20年前には ここに改札があった。
カプセルの家
一緒に帰ろう
同じ駅で下りる 私遠回りだけれど
この踏切から貴女の家まで
ほんの2分 いいわね駅から近くて
次に遮断機が上がったら
私 渡って帰るね
あっ また下がった
真っすぐ伸びた線路の先に 太陽が
西半球を真っ赤に染めて日暮れるまで
20年ぶりに降り立った駅は
高架になっていて
踏み切りのありかも
彼女の家も見つからない
昔の友とは連絡を絶ち
老いた母と未婚の姉と彼女とあの家で
今も ひっそり暮しているという
3を一つ足して
電話番号はあの日のまま
(今日はありがとう でももう電話をしないでね)
昭和という時代に覆われた
カプセルの家で
世紀まで変わったのにも頓着せず
彼女はどんな姿で生きているのだろうか
ひっそりと(何故か3人で) 時間を止めて生きている家の 多さ。
風呼r でした
何を 何処を見ているの? そんな13才の少女に会いました。
クローバー畑で
四葉のクローバーは
きっと見つかる
丹念に丹念に探せば
一枚見つければ
次も見つかる
コツさえ身につければ
五つ葉だって
六つ葉だって
コツさえ身につけば
人生もそんな風に送れるらしい
だけど私は厭
四葉のクローバーなんて
もう探さない
はしょった幸せなんて
はしょって終わるに決まっている
13年生きていれば解る
手に届くところにある ほらそれは
本当の幸せかしら
私はいつもふくれっ面と
同級生は言うけれど
そんなにつまらない事で
笑えるなんて
笑ってる振りができるなんて
私の場合 ふくれっ面も 笑った振りも 代わりばんこの 13才。
風呼r でした
今日の東京スカイツリーです。
間もなく展望台は雲に隠れて見えなくなりました。 小雨になりました。
スカイツリーから 浅草寄りに500mのところにある アート石井 というスタジオで ジャズシンガーの 大橋美加さんが教えていらっしゃる 教室のミニコンサートがあり 別の場所で大橋先生にヴォーカルを習っている私も 出させて頂きました。 今年1月に始めたばかりですが プロのピアニストの伴奏で歌えるなんて もう二度とないかもしれないと 思われたからです。
初めはびっくり 尻込みしていたのですが 出るからには二曲歌いたいと思い 大橋先生にお願いして レッスンを増やしてもらって 大好きな Cry Me A River を入れて貰いました。 (もう一曲は ペーパームーンです)
ヴォーカルには 必ずピアノソロが入るそうで ソロの後の歌い出しにくれぐれも注意と 大橋先生に繰り返し言われていたので ピアノソロの間も大緊張で 口パクで歌っていました。 全く余裕なんてなし。 家に帰ってリハーサルで録ったのを聞いたら ピアノソロがあんまり素晴らしいので 是非、 他の方にも聞いていただきたく UPしてみました。 ピアノ伴奏は 二村希一さんと 仰る方です。 プロ中のプロが 私の為に演奏してくださいました。 (ちなみにグランドピアノです) もう大感激です。
リハーサルなので 他の音も入ったりしています。 最後の方の歌は私メです。 お聞き苦しかったら 止めて下さいね。 本番は上ずらずに もう少し上手くいったと思います。 RIVERの発音もね。
吾妻橋渡ろ
吾妻橋わたろ
赤い欄干の
行く先は
浅草雷門
振返れば
東京スカイツリー
吾妻橋わたろ
吾妻橋渡って
お江戸の時代に
タイムスリップ
本所吾妻橋から 浅草方面へ 吾妻橋を前にすると 広重の絵の中に紛れ込んだようです。
風呼r でした
6月23日は 沖縄の終戦記念日です。 日本で一番早く戦争が終わりました。 アメリカに占領されたのですが。
まだ本土に来るには パスポートが必要だった頃、上京してきた友人の証言です。 友人は戦争は知らない世代ですが 沖縄では どの家でも戦争で亡くなった人があったので 親、祖父母によって 語り継がれているのです。
