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殺人犯の首相

2010年01月25日 | うんちく・小ネタ

首相の収賄事件は、残念ながら珍しくもない話ですが、かつて、殺人事件を起こしながらも首相になった人物がいたことをご存知だったでしょうか。

明治21年から2年にわたり首相を務めた黒田清隆がその人です。

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黒田はもともと酒癖が悪いたちだったようですが、子供が2人とも生後まもなく死んだのをきっかけに、酒乱に益々拍車がかかります。

首相に就任する以前の大臣時代にも、飲酒の上船上から艦砲を撃つという無茶をやったこともあり、その砲弾が民家に命中し、家にいた少女を死亡させてしまいます。

その2年後にも、酔って帰宅し、妻を日本刀で殺すという事件を起こしたのです。

いずれも、数名の政府要人が彼をかばったため、黒田は厳罰されることもなく、事件はもみ消されてしまいます。

そして、その10年後、黒田は首相に就任します。

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いくら政治家として有能だとしても、2件も殺人事件を起こした犯人が首相になれるとは、今の日本では考えたくもない・・・ことですね。

50_2                           明治天皇が第2代黒田清隆内閣総理大臣に憲法を渡しているところ(和田香苗作画=衆参事務局『国会議会開設110年記念』より)。


121 コメント

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京のほけん屋様 (NOいちご)
2010-01-25 02:10:29
京のほけん屋様
驚き。
今度は明治にまで時代が戻るんですね。
歴史を掘り下げていくほけん屋さんの
すごいテクニックには、毎回びっくりします。
去年のクリスマスの時のキリストや宗教に
ついての紀元前などの話は、だんだん私には
難しくなっちゃいましたが、それでも、今まで
知らなかったことが判り始めて来た時は、
水面に泳ぎ出た時の、空気を吸える幸せにも
似ていて、嬉しかったです。

黒田清隆氏の概略を教えて下さい。
この時代から、政治家って・・・。ねぇ。
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Unknown (追えど日本橋)
2010-01-25 02:11:28
黒田清隆は、酔って妻を斬り殺したのに、
大久保が「私はやっていないと信ずる」と
参議達の前でかばい、なかったことに
したという話はホントでしょうか?
今の政治家も、似たり寄ったりかも。
妻を殺す・・なんてことはないまでも、
事実の隠匿や、裏工作、金まみれの
政治や選挙。これって、もう、断ち切って
欲しいですね。
結局、権力を金で買ってるようなこと。

せっせと税金を払って、お国の決めた
ルールに従っている国民が、一番、
バカみたいです。
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NOいちご 様 (京のほけん屋)
2010-01-25 02:27:38
NOいちご 様
コメントに感謝致します。

政治の世界は、今も昔も混沌と
していますね・・・。

黒田清隆の概略です。
1840年(天保11年)鹿児島城下で
  薩摩藩士黒田清行の長男として
  生まれる。
1863年(文久3年)の薩英戦争で
  初めて実戦に参加。
1868年(明治元年)鳥羽伏見の戦いに参戦。
1868年(明治元年)奥羽征討で、河井継之助
  の守る長岡城を山県有朋とともに攻略。
1869年(明治2年) 榎本武揚率いる旧幕府軍
  の立て籠もる五稜郭を攻撃。
1874年(明治10年)の西南戦争に従軍、
  鹿児島襲撃や熊本城の救援で功を挙げた。
1882年(明治22年) には、伊藤博文の禅譲を
  受け第2代総理大臣に就任。
1900年(明治33年)61歳で没。
  「今夜は熟睡しよう」と言って亡くなったという。

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追えど日本橋様 (京のほけん屋)
2010-01-25 02:49:18
追えど日本橋様
コメントを有難うございました。

明治十一年(1878年)に黒田清隆が
その妻を惨殺するという事件が起っています。
清隆は名うての酒乱で妻を惨殺したのですが、
殴殺したとも蹴殺したともいわれていました。
大隈重信も伊藤博文もこぞって法に照らして、
処罰せよと言ったのですが大久保利通は、

「黒田は私の同郷の者で、親しい友人である。
したがって、私がよくその性格を知っている。
黒田は断じて妻を殺すような冷酷な男では
ない。私が保証する」

と話し、さらに当時の大警視・川路利良に
死体を検分させます。
川路は検死官と共に墓地へ行って棺を
開いて「他殺の形跡はない」と宣告すると
蓋を閉じてしまいます。
利通がこの結果を公表して騒ぎはたちまち
おさまってしまったそうです。

第2代総理大臣で、当時大久保利通に
次ぐ薩摩閥の重鎮であった黒田清隆が、
陸軍中将を兼務した参議開拓長官だった
1878年(明治11年)3月28日の深夜に、
夫人の「清(きよ)」が逝去しました。
葬儀翌々日の30日に各大臣、皇族の
代理なども参列して厳かに行なわれた
のですが、葬儀が終わるとすぐに清夫人は
病死ではなく、夫の清隆に殺害されたという
流言が飛び始めます。この噂は以前から
素面のときは豪快で闊達。しかし情にもろく
温厚な一面も持つ清隆が、実は酒乱の
癖があることから、この夫人の死には、
ある騒動が原因で起こった出来事だと噂が
飛び交ったのです。


3月28日の深夜、酩酊して麻布笄町
(現港区立高陵中学あたり)の屋敷に
戻った清隆は、妻の清から当時清隆が
懇意にしていた芝神明の芸者との仲を
恨んだ小言を散々聞かされます。そして、
しばらくは小言を黙って聞いていたのですが、
いつまでたっても尽きない小言に逆上した
清隆は、居間から日本刀を取り出すと、
袈裟懸けに妻を切り倒してしまった(別説
には殴り殺したとも、蹴殺したともいわれる)
のです。事の重大さから酔いも一遍に醒め
てすぐに我に返った清隆は、妻の亡骸を
抱いて号泣したのだとか。そして物音に
驚いて起き出した家人も凄惨な光景を
みて肝をつぶしたのですが、その中の家令が
事の重大さを察して大警視川路利良に
急報。かけつけた川路大警視は同じ
薩摩閥の要人の窮境を救うために、
清隆を慰撫すると融通のきく医者に病死
の診断をさせ、また家人には厳重な緘口令
をしき、清隆自身のアリバイ工作までして
事件のもみ消しを図ります。

しかし、人の口に戸は立てられず、数日後
には広く世間に噂されるようになってしまい、
顕官の横暴だと黒田批判が強まったそうです。

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黒田清隆の事績について教えて下さい。 (へ草ゴン)
2010-01-25 21:44:48
黒田清隆の事績について教えて下さい。
この方のお名前は~、知りませんでした。
またまた、恥ずかしい思いを・・。
自分の無智加減がよ~く判りますね。

京のほけん屋さんのマジックは、
年明けから全開ですね。
驚いてばかりです。こういう情報を記事に
できることがすごいですよ。
まぁ、無智な私が褒めても、ダメかも
知れませんが~。

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黒田氏の生い立ちと幕末頃の活動ぶりを (白金台のおぼっちゃま)
2010-01-25 21:45:49
黒田氏の生い立ちと幕末頃の活動ぶりを
教えて下さい。
激動の時代に生きていた訳ですから、
様々な武勇伝なども・・あるのかなと、
ちょっと期待をしています。
そのくらいの勇士で逢って欲しいですよね。

伊藤博文にせよ、大久保利通にせよ、
幕末の活躍あっての政界入りですから。
おっと、そういうことだと、今の政治家は?

頼りない、頼りない。

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黒田清隆の武勇伝は、意外と知っている (タラバのカニ)
2010-01-25 21:57:17
黒田清隆の武勇伝は、意外と知っている
つもりでしたが、戊辰戦争での彼の史記
は、ついぞ読んだことがありません。
胸躍る、好きな時代の記事だけに、もう
ワクワクしています。
戊辰戦争について教えて下さい。

友達にこのブログを紹介したら、えらく気に
入ってました。その内、コメントを書き残すと
思いますよ。
その時は、宜しくお願いします。
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黒田清隆氏は、樺太の開拓使ですよね。 (駅スパート)
2010-01-25 22:04:26
黒田清隆氏は、樺太の開拓使ですよね。
幕末、明治という時代の樺太は、様々な
人種問題や豪雪、手のつけようもない
未開拓の土地など、問題ばかりだったことでしょう。

それにあの時代、中国、ロシアの勢力も強く、
特にロシアには、いつ侵食されるかわからない
外交のむずかしさがあったと思います。

彼の開拓使としての職務実績を教えて下さい。
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Unknown (再度倍再度)
2010-01-25 22:10:15
先のコメントにもありましたが、
黒田の外交能力や西南戦争の時の、
彼の活躍についてはどうですか?
あまりこの人の当時の活躍については、
学ぶ機会が無かったように思います。
でも、アイヌ人を樺太から北海道へ
移住させたのは彼の配慮?だったように
記憶していますが、どうでしょうか・・
あの時代、まだ一戦交えていない
諸外国に対して、鎖国的見地から、
大日本は最強国という思いがあり、
様々な思惑や国策が彼らに一任
され、動いた時代ですよね。
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駅弁のサンドウィッチの生みの親は (ピラテス)
2010-01-25 22:18:28
駅弁のサンドウィッチの生みの親は
黒田清隆だと聞きました。
ほんまいかな?チッチキチィ~!
古いかな、このギャグ・・。

駅弁と黒田との関係が、どうも繋がりません。
本当に関係があって、起案者だとしたら、
すごい話ですね。

当時でいえばハイカラな駅弁といえそうですね。
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