ジョン・トラヴォルタといえば、私たちの世代にとっては「サタデー・ナイト・フィーバー」。ぴっちりした白いパンタロン・スーツでポーズを決める姿は、ぬぐい去りたくても(?)決してぬぐい去れない記憶として脳裏に刻み込まれているのです。それから、「パルプ・フィクション」の哲学を語るスナイパー役も印象深い。あっけなく殺されてしまいますけどね。
彼は1954年生まれなので、「サタデー・ナイト・フィーバー」が23歳、「パルプ・フィクション」が40歳の時になります。そして今、53歳で「ママの遺したラブソング」。それぞれの世代で、とても記憶に残る役柄を演じられるのは、やっぱり名優というべきなのでしょうね。
この映画を観て、ある人が「タイトルで騙されるよね」と言っていましたが、ほんとにそう思います。まるで「女性向け」のような邦題ですが、実はこの映画は、完璧に、ジョン・トラヴォルタ演じる「ボビー・ロング」の物語なのです。原題は"A LOVE SONG FOR BOBBY LONG"ですし!だいたい、「ママの遺したラブソング」という割には、「ママ」の人物像が今ひとつ描き切れていません。確かに、「ママ」の娘であるパーシー(スカーレット・ヨハンソン)の視点で物語は進んでいきますが、これはパーシーと「ママ」の関係を描いた映画では決してなく、むしろボビーの人生にどうパーシーが絡まるかという物語。「ママ」は二人を結びつける存在でしかない。
監督・脚本は、この映画が長編としては初作品となるシェイニー・ゲイベル。彼女が、ニューオーリンズのバーでグレイソン・キャップスというシンガー・ソング・ライターと出会ったことからこの作品が生まれます。キャップスの父は元牧師という経歴を持つ教師でした。週末になると彼の家には作家や画家、ミュージシャンが訪れていたといいますが、その中で、父がとりわけ親しくつきあっていたのがボビー・ロングという男でした。キャップスの話してくれたそんな話をもとに、ゲイベル監督はこの物語を練り上げていったのではと思います。たとえば、映画の中で、ボビーが詩人や作家の文章を引用するシーンがたくさんありますが、それは、実在のボビーが「突然立ち上がって、T.S.エリオットの詩を朗読したりすることがあった」(中川五郎氏=映画パンフレットより)という逸話から着想を得たもの…なのかもしれません。ちなみに、グレイソン・キャップスは、テーマ曲"Love Song For Bobby Long"をはじめ、この映画のために数曲を書き下ろしています。
映画の中のボビー・ロングは、英米文学を講ずる元大学教授という設定です。家族とうまくいかず、大学もやめてニューオーリンズにやってくる。その辺のいきさつは説明不足という感じもしますが、頑固で皮肉屋、理想を追い求める性格が災いしたのかもしれないことは、うすうす察しがつきます。彼を慕う学生で今は作家を目指す青年ローソンも彼に同行し、二人はニューオーリンズの片隅で日々アルコールとタバコ、そしていつのまにか集まってきた仲間たちとの歌や語らいの日々を送っていました。野外に使い古しのソファやテーブルを並べて、思い思いに歌ったり、若い頃の思い出を語り合ったり。うらやましいといえばうらやまし過ぎる光景ですね。二人の「生活費」の出所が描かれないので、んん?とも思いますが、それはあえて触れないでおくことにしているのかもしれません。
さて、二人が共同生活を送る家は、仲間の一人だったロレーンという歌手のものでした。ロレーンがアル中で亡くなったことから、二人の生活に新しい「仲間」が増えます。それは、ロレーンの忘れ形見のパーシーという少女でした。パーシーは、設定が高校生なのですが、演じているのが、あの、セクシー系のスカーレット・ヨハンソンということもあって、どうにも「子ども」という感じがしないのです。困ったもんだ。だからというワケでもないのでしょうが、二人の彼女に対する関わり方も微妙な感じがあって、それはそれで楽しめるんですけどね。
