8月10日、詩人の新川和江(先生)が亡くなった。 享年95。
昭和最後の正統派詩人と云えるのではないでしょうか。
幸運にも私は1995年からほぼ20年間 カルチャーの詩作教室で教えを受けることが出来た。
先生に出会ったのは1966年に発刊されたこの『若き日の詩集』
古今東西の名詩が100以上編まれており、その一作一作のそれぞれが青春の満たされない心に沁みた。 師事するならこの人しかいない と思った。
一度もお会いしないのに、心が出会ったのだ。
この本を編むに至って 先生は二度も書き写されて目を悪くされたそうです。
編集者に書き写さなくてもいい、選んでくれさすれば と言われたそうですが。
新川先生は隣町に疎開されてきた西條八十に15才から終戦の二年間師事されていました。その折西條八十の論文の清書を仰せつかった。その経験から作品をなぞる大切さを学ばれたからではないでしょうか。
30年後の1995年にあるカルチャーの 詩作講座 で 先生の名前を見つけた。急逝された詩人のピンチヒッターだった。
詩を書いているなんて恥ずかしいと思っていたので躊躇したが 締切日ぎりぎりに思い切って申し込んだ。 空きがあったらね と。 空きは残っていた。
仲間は20余人、一年に10回の講義。 私だけではなく 他の人に対する作評も多いに為になった。
仲間有志と一緒に京都に行ったり、先生が詩をつけられたNHKハイビジョンの映像の滝桜を先生も含め皆で三春に見に行ったり 等 教室以外でもよくご一緒した。
冒頭の写真は 平成18年4月10日、仲間18人と食事会の後の集合写真です。
どんなに素晴らしいと思える詩を書いても 他の人の詩もたくさん読まれる先生に「それは誰それがもう書いていますよ」 と言われるのがオチ。
言われないようにみんな必死でした。
詩作にこれもありか、あれもありか、と 悪知恵満載のものを持っていくようになっても先生は面白がって自由にやらせてくれた。よっしゃ~ありだ!
面白かったな。
教室から足が遠のくようになり、私はジャズヴ―カルを始めた。
初ライブが決まり先生をお誘いしたところ二つ返事で来てくれるという。
当日一週間前くらいに電話で「今まで罹ったことがないひどい風邪をひいて行かれなくなった」そうで すぐにチケットとお手紙が送られてきた。
8月の暑い時のライヴだった。
その後先生との連絡は途絶えた。
先生の罹ったのは風邪ではなくて 熱中症で あれから体調を壊され すべての仕事を辞められたのだと 先日報道で知った。
歌ったり踊ったり画を書いたり、忙しいだけの私ですが 最近最後までやり抜くのは詩作だと思うようになりました。
私の後半の人生は新川和江先生のお陰で 充実したものになっています。
有難うございます。
私は先生の字が大好きでした。
by 風呼
夕暮れの郊外
駅前の交差点。
エメラルド色に輝く信号が
進め進めと 急かせるけれど
もう少しここにいよう
眺めよう
冬を耐えた木々たちの
年に一度のパフォーマンス
さくら
桜。
坂道登り
桜
さくら
足止め桜。
希望ばかりの春はなく
どん底から始まる春もある
小さな風に 揺れ散るはなびら
大きな風に咢ごと落ちる ・・
・
・ ・ ・ 花 。
さくら夜ざくら
寄り道ざくら
さくら咲くさく
白いやみ。
by 風呼
5年に一度 ポーランドで開かれる ショパンピアノコンクールの 2005年度の優勝者、ラファウ・ブレハッチの ショパンの曲だけを弾く公演に行ってきました。
ミューザ川崎は始めてですが
立派なパイプオルガンがあり、サントリーホールと見まがうばかり。
客席数2000弱。 サントリーホール、2100強。
こんな立派なホールだったなんて知りませんでした。
演奏されたのは「葬送」以外は ポーランド庶民の民族舞踊の マズルカ。
作品番号でしか記されていないので 素人の私に分かるのか不安でしたが 初めの音から魅了されました。「4つのマズルカ op.17 変ロ長調」
ひとりオーケストラ
時に
腕が3本にも4本にも
見える
途切れない音たち
指がひと度
鍵盤に乗ると
たちまち
30本に増えるらし
ピアノだけなのに
オーケストラを従えて
まだ青年と呼べる
ピアニスト
鎮かに魂を葬(おく )る時は
老人の貌だ
曲の合間は
時にお茶目で
将棋の聡太君のよう
親しみ易そうで
距離は縮まらない
天才中の 天才
2月20日 観