赤い果実
太陽に愛され
緑満ち満ちた地に
ゆったりと五段音階の曲が流れる
「シックという言葉の
似合わない島なの。
派手な色でないと
太陽に負けてしまうの」
小島の王国ゆえ
生き残る為 友好を重んじ
500年前に武器を棄てた
「島の四分の一の人が
死んだと言うけれど
もっと多い気がする」
長老が声を潜めて言う
戦後暫くは
まるで流れた血を吸ったかのように
赤い作物が
大きく実った と
写真は 6月19日に放映された NHKスペシャル 『 昔 父は日本人を殺した 』 の一場面です。 (7月28日(木) 0:15~1:4 深夜 再放送) ピューリッツアー賞を受賞した作家の 沖縄戦のドキュメンタリー、 彼の父は沖縄に上陸したのですが240人いた隊員のうち 31人しか生き残らなかった。 つまりアメリカ兵も沢山死んだので 島民の四分の一より 遺骨も多かった。
生き残った兵も 今はもうとっくに80才を過ぎています。 亡くなった人も多い。 今だから語れる、 語らずには死ねないと 彼のインタビューに答える人は 日本人もアメリカ人も 同じ表情をされています。 この写真の方のように。
66年経ちました。 インタビューに答えた一人の元米兵は言います。 「66年も戦争をしていないって 素晴らしい。 アメリカは幾つ戦争をしてきたんだろう」
沖縄の五段音階とは ご承知のように ド・ミ・ファ・ソ・シ で レとラがありません。
風呼r でした
鎌倉材木座は 小路(こうじ)の町です。
材木座本通り 日蓮宗妙長寺 の斜め前、 思わず入って行きたくなる この小路は 小さな小さな 神社 音松稲荷へと 続きます。
音松稲荷
小さい小さい社殿
どのくらい小さいかと言うと
社殿前に置かれた賽銭箱が
貯金箱くらい
こんなに小さいのに
昔は鎌倉三大稲荷の一だったそうな
掌に乗る
おきつねさん
油揚げも小さかろ
こんなに狭い路を通って
子供神輿も出るそうな
この路は神社に向かって右側、 反対の左側の路のちょっと先は 敷石二枚の幅で 直角に曲がっている!
子供神輿は どう進む?
風呼r でした
追伸 八幡宮の大銀杏は 蝿よけ箱のようなもので覆われていて 絵になりません。 中を覗いてみましたら 枝は伸びているが 葉はついていなかったようです。
これは イラクの地図です。 緑色がクルド人居住区。 イラン、イラク、シリア、トルコにまたがっています。 クルド人総数は 2~3000万人と推定されていますが 4つの国に分かれているので どの国に於いても 少数民族です。
クルド人居住区は 石油の埋蔵量が多いため どの国にも狙われています。 特にフセイン政権時のイラクは 徹底的に クルド人を圧迫します。
1986~1989年には フセイン元大統領による アンファル作戦によって 18万人にものぼるクルド人が虐殺されました。 つまり男たちは兵にするといって連れ去り 残された女子供たちには 上空から化学兵器を撒いたのです。
連れ去られた男たちは 殺され 集団墓地に埋められていました。 集団墓地は 現在までに300余り見つかっています。 夫や息子、父親を探しに チャドルの女たちが 墓地から墓地へ 砂漠を彷徨います。
この映画の主人公は 12才の少年、 1991年にイラク軍に連れ去られた顔も見た事の無い父親を探しに 2003年、フセイン政権の倒れたすぐ後に 祖母と出かけます。 母親はすでに死亡しています。 父に命を助けられたという人からの 一通の手紙を頼りに。 その手紙には 父親は900キロ離れた ナシリアの刑務所にいるとありました。
バビロンの空中庭園
ペルシャ語を話せない
おばあちゃんと
お父さんに会いに行く
2600年前世界一栄えた
バビロン
王が王妃の為に造ったという