ボビーとローソンが、酒場で言い争うシーンがいい。いつも人の言葉ばかりを借りてものを言う、とズバリボビーの痛いところを突くローソン。ほんとに、あれだけいちいち「引用」されると、取りようによっては嫌味でしかないのですが、ボビーの場合は、「英米文学者」という肩書のせいもあるのか、なんとなく納得してしまうのです。
知らない人と喧嘩するときは、まともにやってはだめだぞ。 ─アーサー・ミラー
わたしたちは人生の一ページといえども破くことはできませんが、本自体を火にくべることはできます。 ─ジョルジュ・サンド
一度死んだら、その後もずっと死んでなきゃいけないんですよ。 ─モリエール
「引用」される文献は、古典から現代作家まで、詩から哲学書まで、ものすごく幅広い。「ブンガクと共に生きる」というのは、こういうことをいうんだろうなと思いました。そんなボビーの人生観は、しかし、一人の娘の闖入によって「揺らぎ」を見せるようでもあります。しかし、結局のところ、彼はたぶん、何も変わらない。何も変わらないまま死んでいく。そうするのが俺の人生だと言うように。
映画の冒頭、ボビーががロレーンの形見だと言ってパーシーに渡す一冊のペーパーバックがあります。"The Heart Is a Lonely Hunter"(「心は孤独な狩人」)というタイトルの本を、いったんは帰ろうとするパーシーは、グレイハウンドバスの待合室で夜を徹して読みふける。読み終わったパーシーは、二人の家、「ママ」の家に戻ってくる。それから「3人の生活」が始まる。そして、映画のラスト、パーシーの卒業を祝う仲間たちのパーティで歌われる曲は、"My Heart Was a Lonely Hunter"(グレイソン・キャップス作詞作曲)。そう、「過去形」になっていました。パーシーの方は、明らかに人生が変わるのです。ボビーにラブソングを遺した「ママ」のおかげで。そして、ボビー自身のおかげで。
碑文が私の物語となるのなら
短い文を用意して
墓石に記そう
世間と痴話げんかをしたと
─ロバート・フロスト
決して目立つ作品ではないけれど、なんとなくほっとさせられるいい映画でした。
彼は1954年生まれなので、「サタデー・ナイト・フィーバー」が23歳、「パルプ・フィクション」が40歳の時になります。そして今、53歳で「ママの遺したラブソング」。それぞれの世代で、とても記憶に残る役柄を演じられるのは、やっぱり名優というべきなのでしょうね。
この映画を観て、ある人が「タイトルで騙されるよね」と言っていましたが、ほんとにそう思います。まるで「女性向け」のような邦題ですが、実はこの映画は、完璧に、ジョン・トラヴォルタ演じる「ボビー・ロング」の物語なのです。原題は"A LOVE SONG FOR BOBBY LONG"ですし!だいたい、「ママの遺したラブソング」という割には、「ママ」の人物像が今ひとつ描き切れていません。確かに、「ママ」の娘であるパーシー(スカーレット・ヨハンソン)の視点で物語は進んでいきますが、これはパーシーと「ママ」の関係を描いた映画では決してなく、むしろボビーの人生にどうパーシーが絡まるかという物語。「ママ」は二人を結びつける存在でしかない。
監督・脚本は、この映画が長編としては初作品となるシェイニー・ゲイベル。彼女が、ニューオーリンズのバーでグレイソン・キャップスというシンガー・ソング・ライターと出会ったことからこの作品が生まれます。キャップスの父は元牧師という経歴を持つ教師でした。週末になると彼の家には作家や画家、ミュージシャンが訪れていたといいますが、その中で、父がとりわけ親しくつきあっていたのがボビー・ロングという男でした。キャップスの話してくれたそんな話をもとに、ゲイベル監督はこの物語を練り上げていったのではと思います。たとえば、映画の中で、ボビーが詩人や作家の文章を引用するシーンがたくさんありますが、それは、実在のボビーが「突然立ち上がって、T.S.エリオットの詩を朗読したりすることがあった」(中川五郎氏=映画パンフレットより)という逸話から着想を得たもの…なのかもしれません。ちなみに、グレイソン・キャップスは、テーマ曲"Love Song For Bobby Long"をはじめ、この映画のために数曲を書き下ろしています。
