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富士山測候における気骨とは

2010年02月08日 | うんちく・小ネタ

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明治時代に生きた人物の話を読むと、「気骨」という言葉以外、評する言葉がない人がいます。
                                                               その人物の名は野中至とその妻野中千代子。

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野中は、日本の気象学発展のためには高層気象の観測が是非とも必要と考えました。そしてその観測の最適地は富士山頂で、ここでの通年観測することが必要だと訴えました。しかしいくら主張してもそんな高所での通年観測など出来るはずもないと相手にもされません。富士山は昔からよく知られた山であり、夏の富士は登山客で溢れるほどですから、登りやすい山と思う方もいるかも知れませんが、さにあらず。単独峰で風雪風雨の影響が強く、またもろい土質で落石も多い危険な山です。ことに冬の富士山は現在の登山技術を持ってしても大変危険な山なのです。

強風と厳寒、そんな冬の富士山で気象観測なんてとても出来るはずがないというのが当時の分別ある人達の一致した意見でした。

野中はこうした当時の常識を覆すためには実際にやってみせるしかないと考え、私財を投じて富士山測候所の元となる野中測候所を作りました。(明治28年、1895年)

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野中もやはり一番問題と考えたの冬の富士山頂の風と寒さ。そのため実際の「富士山の冬」を経験するため、この年の 1、2月に冬季の富士登山を行っています。当時のことですから冬山用の登山用品などあるわけもなく、ツルツルの氷と化した雪面を登るための靴作りから始めなければならない有様だったようです。

野中測候所が完成し、通年観測を目指して観測が開始されたのは10月1日。2 時間毎に 1日12回の気象観測をたった一人で行い始めます。
毎日一日中 2時間毎の観測を一人でするのですから寝る間もないことになります。ちょっと考えれば計画段階で「無理がある」と解りそうなものですが、そこはそれだと、野中さんは無理だとは考えません。やってしまうわけです。

とはいうものの、少なくとも衣食住の世話くらしてあげないと。そう考えて山に登ったのは野中千代子。つまり野中至の細君です。

細君の支援を受けて多少は現実的になった観測でしたが、それでもやはり無理なものは無理でした。結局、この無謀な冬季観測は途中で中止せざるを得ませんでした。

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寒さと高山病、栄養失調で野中至は歩くことも出来ない状態になり(それでも膝に草鞋をくくりつけて這って観測をしていたそうです)、このままでは野中夫妻の生命が危険と考えた支援者の送った救援隊に観測中止を説得されて夫妻はついに観測継続を断念、 12/22に富士山頂から担ぎ下ろされました。

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救助隊の救援によって一命は取り留めた野中でしたが、健康が回復するとまた何度も富士山に登って観測を継続し、こうした彼の活動が徐々に認められるようになって、彼の提唱した富士山での高層気象観測の重要性も認識され、ついには、富士山測候所が建設されることになりました。
この日は、富士山測候所の記念日であるとともに、気骨ある一人の大馬鹿者とその妻の記念日でもあると言われています。

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ちなみに、富士山頂の連続滞在日数の記録は、現在でもなおこの明治28年に記録された野中至の滞在日数83日。そして第 2位の記録はその妻、野中千代子の滞在日数71日です。

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