ピカソ・マニマニア

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奥州征伐余火  安倍総理の祖先の叛逆  『吾妻鏡』

2013-05-23 23:09:33 | 吾妻鏡

 

 

文治6(1190)年1月6日 泰衡の郎党の 大川次郎兼任(かねとう)等が

7000余騎で 鎌倉に向かっていたが 今で言えば2月の巌寒の時です。

秋田おおがたの志加湖を渡る時 氷が割れて5000余人が溺死した。

 

阿津賀志山(あつかしやま)の戦いで 頼朝軍に敗れるも その勇猛果敢な

戦いぶりで頼朝に召し抱えられた 由利中八維平に助けを求めるが 維平は

これに応戦して敗死。

 

等の 思わぬ苦戦の様が 鎌倉に届く。

 

維平は逃亡し 討ち死にしたのは 小鹿島橘次公成(おがしまきつじきみなり)

だとか 情報が混乱。     頼朝は討ち死にしたのは維平で 逃亡したのは

橘次 と断言。   その通りだった。  頼朝の家人を見極める目の確かさが

よく分る箇所です。

 

最初は 援軍は用意出来次第それぞれに出発させた頼朝ですが 勝算がな

ければ 兼任軍を見過ごせと 命令を変える。   

 

ちなみに この兼任は 安倍首相の ご先祖様だそうです。

 

戦勝祈願に頼朝は 箱根・伊豆詣でをします。 従来は逆の道順でした。

石橋山の戦いで 頼朝の身代わりになった家臣の墓に詣でるのが常ですが 

頼朝は 墓前で必ず泣くので あまり縁起が良くないと 家臣が気を利かせ

後になるようにしました。

 

頼朝のように 中世の武士は 現実主義でした。

今回 鎌倉が世界遺産から外れたのは この現実主義が全くアピールされて

いない。  信仰が伴う富士山のように 附加するものがなければいけない

とは 講師の弁です。

 

家康以降の武士は 本音と建前になるそう。

 

そんなこんなの 5月22日の 吾妻鏡講読。

 

 

        風呼    でした                

 

 

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吾妻鏡 概要

2013-04-27 23:55:26 | 吾妻鏡

 

 

4月から 新しい聴講生が2名入られたので ざっと吾妻鏡の概要を

 おさらい。

 

吾妻鏡は 1300年ころに編纂された 治承4年(1180)から 

文永3年(1266) 頼朝から宗尊親王まで鎌倉将軍6代 

に亘る 全52巻の 日記形式の記録です。(45巻は欠らしい)

 

1306年ごろ 完成。  金沢文庫にも納められていますが

小田原北条氏から 入手した 家康によって世に受け継がれました。

 

源氏を名乗る家康は 同じように若き日の不遇な環境から征夷大将軍

にまで昇りつめた頼朝を 大変に尊敬しており お気に入りの家臣には

必ず読ませたそうです。

 

現在、一番読まれているのは この家康本。  その他に吉川(山口)本

島津(鹿児島)本 があるそうです。

 

全巻揃っているのは 金沢文庫だそうです。

 

私の通っている 吾妻鏡講読講座は 10年目くらいだそうですが 今日

(4月24日)から やっと十巻に入ります。   (私は丸3年です)

 

文治6年(1190) 相変わらず 京都とのすったもんだのやりとり。

再三の後白河法皇の 上洛の誘いに 頼朝は応じません。

清盛の二の舞には なりたくないのです。

 

 

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奥州征伐の処理  吾妻鏡

2013-02-28 23:47:06 | 吾妻鏡

 

 

文治五年(1189年) 九月二十八日。

奥州を征伐した頼朝は ようやく鎌倉に還向します。

 

捕えた囚人を 所々で放免しながら 制した藤原氏の領地を

見て回ります。  敵対していた者であっても 優れた人材は

要所で 使います。

 

食器に至るまで 現地調達はせず 領地から用意させるのが

頼朝の偉いところです。

 

十月二十四日 頼朝鎌倉着。

席を温める間もなく 朝廷に 奥州征伐の委細を記した書簡をし

たためます。

 

