「コーディネート機能」が求められる場面が、最近増えています。目に見えるようなはっきりとした利害対立まではいかなくても、間に入る人がいれば物事がもっとうまく進むのにという場面を目にすることが多くなったような気がしませんか。
たとえば、この前書いた「モンスター・ペアレント」と学校の先生の関係にしても、「モンスターの暴走」を諫め、また学校にももっと情報公開を求めるような立場の人がいれば、学校が裁判の舞台となるような状況には至らないでしょう。
「モンスター」は、何も「親」だけに限りません。先日の地元紙(2007年7月5日付け東奥日報)には、「患者」の医者に対する理不尽な要求の事例が載っていました。夜間の救急外来でのエゴイズム丸出しの患者たち。「なぜ小児科医がいないんだ」、「いつまで待たせるんだ?」 なかには、「蚊に刺されて眠れない」とか「出張前で風邪気味なので薬をもらいに来た」とか、「救急」の意味を取り違えている人も多いらしい。救急外来に限らず、病院をコンビニやファストフード店と同じような感覚でとらえている人が増えているのかもしれません。そういう店では、どんな客でも「お客様」。客は、どんな要求でもすることができる。「モンスター・ペアレント」もそうですが、それは、強烈な「権利意識」の醜い発露でしかありません。理不尽な要求の背景には、「利用者」の権利ばかりが主張される風潮があります。
それにしても、過疎地に行くと、病院が統合されてしまったり、医師がいなくなったりして、それまでの治療を受けられなくなっているお年寄りがたくさんいます。本当に必要な人へのサービスができず、一方では「無駄」な要求に身を削られる。なんと不合理なことか。
そういう不合理も、両者の仲介役がいることで解消できるでしょう。患者のニーズと医者のシーズ(できること)を結びつける。もちろん、ニーズが理不尽であればあえて結びつけないこともある。つまり、ここでも「コーディネート機能」ですね。ニーズとシーズが直接ぶつかり合っても、あまりいい結果を生み出すことはないような気がします。自分がニーズと思っていることが、単なる過剰な権利表明でしかなかったり、シーズではないと思っていることが実はシーズだったりしますから。両者を冷静に見てくれて、適切なマッチングをしてくれるコーディネーターがいれば、1+1が3にも4にも化けることがあります。
ただ、言うのは簡単ですが、コーディネーターは本当にむずかしい。「あちら立てればこちらが立たず」とはよく言ったもので、コーディネートにはそういうことがしょっちゅうですね。ましてや、世の中どんどんフクザツになってきて、コーディネートもちゃんとやろうと思えばけっこうめんどくさい。
もっとも、昔は殊更に「コーディネート機能」なんて言わなくても、日本には「仲介者」がごく自然にあちこちに存在していました。自分を脇に置いといて、両者をさばくことができる人。あの人に頼めば大丈夫という絶対の信頼感を持つ人。
そんな「昔」には戻れないにしても、いろんな人がいろんな場でごく自然に「コーディネーター」するような社会が、今求められているのではないでしょうか。そのためには、ちょっとした「余計なお節介」を、ふつうに、自然に、かけ合えるようにすることが大切ですね。「お互い様」の精神で。
たとえば、この前書いた「モンスター・ペアレント」と学校の先生の関係にしても、「モンスターの暴走」を諫め、また学校にももっと情報公開を求めるような立場の人がいれば、学校が裁判の舞台となるような状況には至らないでしょう。
「モンスター」は、何も「親」だけに限りません。先日の地元紙(2007年7月5日付け東奥日報)には、「患者」の医者に対する理不尽な要求の事例が載っていました。夜間の救急外来でのエゴイズム丸出しの患者たち。「なぜ小児科医がいないんだ」、「いつまで待たせるんだ?」 なかには、「蚊に刺されて眠れない」とか「出張前で風邪気味なので薬をもらいに来た」とか、「救急」の意味を取り違えている人も多いらしい。救急外来に限らず、病院をコンビニやファストフード店と同じような感覚でとらえている人が増えているのかもしれません。そういう店では、どんな客でも「お客様」。客は、どんな要求でもすることができる。「モンスター・ペアレント」もそうですが、それは、強烈な「権利意識」の醜い発露でしかありません。理不尽な要求の背景には、「利用者」の権利ばかりが主張される風潮があります。
それにしても、過疎地に行くと、病院が統合されてしまったり、医師がいなくなったりして、それまでの治療を受けられなくなっているお年寄りがたくさんいます。本当に必要な人へのサービスができず、一方では「無駄」な要求に身を削られる。なんと不合理なことか。
そういう不合理も、両者の仲介役がいることで解消できるでしょう。患者のニーズと医者のシーズ(できること)を結びつける。もちろん、ニーズが理不尽であればあえて結びつけないこともある。つまり、ここでも「コーディネート機能」ですね。ニーズとシーズが直接ぶつかり合っても、あまりいい結果を生み出すことはないような気がします。自分がニーズと思っていることが、単なる過剰な権利表明でしかなかったり、シーズではないと思っていることが実はシーズだったりしますから。両者を冷静に見てくれて、適切なマッチングをしてくれるコーディネーターがいれば、1+1が3にも4にも化けることがあります。
ただ、言うのは簡単ですが、コーディネーターは本当にむずかしい。「あちら立てればこちらが立たず」とはよく言ったもので、コーディネートにはそういうことがしょっちゅうですね。ましてや、世の中どんどんフクザツになってきて、コーディネートもちゃんとやろうと思えばけっこうめんどくさい。
もっとも、昔は殊更に「コーディネート機能」なんて言わなくても、日本には「仲介者」がごく自然にあちこちに存在していました。自分を脇に置いといて、両者をさばくことができる人。あの人に頼めば大丈夫という絶対の信頼感を持つ人。
そんな「昔」には戻れないにしても、いろんな人がいろんな場でごく自然に「コーディネーター」するような社会が、今求められているのではないでしょうか。そのためには、ちょっとした「余計なお節介」を、ふつうに、自然に、かけ合えるようにすることが大切ですね。「お互い様」の精神で。
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