《マックス・ジャコブ》
青の時代の詩に書いた ジェルメールは 不幸な晩年を迎えます。
貧しい病床にある彼女を ピカソは度々訪れ 枕元に金銭を置いていった
そうです。 気に入らなければそこまでするか というピカソですが
こんな面もあったのですねぇ。 けれどピカソの性分からして 優しさからなんて
単純な感情からではないと思われます。 一緒に連れて行った 当時の愛人の40才年下の フランソワーズ・ジローに いいところを見せたかったのか 悲惨な状況のジェルメールを前に 優越感に浸りたかったのかの どっちかではないかと(もしくは両方) 私は思うのですが。
マックス・ジャコブ
着古した礼服に穴あきの靴
シルクハットにステッキついて
ムッシュージャコブ 心は貴族
すれ違う人はその優雅さに
「ボンジュール ムッシュー、コマンタレヴ(ご機嫌如何)?」
ある日小さな画廊の個展で
衝撃的な絵に出合う
磁石のように吸い寄せられ目が合った
作者は二十才 たどたどしいフランス語
ムッシュージャコブ 片言のスペイン語
ええい もどかしい
手を握り しっかり見つめれば
この感動は全て伝わる
ムッシュージャコブはとっても貧乏
けれど画家はもっと貧乏
ムッシュージャコブ 自分の住まいに画家を呼ぶ
あら大変
狭い部屋にベッドは一つ
だいじょうぶ 大丈夫
若い画家は昼間寝て
一晩中 絵を描いている
ムッシュージャコブはこの貫禄で
弱冠25才、詩人で画家で評論家
片眼鏡の慧眼は多くの才能を世に出した
男好きの性癖で度々噂を振りまくが
同居する画家とは魂の交わり
それから40年余り経ち
画家は押しも押されぬ世界の大巨匠
ムッシュージャコブ とっても満足
静かに男色を懺悔する日々を送っていたが
ゲシュタポの手は僧院にまで及び
1944年2月 友人たちの助けを待ちながら
‘ヤコブ‘小父さん 暗い不衛生な収容所で死んだ
ユダヤ人はここから アウシュビッツかダッハウの強制収容所に 直送されるとい
う パリ北東にある ドランシーの収容所に向かう列車の中から マックス・ジャコブは 友人ジャン・コクトーに手紙を書きます。 マックス・ジャコブは有名でしたので 厳しい憲兵も見逃したのです。 コクトーは直ちに助命嘆願書を作成し後のフランス文化相になる アンドレ・マルローを始め 多くの著名人の署名を
添えて 自らドイツ大使館に行き 直接参事に手渡します。マックス・ジャコブは30年前にカソリックに改宗していると 付け加えるのも 忘れませんでした。
コクトーの 再三の要請にも拘わらず ピカソは署名しませんでした。
1937年、スペインの小さな町への ドイツ軍の無差別爆撃を 糾弾した絵
『ゲルニカ』 を描いた事で ピカソは ドイツ軍からも 爆撃を要請したとされるスペイン フランコ政権からも 監視されていました。 戦時中 パリ市内を転々と住まいを変えた ピカソでしたが 何処に転居しても ゲシュタポは必ずやってきました。 さすがのピカソも 身の危険は感じていたようです。 けれど皆の勧めるアメリカ亡命の案は 聞き入れませんでした。 「面倒だから」 は本人の弁ですが ピカソは 懐の深いフランス人が 本当に好きだったのでしょう。
1944年8月 パリは開放されます。 マックス・ジャコブの死の 半年後の事です。
友人たちの冷たい視線を浴びながらも 占領下のパリを離れなかった事で ピカソは英雄になり 一ヵ月後に入党した フランス共産党では 象徴になります。
そして 恩人の死を 見殺しにした罪を償うように 生涯党員であり続けます。
マックス・ジャコブは ドランシーの収容所で死にます。 捕らわれて一月も経っていませんでした。 世界的に影響力のある ピカソが 助命に奔走しても 間に合ったかどうか 解りません。 お洒落だった マックス・ジャコブが あの
囚人服を着なくて済んだのが ピカソの心の慰めです。