義経寄りだった公家の処遇の 例によって後白河法皇との狐狸

狐狸の駆け引き。  

その殆どが処罰はうやむや、 京に返され本座につきます。

 

 

そんなこんなの 2月27日の 吾妻鏡講座。

     

         風呼   でした                     

 

 

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折り紙について  吾妻鏡

2013-01-23 23:42:14 | 吾妻鏡

 

 

『 折り紙つき 』 は ここからきました。

 

文治五年(1189年)九月 奥州を征伐した頼朝は 捕えた罪人の

処遇の子細を 折り紙にしたためて 朝廷に進上する。

 

折り紙とは 半紙ほどの紙を 横長に折り その上半分に文をしたためた

もの。  筆は時に下段にも及んだ。

 

半分にした 切り紙と呼ばれるものより 格が上になります。

紙は貴重だったんですね。

 

手柄のあった者たちに それぞれ褒美を与えた頼朝は 平泉の秀衡建立の

宇治平等院を模した 無量光院を訪れ 藤原氏三代 百年の栄華を目の当

たりにします。

 

 

      風呼   でした              

 

 

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中尊寺について  吾妻鏡

2012-12-28 15:28:11 | 吾妻鏡

 

 

文治五年(1189年) 9月、 藤原氏を滅ぼし 平泉に戻った

源頼朝は 大法師心連の注進を受ける。

 

清衡なる 中尊寺、 基衡なる 毛越寺、 秀衡なる 無量光院に

ついて。 

 

中尊寺の金色堂には 定朝作の 阿弥陀三像・二天・六地蔵を三壇。

   (合計 33体)

 

毛越寺には 運慶作 日本初の玉眼入りの 丈六(4,8M)の 薬師と

十二神像。

 

宇治平等院を模した 無量光院。

 

法華経にのっとり建てられた 黄金輝く これらの寺院は 京をも嫉妬させた。

 

 

頼朝はいたく感じ入り 略奪、 放火を固く禁じた。

 

 

尚 寺塔四十余、 禅坊三百余 を有する中尊寺は 全体を呼ぶらしく 

中尊寺と言う名の寺は 存在しなかったらしい。

 

 

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あつかし山の戦い  奥州合戦

2012-08-22 23:24:33 | 吾妻鏡

 

 

阿津賀志山と書きます。 蔵王近く 標高289m。

 

文治5年(1189年) 7月19日 いよいよ奥州征伐に発向した

頼朝は 軍勢を3手に分けます。  

頼朝は 宇都宮を経て白河関に至る 東山道、 比企能員らは

日本海側の北陸道、 千葉常胤らは太平洋側の 東海道。

頼朝の先陣には 畠山重忠。

 

8月7日 ここを合戦の拠点として 平泉が造った長さ3kmにも及ぶ

空堀2つ水堀1つを かねて用意した鋤鍬で 重忠は埋めさせる。

 

8月8日 数千騎での 箭(や)合わせは 鎌倉側に分あり。

 

8月9日 翌日に予定された合戦に 7騎が抜け駆けをするのを

重忠は黙認する。 7人それぞれにお家再興の手柄を欲していた。

 

7人は 9日夜半 あつかし山の裏手から奇襲にかかる。

一人死ぬも 好戦、 明け方あつかし山に到着した頼朝軍に 平泉は

あっけなく敗れる。

 

 

あつかし山の陣の大将 藤原国衡(嫡男泰衡の異母兄)は巨漢だった。

和田義盛と相まみえるが 体に応じた箭(や)が長いので引きに時間が

かかり 先に義盛に腕を射られてしまい 敢え無く重忠の臣に鳩首される。

 

ちなみに国衡の箭の長さは14束(そく 1束8cm) やはり剛の者義盛

の箭は13束、  10束から12束が普通だったそうです。

 

雪になれば勝算あり。 

平泉は 2か月持ちこたえるつもりでした。

 

たった3日で けりがつきました。

7騎の抜け駆けを容認した 重忠と頼朝の 大物振りが見事です。

 

 

そんなこんなの 今日の吾妻鏡。

 

