阿津賀志山と書きます。 蔵王近く 標高289m。
文治5年(1189年) 7月19日 いよいよ奥州征伐に発向した
頼朝は 軍勢を3手に分けます。
頼朝は 宇都宮を経て白河関に至る 東山道、 比企能員らは
日本海側の北陸道、 千葉常胤らは太平洋側の 東海道。
頼朝の先陣には 畠山重忠。
8月7日 ここを合戦の拠点として 平泉が造った長さ3kmにも及ぶ
空堀2つ水堀1つを かねて用意した鋤鍬で 重忠は埋めさせる。
8月8日 数千騎での 箭(や)合わせは 鎌倉側に分あり。
8月9日 翌日に予定された合戦に 7騎が抜け駆けをするのを
重忠は黙認する。 7人それぞれにお家再興の手柄を欲していた。
7人は 9日夜半 あつかし山の裏手から奇襲にかかる。
一人死ぬも 好戦、 明け方あつかし山に到着した頼朝軍に 平泉は
あっけなく敗れる。
あつかし山の陣の大将 藤原国衡(嫡男泰衡の異母兄)は巨漢だった。
和田義盛と相まみえるが 体に応じた箭(や)が長いので引きに時間が
かかり 先に義盛に腕を射られてしまい 敢え無く重忠の臣に鳩首される。
ちなみに国衡の箭の長さは14束(そく 1束8cm) やはり剛の者義盛
の箭は13束、 10束から12束が普通だったそうです。
雪になれば勝算あり。
平泉は 2か月持ちこたえるつもりでした。
たった3日で けりがつきました。
7騎の抜け駆けを容認した 重忠と頼朝の 大物振りが見事です。
そんなこんなの 今日の吾妻鏡。
風呼 でした
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます