文部科学省の「児童生徒の問題行動調査」によると、2011年度に全国の学校が把握したいじめ件数は7万231件にのぼるそうです。

都道府県別の集計を見ると、その「差」に改めて驚きますね。写真では切れてますが、児童生徒一千人あたりの認知件数で一番多いのは熊本県の32.9件。一番少ないのは、お隣の佐賀県の0.6件。その差はなんと約55倍です。実件数で見ても、熊本は6,832件で佐賀は68件。どう見ても不可解な数字です。
実は、熊本県は6月をいじめ根絶月間とし、アンケートなどを徹底的に実施した結果、この数字が弾き出された。一方の佐賀県はというと、アンケートで「いじめられた」とあっても、事実確認ができないうちは件数に入れていないのだという。それじゃ差が出るはずだ。
都道府県によって「いじめの認知」の仕方はかくも異なる。なので、簡単には比較してはいけないのですが、それにしても、このことからも「いじめ」のとらえ方がいかに難しいかということが分かりますね。確かに、いったいどこまでがいじめでどこからがいじめではないのか、判断するのは相当に難しい。文部科学省では、「本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。」とした上で、「いじめ」とは、
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」
と定義しています。また、いじめが学校内だけで起こるわけではないことから、「なお、起こった場所は学校の内外を問わない」と付け加えられています。
文科省の定義を待つまでもなく、基本的には、本人が「いじめられている」「精神的な苦痛を感じている」と感じたら、それはすべて「いじめ」だとみなすべきだと思うのですが、文科省も「けんかは除く」とわざわざ言っているように、けんかといじめも境界線もきわめて曖昧です。けんかをして、相手に負けて「精神的な苦痛」を感じたからといって、それがいじめに当たるのかといえば、それはちょっと違うような気もします。
この定義の注釈で、「「攻撃」とは、「仲間はずれ」や「集団による無視」など直接的にかかわるものではないが、心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む」とあります。「いじめ」をできるだけ広くとらえたいという意向が見られます。米国の心理学者G.W.オールポートは、「差別の段階」として、次の5段階を挙げています。
1 誹謗(陰口を言うなどの形で偏見を口にする。)
2 回避(かなりの不便を犠牲にしてでも、嫌いな人やグループに近づかないようにする。)
3 隔離(能動的・意識的に偏見の相手を拒絶し、分離、隔離追放するようになる。)
4 身体的攻撃(相手に対する嫌悪の感情が高まり、暴力の行使となる。脅迫的行為やいやがらせ、殴る、蹴るなど。)
5 絶滅(皆殺し、大量殺戮のような極度の暴力的行為。)
何気ない陰口、悪口(「誹謗」)が、暴力(「身体的攻撃」)に至るまでのプロセスは、いともたやすいという。だから、最初の差別の段階である「誹謗」をしないようにすることがまず大切。つまり、子ども同士の日常的なコミュニケーションにちゃんと目を配っていないと、「知らない間に」取り返しのつかないいじめに発展していたということにもなりかねないということですね。
一過性の対処療法では、いじめの根本的な解決にはつながらないことは当然のことです。丹念にしつこいほどの働きかけをしていかないことには、子どもたちに蔓延する「いじめ病」を根治させることはできないでしょう。いじめをなくすということは、「いじめる子」をなくすということなのです。
「自分が人にされて嫌なことは他人にもしない」というのは、いじめをなくすためによく言われるフレーズですが、これをさらに一歩進めれば、「自分が人に認めてもらえたと感じれば、他者を認めることもできる」となります。子どもたちが、それぞれにいろいろな形で自分を認めてもらえるような、そんな機会を増やしていかなければなりません。
そのためには、学校の先生だけではなく、地域や親も子どもたちの日常にちゃんと関わっていくことが必要です。なぜなら、それぞれの子の「良さ」を気づく人と気づかない人がいるから。たとえ先生が気づかなくても、その子の良さを認めてあげる人が一人でも地域にいれば、その子は救われます。自分が誰かに認められていると感じている限り、他人のことも認めてあげられるようになる。いろんな他者の存在を、その欠点も含めて本当に「認める」ことができれば、「いじめる子」など出てこないはずです。

都道府県別の集計を見ると、その「差」に改めて驚きますね。写真では切れてますが、児童生徒一千人あたりの認知件数で一番多いのは熊本県の32.9件。一番少ないのは、お隣の佐賀県の0.6件。その差はなんと約55倍です。実件数で見ても、熊本は6,832件で佐賀は68件。どう見ても不可解な数字です。