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源氏の白旗・白河の関のことなど  吾妻鏡より

2012-07-26 01:08:55 | 吾妻鏡

 

 

文治五年(1189年)7月19日 いよいよ奥州征伐に出かけた

頼朝です。

 

7月25日 宇都宮泊。  

翌朝 出発前に 佐竹四郎秀義が 常陸国よりはせ参じた。

佐竹氏は 頼朝の祖 義家の弟、義光の子孫で 頼朝と先祖が

同じでした。

頼朝の旗揚げに大きく貢献した千葉氏と敵対関係にあり 参戦が

今になったのです。

そういう事情もあって 佐竹氏の旗は無紋のままでした。 

鎌倉の佐竹氏の屋敷の裏に 三つうねりの山があるので それを

五本骨の扇子にみたて 月を足したものを紋として 頼朝は与えます。

 

白旗は御大将 頼朝だけのもの。

手柄がすぐに分るよう 家来には紋をつけさせました。

 

7月29日 白河の関を越えました。

能因法師(988~1050)が ”都をば 霞と共にたちしかど 

秋風ぞ吹く 白河の関” と 詠んで以来 白河の関で 歌を

残すのが習わしとなっていたので 頼朝は梶原景季に命じて

詠ませました。 ”秋風に 草木の露を拂はせて 君が越ゆれば 

関守もなし”  頼朝は歌は苦手だったのです。

 

後に 芭蕉(1644~1694)も 句を残します。  ”疎まるる

身は梶原か 厄除い”  梶原父子は あまり人望がなかった

ようです。

 

そんなこんなの 今日の吾妻鏡。

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家紋の始まり  吾妻鏡より

2012-06-27 23:18:51 | 吾妻鏡

 

例によって 頼朝牽制の為に 奥州の藤原氏を残しておきたい

後白河法皇とのやりとり あれこれ。

 

文治五年(1189年) 7月19日。

 

集した夥しい兵を 鎌倉に止め置けないので 奥州攻めを頼朝は

決行します。 慌てた後白河法皇は 綸旨を急ぎ追いかけて送ります。

頼朝が受け取ったのは 東北に入ってからでした。

 

城四郎長茂という囚人がいた。 平将門を討った 余五将軍・平維盛

の子孫で 平氏としての自負を捨てない勇士でした。 敵ながら天晴れ

と頼朝は奥州征伐に連れて行きます。 長茂のいう事には 剣花菱の

家紋をつけた旗を差したい。 この旗を見て逃亡している家臣が集まって

来るだろう。  頼朝はなるほどと感心します。  長茂の云う通り 10日

も経たないうちに 200人が集まりました。

 

源平の合戦の時は 源氏の白旗、 平家の赤旗 どちらかでした。

これ以降 それぞれの主は家紋を作り 家来たちが迷わないように

旗に標(しるし) としてつけるようになりました。

 

 

そんなこんなの 今日の吾妻鏡講義。

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義経首実検など  ”吾妻鏡”

2012-05-23 23:49:06 | 吾妻鏡

 

 

文治五年(1189年) 6月13日、藤原泰衡によって討たれた義経の首が

腰越に届き 和田義盛、梶原景時らが 首実検をした。  首は黒漆の櫃に

酒(美酒)漬けにされていた。 涙なしには見られなかった。

 

腰越・片瀬は 当時 誰姿森(たがすのもり) と呼ばれ うっそうとして暗い

首実検にふさわしい場所だったそうです。

 

そもそも 秀衡は 義経を匿っていれば 頼朝と互角であり続けると 嫡男

泰衡に 遺言しました。  この後 泰衡は保身の為 義経寄りだった末弟

頼衡、 同母弟 忠衡 をも殺すことになります。

 

どうしても奥州藤原氏を征伐したい頼朝と 頼朝牽制のため 藤原氏を残して

おきたい後白河法皇との やりとり、 兵はもう集まってしまい 前に進むしか

ない頼朝の心中を察し 最長老(84,5才)の 大庭景能が言います。

 

泰衡は鎌倉の御家人であるから これは 天皇には係わりのない身内の話

である。 綸旨(りんし 天皇の言葉) がなくても 何の問題もない。 

 

