暘州通信

日本の山車

00209 伊奈波神社祭

2008年08月11日 | 日本の山車
00209 伊奈波神社祭
岐阜県岐阜市
伊奈波神社
□祭神
イニシキイリヒコノミコト 五十瓊敷入彦命
配祀神
ヌノシヒメノミコト 淳熨斗媛命
ヒバスヒメノミコト 日葉酢媛命
ヒコタツヒコノミコト 彦多都彦命
モノノベノトチネノミコト 物部十千根命
□祭
山車四臺を曳く。
・踊山車
・清影車
・蛭子車
・安宅車
□汎論
岐阜城のある金華山南麓に祀られる。景行天皇十四年に、イニシキイリヒコノミコトを奉祭するため、武内宿禰を遣わして椿原の地(岐阜公園丸山)に創祀したという。
ヌノシヒメノミコトは祭神の妃。ヒバスヒメノミコトは祭神の母。ヒコタツヒコノミコトは外祖父。モノノベノトチネノミコトは祭神の事業を補佐した功神とある。
天文八年に斎藤秀龍(道三)が稲葉山を築城したとき現在地に遷座された。
古社であるが延喜式神名帳に記載が無く、美濃国厚見郡に「物部神社」があることから、当社を物部神社に比定する説がある。
「緑したたる金華山、水清冽の長良川」と歌われる岐阜商業の校歌は、甲子園高校野球球児らによく知られ、夏の風物詩である岐阜の鵜飼は全国に知られる。
名古屋で曳かれていた山車を譲り受けて曳いていた伝承がある。いまは北部の上有知(美濃市)で曳かれている。
美濃市とは古来和紙を通じて親密な関係にあり、岐阜堤燈、傘、今は使われなくなったが謄写版原紙など美濃紙の名は夙に名高い。岐阜市玉井町には長良川から引水した運河があり、往古は和紙問屋が軒を連ねていた。和紙の伝統技術は、越前和紙で著名な今立方面から入ったという。
山車の囃子は
道行
早神楽
車切
帰り囃子
早笛


00087 氣比神宮祭

2008年08月11日 | 日本の山車
00087 氣比神宮祭
福井県敦賀市曙町一一
氣比神宮
□祭神
ケヒノカミ 気比神
ミケツノカミ 御食津神
イザサワケノカミ 伊奢沙和気神
□祭は九月上旬-中旬
敦賀祭、敦賀の山というときは氣比神宮の祭をいい、祭礼が約半月つづくことから「氣比の長祭」の名がある。山車六臺を曳く。祭の期間中いつでも山車が曳かれるわけではない。
□山車
・御所辻子山車 
元町
・金ヶ辻子山車 
桜、蓬莱町
・唐仁橋山車 
相生町
・東町(旭)山車 
相生町
・観世屋町山車 
相生町
・鵜飼ヶ辻子山車 
相生町
□汎論
気比神宮は北陸道(ほくろくどう)の総鎮守として祀られ、祭神のイザサワケノミコト、伊奢沙別命が気比大神古来の主祭神であろう、社伝によると文武天皇期(六九七-七〇七)に社殿が造営され、大宝二年(七〇二)に仲哀天皇と神功皇后を合祀したといわれる。これらは古記録や文献、資料等でさかのぼりうる年代で、さらに数百年を遡りうるのではと推定する。七柱の祭神を祀るとされるが不明な点が多い。
敦賀、若狭は古来朝鮮半島、大陸からの渡来系民族が多く上陸した地であり、断定はできないが、東の古関安発(あらち)を経て近江、山城、甲賀、美濃方面に定住したその玄関口でもあった。
穴穂(穴太)、安曇(安土)、三上、小野、息長、伊福(伊吹)、永原、国友などの各氏は敦賀から上陸した氏族と推定され、滋賀県蒲生郡の石塔寺、多賀大社、日撫神社、阿自岐神社なども敦賀から入ったと考証する。湖北を故郷とする神功皇后が、三韓征伐に船出したのもこの敦賀だったという。滋賀県の草津市に伊佐々神社がある。越、加賀など北陸から、あるいは上方から北陸へ旅する多くの旅人が往来の都度参詣に訪れ殷賑をきわめた。