五段の庭園
そこからバベルの塔も見えた
50メートルもの高さまで
どうやって水をくみ揚げたかが
今も謎の庭園に
おばあちゃんは連れて行ってくれると
約束をした
刑務所にお父さんはいない
近くに見つかった集団墓地の
名簿にも名前はない
次の墓地へ
トラックの荷台の上で
病気持ちのおばあちゃんが
弱っていく
あっ、 おばあちゃん
空中庭園跡はここだよ
入り口を通り過ぎた時
祖母は
動かなくなっていた
少年は父の形見の
縦笛を吹く とうとうひとりぼっち
砂漠に沈む夕陽の
凄まじいまでの赤さ
集団墓地で ペルシャ語しか離せない若い女と クルド語しか話せない祖母が 会話する。 言葉はわからなくても 哀しみは共有できる。
黒いチャドルの女たちがのる トラックを イラン・イラク戦争で死んだ兵士の棺を載せたバンがすれ違う。 たった一人に一台の車、 まとめて埋められた遺体。
今も見つからない 東日本大震災の犠牲者を思う。
人の命の理不尽を思う。
風呼r でした
セナの F1レーサー時代は プロストとの一騎打ちでした。
セナvsプロスト
1984年 雨のモナコ
プロストがレース中止を訴える
ゴール地点で振られる
赤旗 と チェッカー
直前で止まったプロストを
セナは抜き去りゴールする
ゴールラインを超えたのはセナ
けれど優勝はプロスト
セナは二位に甘んじた
F 1会長もプロストもフランス人
息がぴったりの仲良しさん
レースに政治はつきもの
初の表彰台でセナは思い知る
インフレと貧困にあえぐブラジルの セナは唯一の希望となります。
セナ自身は 裕福な家庭の出 カートレースでその才能を見出されました。
さまざまなプロストとの確執、 切磋琢磨がレース中も レース外も繰り返され それがF1人気を高めていきます。
が、セナはまだブラジルで勝っていませんでした。
1991年 ブラジル
一人勝ちだった
あと数周でゴール
その時 ギアがいかれた
6速のまま動かない!
雨が降ってきた
雨は幸運の女神サ
今日はセナの
31回目の誕生日だし
6速のまま走り続ける
走り抜ける
ゴーーール!!!
1988年 クリスマス番組で 恋人がカメラの前でセナにキスをした。 一回では足りずに 1989年の分、 1990年の分、 1991年の分、 1992年分と1993年分。 と 合計6回。 セナの顔は 口紅だらけになった。 1994年のクリスマスは迎えられなかったセナの予言のようだったと 後に 人々は思った。
F1カーとサンバ
F1カーと踊る
僕のリードで 始めはね
アクセルを踏み込めば
もう君・マシーンの世界
二人だけ 最速の
サンバ
二人だけ 忘我の
サンバ
命を懸けたサンバ
サンバ
1994年イタリア・イモラ、 4月29日 親友がクラッシュをして怪我、 30日 ドライバーの死亡事故が起こる。 なぜか走りたくなかったセナ。 5月1日 壁に激突して死亡。
5月1日朝 セナがひもといた聖書のページには こうありました。
『神は偉大なる贈り物を 貴方に与えるだろう。 それは神自身だ』
この映画 『アイルトン・セナ~音速の彼方へ』 は セナ生誕50周年を記念して 2010年に制作されました。 DVDで見ましたが F1ドライバーと言えば セナとシューマッハしか知らない私でも 面白かったです。 セナがセクシーだし。
このDVDの発売日は 2011年3月21日(生きていればセナの51回目の誕生日)です。
生前から ブラジルの子供達に支援を続けていたセナの意思を継いで 死後、お姉さんがアイルトン・セナ財団を立ち上げます。 管財人は 宿敵 A・プロスト。
アイルトン・セナ 1960年3月21日生まれ、 血液型B 左利き。
享年34。
生きていたら きっと今もセクシーで 世界中の女性を痺れさせている事でしょう。
風呼r でした