この言葉に感激した頼朝は 景能に その場で馬を一頭賜います。

保元の合戦(1156年) で負傷し 歩行が不自由になった景能を 思いやって

の事です。

 

濡れ広縁に座っていた景能に 小山朝光が引いてきた馬の縄を さっと投げ

ます。  微動だにせず老翁は片手で捕ります。  庭に下りるのも困難な

景能を慮っての 朝光の とっさの判断でした。

 

 

そんな こんなの 今日の吾妻鏡購読。

来月はいよいよ 奥州征伐、 講師の目が 輝いてきましたよ。

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東大寺再建  ”吾妻鏡”

2012-04-25 23:55:39 | 吾妻鏡

 

 

今日は 月に一度の 吾妻鏡購読の日でした。

 

文治五年(1189年)六月九日 頼朝の生母 由良御前の塔の供養が

行われました。 異母弟義経の喪中ではあるが 30日以上たっている

事ではあるし 京から導師も来ていることだし 頼朝は寺社に入らない

で 眺めるだけなら良いだろうと 桟敷が用意されました。

 

1181年平重衡により焼失された 東大寺再建の材木の調達の話等。

直径1メートル、 長さ30メートルの木が120余本必要だった。 伐り出した

山口から 奈良まで運ぶのに まず川に堤防を造り 堰き止めた水の勢い

で 瀬戸内海に出し 淀川から木津川へ。 その堤防の数は130以上にも

のぼりました。   

一本の木を陸路で運ぶのには 400頭の牛を要したそうです。

佐々木高綱がその任を負い その功績を 頼朝に讃えられました。

 

 その他 烏帽子の話など。

内裏雛が被っているのは 冠だそう。  烏帽子は キャップの様なもので

種類も 固く立っていたり 上部は布で折れ曲がっていたりと 色々あるそ

うです。

 

そんなこんなの 今日の吾妻鏡購読。

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義経の自殺  ”吾妻鏡”

2012-03-29 13:11:41 | 吾妻鏡

 

 

昨3月28日は 月一度の ”吾妻鏡” 購読の日でした。

 

巻九 文治五年巳酉(1189年みのとり) 

奥州に逃げた義経と通じる家来を持つ 藤原朝方(ふじわらのともかた)

の処遇を巡り 頼朝と後白河法皇との のらりくらりの公家問答。

藤原朝方は 身分は高くはないが後白河法皇の側近でした。

 

頼朝のせかし

  君に申し上げ候はば、 たかき人をもいやしき人をも、 わたくしをうらみ

  候事は候わず候。 いかに候とも 云々

  法皇様に申しあげておりますのは 身分の上下を問わず 私事の恨み

  ではございません。  と 候(そうろう)文が続きます。 

 

とうとう 義経征伐の 宣旨が出されるか と思っていたら 藤原基成(ふじ

わらのもとなり)の館にかくまわれていた義経を 泰衡が襲います。

 

藤原基成は 源氏方の人で 平治の乱(1160年 源平戦 源義朝敗)の後

奥州に流されていました。 基成の娘は 泰衡の母です。

 

頼朝がよっぽど怖かったのでしょうね。

 

”吾妻鏡” によれば 義経はまづ22才の妻と4才の娘を害し、 次に自殺す

とあります。 ”義経記” によれば 妻子は家来が殺したとあるそうです。

 

享年31. 1184年に左衛門少尉に任じられ 後白河法皇の引き立て

(陰謀?)により あれよあれよという間に 昇殿を許される身分になり 

解官され追われるという 電光石火の如き 1年余でした。

 

あっけなく 義経は死にました。 最後まで女がいたんですね。

 

さきの後白河法皇の側近の 藤原朝方は いったん罷免され 再雇用され

ます。 双方の顔を立てる シャンシャンシャンの お手打ちです。  

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由良姫 (源頼朝の母) の話

2012-01-27 23:30:56 | 吾妻鏡

 

 

1月25日は 吾妻鏡購読の日でした。

 

文治5年(1189年) 3月13日、 鶴岡八幡宮境内に建てられた五重塔に

九輪が上げられるのを 頼朝が監臨されました。  この塔を奉行したのは

二階堂行政です。

 

