文部科学省が「総合的な学習の時間」について見直しを検討するのだとか。これまで学習内容や評価については学校裁量としていたものを、大きく見直すことになりそうです。
「総合的な学習の時間」。最初に登場した時は、何だか長くて変な名前の教科だなーと思ったものでしたが、その趣旨を知るにつけ、これは学校の在り方を変える教科になりうるのでは…とどんどん期待がふくらみました。少なくとも、これまでの先生による「教科」中心の授業が変わるのではないかと。
しかし、結局はこの時間の内容を、教員自身が考えていかなければならなかったことが、多くの教員に嫌われることとなりました。ただでさえ忙しいのに、輪をかけて新しいことを企画したり実行したりということができなかったのです。調査によれば、中学校の教員の6割が「総合的な学習の時間」に反対なのだそうです。
そんな残念な結果を聞くと、時代や社会の変化に応じて、教育も変わっていかなければならないのに、学校だけは別世界なのかと思わざるを得ません。新しい仕掛けに対応していけないというのは、学校という仕組みの構造的な欠陥なのでしょうか? それとも学校を取り巻く家庭や地域社会が変わったために、子どもたち自身が教員の「手に負えない」状態になっているのでしょうか。
しばらく前のことですが、近くの中学校の運動会を見る機会がありました。
前日からの雨で少し遅れて始まった運動会は、いきなり先生の怒号から始まりました。入場行進の集合が「だらだらしている」ということで、おそらく体育の教員(女性)がマイクで怒鳴っているのです。「君たちはやる気があるのかっ~!?」。「○○中魂がナントカカントカだー!!」。
開会式が終わって競技が始まります。でも、なんとなく運動会らしくない。軽快な音楽が流れ、放送部員の実況中継が響き渡り、プログラムは順調に進んでいるのですが、どうしても違和感をぬぐい去ることができない。しばらく見ているうちに、その驚くべき理由に気がついてしまいました。
肝心要の、主役である生徒たちが「楽しんでいない」!のです。少なくとも、楽しんでいるふうには見えないのです。いやいや、とまでは言いませんが、なんだか種目があるから仕方なく走ったり跳んだりしている…という感じ。楽しいはずの運動会なのに、ちっとも子どもたちが生き生きしていない。
で、思い当たったのは、最初の先生の怒号です。もしいつもあんなふうに頭ごなしに精神論をぶたれてるのだとしたら、子どもたちは生き生きとなんかできやしません。規律ある団体行動の大切さはわかりますが、「○○しなければならない」、「○○でなければならない」だけでは息が詰まってしまいます。先生の言う通りにしか動いたり考えたりすることしかできないとしたら、本当に自分たちがしたいこと、言いたいことがわからなくなってしまいます。正しい答えはいつも先生が持っているとは限らないのに。正しい答えは自分たち自身の中にあるのかもしれないのに。
そんな「自分たちの中にある答え」を導き出すことができるほとんど唯一の教科が「総合的な学習の時間」ではなかったのでしょうか。だから面白かったのです。「学校らしくない」教科、というのもヘンな言い方ですが。
かつて、教員になりたての頃、先輩の先生に「教師はまず自分の専門教科が第一だ」と言われたことがありました。確かにそれはそうかもしれません。でも、「第一」しかないとしたらそれは問題かも、と思いました。担当するそれぞれの専門教科・科目で、「正解」に生徒を導くことが教員の存在理由であることはまちがいないのですが、第二、第三の存在理由の方がもっと大切かもしれません。言うまでもなく、それは生徒自身の内なる正解を引っ張り出す手助けをすることです。
「総合的な学習の時間」。最初に登場した時は、何だか長くて変な名前の教科だなーと思ったものでしたが、その趣旨を知るにつけ、これは学校の在り方を変える教科になりうるのでは…とどんどん期待がふくらみました。少なくとも、これまでの先生による「教科」中心の授業が変わるのではないかと。
しかし、結局はこの時間の内容を、教員自身が考えていかなければならなかったことが、多くの教員に嫌われることとなりました。ただでさえ忙しいのに、輪をかけて新しいことを企画したり実行したりということができなかったのです。調査によれば、中学校の教員の6割が「総合的な学習の時間」に反対なのだそうです。
そんな残念な結果を聞くと、時代や社会の変化に応じて、教育も変わっていかなければならないのに、学校だけは別世界なのかと思わざるを得ません。新しい仕掛けに対応していけないというのは、学校という仕組みの構造的な欠陥なのでしょうか? それとも学校を取り巻く家庭や地域社会が変わったために、子どもたち自身が教員の「手に負えない」状態になっているのでしょうか。
しばらく前のことですが、近くの中学校の運動会を見る機会がありました。
前日からの雨で少し遅れて始まった運動会は、いきなり先生の怒号から始まりました。入場行進の集合が「だらだらしている」ということで、おそらく体育の教員(女性)がマイクで怒鳴っているのです。「君たちはやる気があるのかっ~!?」。「○○中魂がナントカカントカだー!!」。
開会式が終わって競技が始まります。でも、なんとなく運動会らしくない。軽快な音楽が流れ、放送部員の実況中継が響き渡り、プログラムは順調に進んでいるのですが、どうしても違和感をぬぐい去ることができない。しばらく見ているうちに、その驚くべき理由に気がついてしまいました。
肝心要の、主役である生徒たちが「楽しんでいない」!のです。少なくとも、楽しんでいるふうには見えないのです。いやいや、とまでは言いませんが、なんだか種目があるから仕方なく走ったり跳んだりしている…という感じ。楽しいはずの運動会なのに、ちっとも子どもたちが生き生きしていない。
で、思い当たったのは、最初の先生の怒号です。もしいつもあんなふうに頭ごなしに精神論をぶたれてるのだとしたら、子どもたちは生き生きとなんかできやしません。規律ある団体行動の大切さはわかりますが、「○○しなければならない」、「○○でなければならない」だけでは息が詰まってしまいます。先生の言う通りにしか動いたり考えたりすることしかできないとしたら、本当に自分たちがしたいこと、言いたいことがわからなくなってしまいます。正しい答えはいつも先生が持っているとは限らないのに。正しい答えは自分たち自身の中にあるのかもしれないのに。
そんな「自分たちの中にある答え」を導き出すことができるほとんど唯一の教科が「総合的な学習の時間」ではなかったのでしょうか。だから面白かったのです。「学校らしくない」教科、というのもヘンな言い方ですが。
かつて、教員になりたての頃、先輩の先生に「教師はまず自分の専門教科が第一だ」と言われたことがありました。確かにそれはそうかもしれません。でも、「第一」しかないとしたらそれは問題かも、と思いました。担当するそれぞれの専門教科・科目で、「正解」に生徒を導くことが教員の存在理由であることはまちがいないのですが、第二、第三の存在理由の方がもっと大切かもしれません。言うまでもなく、それは生徒自身の内なる正解を引っ張り出す手助けをすることです。
なんだから、「やらされている」って感がぬぐえませんね。
私達の時代でも、そのきらいはあったように思いますが。。。。
高校の時、我が校は運動会・体育祭なるものがありませんでした。
何故か春に陸上競技大会なるものがあった為です。
でも、3年生になった時に、体育祭をやらないか、って話が持ち上がりました。
自分的には体育苦手だったので、体育祭なんてやりたくなかったのですが、競技内容は生徒が決めるって教師側の提案で、みんな俄然やる気が出てきたのです。
それで、みんが嫌いな、よくある全員参加の「100M走」などの競技はやらず、走るのは希望者のみのリレーだけで、あとは「スプーンリレー」とか「障害物競走」とか「つな引き」とか、ゲーム性の高い競技ばかりになり、当日はみんな燃えました。多いに楽しめました。
一人1競技はどれかに必ず参加する事にはなってましたが、生徒達の主体性に任せて、生徒達が楽しめる体育祭を開催させてくれた先生達に感謝しています。
公立の学校の教育内容は、あまりに型にはまり過ぎてるように思います。先生達にとっては、型にはまってる方がやりやすいと思われるのかもしれませんが、子供を一定の型にはめる事は、本来の教育からかけ離れていると思います。
最近、先生達のドロップアウトが増えてるようですが、柔軟性がないからじゃないのかな~って思えてなりません。一度全てをリセットして、子供達と向き合ってみて欲しいと思います。そこから必ず必要な事が生まれてくると思うのですが・・・。
いい体育祭ですねー。そういうやり方こそ、本当の学校教育なんじゃないかと思います。学校が、生徒を型にはめようとしているのだとすれば、それは先生が自信がないからだと思います。レッテルを貼ったり、枠にはめとくとなんか安心したりするじゃないですか。
自分自身の経験から、そう思います。
中学生がそういう「ポーズ」をとりたい年頃だということを差し引いても、本当に生き生きしている中学生をあまり見かけないなと思いますね。
内向きというか、せいぜい外への関心は仲のいい友だち同士に限られる。
それは多分に周りの大人たちのせいだと思います。生き生きしている大人(親や先生、地域の人たち)に囲まれている子どもたちはたいてい生き生きしていますから。