興奮醒めやらぬ 風呼 でした
今日来た新聞
読み終わったら
新聞紙。
その日の内に
ただの資源ごみ。
私には
去年からの新聞紙が
日付順に
積んである
積み上げた人にとって
記事を 切り抜くまでは
ずっと 新聞。
穴あきになって
やっと 新聞紙
by 風呼
取りにくい席が
取れたので
姉二人を誘った
二つ返事だったので
その日を
楽しみにしていた
当日二日前の夜
次姉から ショートメッセージで
終演が遅いので 体調が心配
次の機会にしましょう
って
分かったと
返事したら
そうしましょう
ショートメッセージで
夜しか公演してないんですけど
チケット代を払ったのは私なんですけど
そういえば
「夜の外出は怖いので
私は 劇場傍の ホテルに泊まろうかな」
と 長姉は言っていた
次姉も巻き込むことはないじゃない
長姉は いつもこう
言いにくい事は
いつもひとに
言わせる
長姉のドタキャンはあるかと
前日に誘ってもいいよと
来てくれた彼女が言った
「もう一人のお姉さんは
どうされたの?」
ドタキャンはいい
だれにもそんな時はあるのだから
ひとを巻き込み
ひとに言わせるのが 許せない
当分
許せない
by 風呼
自写メもそうだけど
これが私? と
いつも思う
鏡の前の私は
もっと優しい顔をしていると
思っていたけど
何だこりゃ
納得できず
何度も取り直し
こんなもんなんだと
諦めて妥協した
帰ってから
しげしげと眺め
身体が左に
傾いていて
まったく笑ってないことに
気付き
ちょっと右を向き
口角を上げればいいのだと
リベンジの
撮り直し
一週間もたっていないのに
同じ場所の機械が
バージョンアップしていて
少しマシに
出来上がった。
この写真が
私の晩年の顔
マイナンバーカード
by 風呼
珍しく
二羽の鳩が
庭を散歩していた
互いの顔を見ながら
話し合っているよう
クックゥ くっくぅー
ここには豆はないね
ああ節分の豆が
残っているのね
残念
我が家は
福は内~ だけなの
鳩も
二羽で行動するんだ
大好きな
ひよどりのように
by 風呼
この詩は 2009年9月14日に このブログに載せたものです。
28年前、阪神大震災の年のオリックスの試合時 バッタ―ボックスの左に立つ イチロー選手の右袖の ”頑張ろうKOBE” の文字が今も目に焼き付いています。
イチロー選手、メジャー連続9年200本安打達成 おめでとうございます。
今日のレンジャーズとのダブルヘッダー 二試合目に達成です。
イチローらしい 足で稼いだ安打でした。 一瞬エラーかと思った。
二回ニ巡目 この安打でニ点目が入りました。
青い野球帽のビリケン
1996年10月19日
於・東京ドーム
日本シリーズ第一戦。
右袖の”がんばろうKOBE"
の文字を見せて
君はバッターボックスに立つ。
眩しそうに
ピッチャーズマウンドを見やり
ピッグピンクの唇を
横いっぱいに拡げ
少年のような22才。
10回表 ツーアウト
3対3の同点。
勝運(かち)を決めたのは
やっぱり君。
耳の尖(さき)まで神経にして
曲がった竹ひごが弾けるように
全身が大きくしなった
打球の行方を 目で追いながら
910gのバットを
いつものように そっと置いて
君は 一塁をめざす。
ただ出塁だけを考えたという
ホームラン
おめでとうKOBE
サンキュー イチロー
君を見ていると
「諦めなきゃ 叶うんだよ」
くぐもったバリトンの
声が聞こえてくる。
阪神大震災のあった前年から 神戸を本拠地とするオリックスは ユニホームの右袖に ”がんばろうKOBE" の文字をつけました。
左打席のイチローが 打席に入ると はっきりとその文字が見えます。
打ち終わったバットを 決して放り投げない 道具を大事にするイチローの袖についていると 神々しく 見ているこちらも 祈ったものでした。
今夜の NHK 夜 10時45分からの スポーツ大陸 は イチロー特集に変更されます。 寡黙といわれたイチローが NHKの番組では 饒舌になるので きっと面白いと思います。
風呼r でした
若い頃は
3人の中では
私が一番きれい
と 言っていた次姉も
街を歩けば
男がついて来ると
噂がたっていた長姉も
身体の均整は
一番取れている
と 思っていた末娘も
50年前の動画を見て
どれが
自分だか分からない
三姉妹で
温泉宿に泊まり
同じバスローブを着て
客室をうろうろ
あれ?
