て、台湾、沖縄九州南部にいたる海上の道を経た説。ヒマラヤから中国四川省を経て揚子江をくだり、福建省から大陸に沿って海上を北上し、山東、朝鮮半島を経て日本に渡ったとする説。ヒマラヤから中国北部をまわり、北魏、旧満州、扶余、朝鮮半島を経て日本に渡ったとするが三概略説である。もちろん肯定、否定論はある。
米は農産品であるが、日本には農作物として栽培耕作技術とともに移入されたのは明らかである。
その農業技術とともに短籾種を日本に伝えたのはおそらく朝鮮半島の人たちであっただろう。
百済、新羅、高句麗(高麗)、任那に居住するひとたちが日本に渡来し、稲を作り始め、集団生活を営み、土地に定着する生活範囲を広げていった。それは日本に伝えたのではなく、自らの生活のためであったはずである。
それが次第に定着して、広域の文化圏を広げていったと推定されるが、古代の朝鮮半島の民族は単一ではなく、百済、新羅、高句麗、任那はそれぞれに戦いながら成立し、消えていった歴史がある。
その確執は日本に渡った民族間にも互いの反目となった。弥生時代と一口に言われるが、弥生人にもまた争いがあった。
日本には弥生時代以前には縄文時代があり、かつ、前期、中期、後期と大別される。
歴史上、この縄文時代がおわり弥生文化になったように考えられるのだが、縄文時代の終焉がそのまま弥生時代となったものではない。朝鮮半島にも若干の縄文時代の遺物が出土するといわれる。弥生時代のはじまりは、常識的に通用するよりもはるかに古く始まり、紀元前十八世紀あるいはそれ以上も古くにはじまり、縄文時代は紀元前三世紀くらいまでは続いていたのではないだろうか。
弥生時代は縄文時代と錯綜して同時期に並行して営まれていた可能性がある。