映画の中のボビー・ロングは、英米文学を講ずる元大学教授という設定です。家族とうまくいかず、大学もやめてニューオーリンズにやってくる。その辺のいきさつは説明不足という感じもしますが、頑固で皮肉屋、理想を追い求める性格が災いしたのかもしれないことは、うすうす察しがつきます。彼を慕う学生で今は作家を目指す青年ローソンも彼に同行し、二人はニューオーリンズの片隅で日々アルコールとタバコ、そしていつのまにか集まってきた仲間たちとの歌や語らいの日々を送っていました。野外に使い古しのソファやテーブルを並べて、思い思いに歌ったり、若い頃の思い出を語り合ったり。うらやましいといえばうらやまし過ぎる光景ですね。二人の「生活費」の出所が描かれないので、んん?とも思いますが、それはあえて触れないでおくことにしているのかもしれません。
さて、二人が共同生活を送る家は、仲間の一人だったロレーンという歌手のものでした。ロレーンがアル中で亡くなったことから、二人の生活に新しい「仲間」が増えます。それは、ロレーンの忘れ形見のパーシーという少女でした。パーシーは、設定が高校生なのですが、演じているのが、あの、セクシー系のスカーレット・ヨハンソンということもあって、どうにも「子ども」という感じがしないのです。困ったもんだ。だからというワケでもないのでしょうが、二人の彼女に対する関わり方も微妙な感じがあって、それはそれで楽しめるんですけどね。
ボビーとローソンが、酒場で言い争うシーンがいい。いつも人の言葉ばかりを借りてものを言う、とズバリボビーの痛いところを突くローソン。ほんとに、あれだけいちいち「引用」されると、取りようによっては嫌味でしかないのですが、ボビーの場合は、「英米文学者」という肩書のせいもあるのか、なんとなく納得してしまうのです。
知らない人と喧嘩するときは、まともにやってはだめだぞ。 ─アーサー・ミラー
わたしたちは人生の一ページといえども破くことはできませんが、本自体を火にくべることはできます。 ─ジョルジュ・サンド
一度死んだら、その後もずっと死んでなきゃいけないんですよ。 ─モリエール
「引用」される文献は、古典から現代作家まで、詩から哲学書まで、ものすごく幅広い。「ブンガクと共に生きる」というのは、こういうことをいうんだろうなと思いました。そんなボビーの人生観は、しかし、一人の娘の闖入によって「揺らぎ」を見せるようでもあります。しかし、結局のところ、彼はたぶん、何も変わらない。何も変わらないまま死んでいく。そうするのが俺の人生だと言うように。
映画の冒頭、ボビーががロレーンの形見だと言ってパーシーに渡す一冊のペーパーバックがあります。"The Heart Is a Lonely Hunter"(「心は孤独な狩人」)というタイトルの本を、いったんは帰ろうとするパーシーは、グレイハウンドバスの待合室で夜を徹して読みふける。読み終わったパーシーは、二人の家、「ママ」の家に戻ってくる。それから「3人の生活」が始まる。そして、映画のラスト、パーシーの卒業を祝う仲間たちのパーティで歌われる曲は、"My Heart Was a Lonely Hunter"(グレイソン・キャップス作詞作曲)。そう、「過去形」になっていました。パーシーの方は、明らかに人生が変わるのです。ボビーにラブソングを遺した「ママ」のおかげで。そして、ボビー自身のおかげで。
碑文が私の物語となるのなら
短い文を用意して
墓石に記そう
世間と痴話げんかをしたと
─ロバート・フロスト
決して目立つ作品ではないけれど、なんとなくほっとさせられるいい映画でした。
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