隣の部屋にも
私がいる!
もしかして
派手な水音を立て
部屋風呂に入っているのも
私かしら?
ベビディ・バビディ・ブウ
3姉妹の旅には お揃いのお供がつきます。
突然ボケても 連れだと分かるように。
今回は 冒頭の 象のマスクチャーム。
過去のお供たち
by 風呼
私は デイジー
「一本だけ頂くわ」
5年ぶりの再会の日
ギャッツビーは
白いバラの花束を
抱えてきた
インチキな履歴を
私の両親に暴露され
私の元を去った ギャッツビ―
裏社会で富を成し
私の家の対岸に豪邸を建て
河の向こうで私を想い
週末に門戸開放の
大パーティを開き
いつかきっと
私もやってくると
待っていたなんて
白いバラは 一本だけ
頂くわ
夫の不貞に悩む私
ギャッツビーと 再び恋に落ちるのに
時間はかからなかった
一緒に逃げる途中に
人を轢き殺してしまった私の罪を
ギャッツビ―は被り
死んだ女の亭主に
撃たれて死んだ
埋葬には
隣人ニックと
はるばる駆け付けた
ギャッツビーの
純朴な父親
そして
一本の白いバラを
墓に放り投げた 私
借りは返しました
私は他の地で
夫と小さな娘と
やり直します
by 風呼
毎年夏の初めに
甲府のKさんから
丹精のとうもろこしが届く
わざわざお返しをしない仲なので
隣の一人暮らしの和子さんに
ほんの1-2本だけど
お裾分けをすると
「美味しかったわ~」
いつも満面の笑みが返ってきた
今年も
美味しいとうもろこしが
送られてきた
お裾分けする和子さんは
もういない
去年のお正月
自宅の階段から落ちて腰を骨折
入院中に父も兄も死因だったという
膵臓がんが見つかり 肺に転移
年末に85才で亡くなった
公立の保育園長を
停年まで勤め上げた
背筋のちゃんとした人だった
「夕べ遅かったじゃないの」
何気に見張られていたり
ご近所さん情報は
彼女から貰っていたり
姿が見えないのは
旅行中なのだと思えても
とうもろこしは
もう貰ってもらえない
by 風呼
とうとう年賀状が
来なかった
私が出し忘れても
欠かさず呉れていたのだが
人伝てに聞いた
転居先宛の 私の賀状は
戻ってこないので
ナヲコには
届いてはいるのだろう
転居先で
介護施設に通っている
そう聞いたのも
人づてだ
そう
大事なことは
いつも
人づてだった
15才で出会って
50年以上たつけれど
ナヲコにとって
私はそんな存在だったんだ
もう 私の事も
分からなくなっているのかな
「絶対 大阪弁にはならへんわ」
ちゃきちゃきの江戸っ子だったが
大阪に行ってから生まれた
娘さんにとっては
私は良く知らない人だろうし
このまま
安否の分からない間柄に
なっていくのだろう
一時
行方が分からなくなった時も
深追いはしなかった
だから もう
詮索しないね
by 風呼
バスは すれ違えない
緑の曲がり道
次の停留所名は
こ・と・り・ば・し
里山に繋がる
小さな橋
きっと 小鳥が
たくさん遊びに来るから?
橋を渡る時
コトリ と 音がするから ?
橋の姿は
見ないことにして
その名の響きを
楽しみます
こ・と・り
こ・と・り と
by 風呼
80才の ちかこさん
油絵を 描き始めて
20年
ジャズヴォーカルに
挑戦して 10年
ちょっとした手術も
経験したけれど
細っそりした
小柄な体躯に似合わず
エネルギッシュです
最近は ちょっと年下の
読書友達もでき
彼女に読んでもらうべく
エッセー風の 感想文にも挑戦
これが なかなか
身に合っていて
絵もまずは言葉からと
脳みそが フル回転
隠居生活のような
この一年を 有効に
希望に満ちて過ごしました
頑張って生きてきた
若いころに無かった経験
遅れてきたけど
遅すぎない
青春真っ只中です
by 風呼
六人兄妹
五番目三女
二才違いの弟は 病弱
4才の頃
飼い犬が 六匹子供を産んだ
兄妹で一匹ずつ
抱いた
弟が一番で
後は強いもの順
私が抱いたのは 最後
目の上に 白い眉がある
売れ残り
てのひらで小さく鳴いた
可愛かった
お先にどうぞ
この世の中
強いものが勝ち
お先にどうぞ
優しさからではなく
自分を守るため
お先にどうぞ
最後に幸せになればいい
幸せになる
絶対
by 風呼