実は、熊本県は6月をいじめ根絶月間とし、アンケートなどを徹底的に実施した結果、この数字が弾き出された。一方の佐賀県はというと、アンケートで「いじめられた」とあっても、事実確認ができないうちは件数に入れていないのだという。それじゃ差が出るはずだ。
都道府県によって「いじめの認知」の仕方はかくも異なる。なので、簡単には比較してはいけないのですが、それにしても、このことからも「いじめ」のとらえ方がいかに難しいかということが分かりますね。確かに、いったいどこまでがいじめでどこからがいじめではないのか、判断するのは相当に難しい。文部科学省では、「本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。」とした上で、「いじめ」とは、
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」
と定義しています。また、いじめが学校内だけで起こるわけではないことから、「なお、起こった場所は学校の内外を問わない」と付け加えられています。
文科省の定義を待つまでもなく、基本的には、本人が「いじめられている」「精神的な苦痛を感じている」と感じたら、それはすべて「いじめ」だとみなすべきだと思うのですが、文科省も「けんかは除く」とわざわざ言っているように、けんかといじめも境界線もきわめて曖昧です。けんかをして、相手に負けて「精神的な苦痛」を感じたからといって、それがいじめに当たるのかといえば、それはちょっと違うような気もします。
この定義の注釈で、「「攻撃」とは、「仲間はずれ」や「集団による無視」など直接的にかかわるものではないが、心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む」とあります。「いじめ」をできるだけ広くとらえたいという意向が見られます。米国の心理学者G.W.オールポートは、「差別の段階」として、次の5段階を挙げています。
1 誹謗(陰口を言うなどの形で偏見を口にする。)
2 回避(かなりの不便を犠牲にしてでも、嫌いな人やグループに近づかないようにする。)
3 隔離(能動的・意識的に偏見の相手を拒絶し、分離、隔離追放するようになる。)
4 身体的攻撃(相手に対する嫌悪の感情が高まり、暴力の行使となる。脅迫的行為やいやがらせ、殴る、蹴るなど。)
5 絶滅(皆殺し、大量殺戮のような極度の暴力的行為。)
何気ない陰口、悪口(「誹謗」)が、暴力(「身体的攻撃」)に至るまでのプロセスは、いともたやすいという。だから、最初の差別の段階である「誹謗」をしないようにすることがまず大切。つまり、子ども同士の日常的なコミュニケーションにちゃんと目を配っていないと、「知らない間に」取り返しのつかないいじめに発展していたということにもなりかねないということですね。
一過性の対処療法では、いじめの根本的な解決にはつながらないことは当然のことです。丹念にしつこいほどの働きかけをしていかないことには、子どもたちに蔓延する「いじめ病」を根治させることはできないでしょう。いじめをなくすということは、「いじめる子」をなくすということなのです。
「自分が人にされて嫌なことは他人にもしない」というのは、いじめをなくすためによく言われるフレーズですが、これをさらに一歩進めれば、「自分が人に認めてもらえたと感じれば、他者を認めることもできる」となります。子どもたちが、それぞれにいろいろな形で自分を認めてもらえるような、そんな機会を増やしていかなければなりません。
そのためには、学校の先生だけではなく、地域や親も子どもたちの日常にちゃんと関わっていくことが必要です。なぜなら、それぞれの子の「良さ」を気づく人と気づかない人がいるから。たとえ先生が気づかなくても、その子の良さを認めてあげる人が一人でも地域にいれば、その子は救われます。自分が誰かに認められていると感じている限り、他人のことも認めてあげられるようになる。いろんな他者の存在を、その欠点も含めて本当に「認める」ことができれば、「いじめる子」など出てこないはずです。
もし、自分から見て嫌なことをする人がいて、そのことは人によっては許容の範囲である場合、どうしたらよいでしょうか。がまんして、陰口をして気を紛らすのが日本人の常套手段ではありませんか?これがエスカレートすると、いじめになると思います。
嫌だと思うことを、我慢しすぎないで上手に相手に伝える方法、言われたら真摯に受け止める姿勢を学校で教えなくては解決しないと思います。
アメリカの学校で、風邪をひいて咳をした時、先生に注意されたと聞いて驚きましたが、「私は不快である」と言うことを素直に表現できれば、いじめなくてすむんだという経験をしました