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義経首実検など  ”吾妻鏡”

2012-05-23 23:49:06 | 吾妻鏡

 

 

文治五年(1189年) 6月13日、藤原泰衡によって討たれた義経の首が

腰越に届き 和田義盛、梶原景時らが 首実検をした。  首は黒漆の櫃に

酒(美酒)漬けにされていた。 涙なしには見られなかった。

 

腰越・片瀬は 当時 誰姿森(たがすのもり) と呼ばれ うっそうとして暗い

首実検にふさわしい場所だったそうです。

 

そもそも 秀衡は 義経を匿っていれば 頼朝と互角であり続けると 嫡男

泰衡に 遺言しました。  この後 泰衡は保身の為 義経寄りだった末弟

頼衡、 同母弟 忠衡 をも殺すことになります。

 

どうしても奥州藤原氏を征伐したい頼朝と 頼朝牽制のため 藤原氏を残して

おきたい後白河法皇との やりとり、 兵はもう集まってしまい 前に進むしか

ない頼朝の心中を察し 最長老(84,5才)の 大庭景能が言います。

 

泰衡は鎌倉の御家人であるから これは 天皇には係わりのない身内の話

である。 綸旨(りんし 天皇の言葉) がなくても 何の問題もない。 

 

この言葉に感激した頼朝は 景能に その場で馬を一頭賜います。

保元の合戦(1156年) で負傷し 歩行が不自由になった景能を 思いやって

の事です。

 

濡れ広縁に座っていた景能に 小山朝光が引いてきた馬の縄を さっと投げ

ます。  微動だにせず老翁は片手で捕ります。  庭に下りるのも困難な

景能を慮っての 朝光の とっさの判断でした。

 

 

そんな こんなの 今日の吾妻鏡購読。

来月はいよいよ 奥州征伐、 講師の目が 輝いてきましたよ。

      風呼    でした          

 

          

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