この五重塔は 頼朝の生母 由良姫の供養の為に建立されました。

由良姫は 尾張の一ノ宮 熱田神宮の宮司の娘で 藤原氏という名門の

出でした。  二階堂行政は 由良姫の妹の子で 頼朝の従兄弟になります。

 

源義朝 と由良姫の間には 頼朝の他に二子がありました。

土佐に流され この地で成人し、 頼朝の挙兵に参じる途中に暗殺された

弟 希義(まれよし)と 一条能保に嫁いだ 妹 坊門姫です。

後に 坊門姫の子孫が 鎌倉4代将軍 頼経となります。

 

そして相変わらずの 後白河法皇との駆け引きの書簡やり取り。

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陰陽道  『吾妻鏡』 より

2011-12-14 15:37:08 | 吾妻鏡

 

 

12月10日は 皆既月触でした。  

今年は皆既月触の当たり年だそうで 6月に続いて二度目です。  6月は天候が悪く殆どの場所で観測出来なかったのですが 今回は全国的に晴れで 私もちょくちょく空を見上げました。

何だ 月の満ち欠けを 数時間で見てるんじゃん と思いながら。

 

さて 北条氏の栄華を綴った 『吾妻鏡』 にも 月触の話は出てきます。

貞応2年(1223) 3月14日  今夜の月触は正現しなかった。  あれ?  外れたの?

 

文治5年(1189年) 2月28日 住吉神社の神官が 「今夜 異星現る。 彗星たるか」 云々と 頼朝に告げに来た。

これは凶事のしるし。

月の光を 陰陽道では忌み嫌うので 貴人は普通夜は外出しないのですが 頼朝は 前後に釼を持った4人の近臣を従えて 庭先で覧たそう。

 

ちなみに 陰陽道とは 天体学で これを専門に司る 陰陽師の他に 神主や僧の中にも操る人があったそうです。

 

陰陽師もどきの 神主だったから 外れたのかな。

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頼家 弓始めの儀

2011-12-01 00:30:47 | 吾妻鏡

 

 

今日は今年最後の 吾妻鏡 講読の日でした。

最後の と言っても 震災で講座のあるカルチャーが 建物にダメージを受け 3月から9月まで休校をしていたので 合計4回しかなかったのですが。

 

文治5年(1189年) 正月19日。

二品(にほん 頼朝の事)殿が 正二位に叙せられ それに伴って嫡男の頼家も 五位の位を授かったので それを祝して頼家の弓始めの儀を行った。 弓始めとは 後の元服のようなもの。 

頼家 御年7才。

平胡(ひらやな)ぐいと呼ばれる矢入れや それを縛る丸緒の仕様が分らないので 平氏の囚われ人の 元・平知盛の家臣の 武藤小次郎資頼の助言を受けることになった。 慶事に囚人が出席はまずいので 恩赦され 頼朝の御家人となり 後々、重宝された。

 

義経をかくまっているとの口実で 奥州藤原泰衡を攻めたい頼朝と 頼朝牽制のために藤原氏を残したい後白河法皇との駆け引きも相変わらずです。

頼朝って 結構相手を立てて 交渉事が得意の様です。

そんなこんなの 今日の吾妻鏡。

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頼朝の 所得倍増論 ”吾妻鏡” より

2011-10-28 16:10:38 | 吾妻鏡

文治5年(1189年) 1月13日、一条範保の使者が

頼朝が正二位に叙せられたとの知らせを持ってきた。

一条範保は 頼朝の妹の婿でした。

 

そもそも頼朝が挙兵をした理由は 大化の改新後聖徳太子に

よって発令された 律令制を壊すことにありました。

 

すべての土地と人民は天皇のものであり、 人民は 6才から

60才まで 男は600坪 女は400坪の土地を 天皇から借り受け

作物の3%を年貢として納めた。 それに租庸調、 雑用 出挙 

兵役等の負担があり、 一日一人当たり 2,5合の米しか残らなくなった。

1~6才の幼児分は そこからまかなうという有様に 畑を捨てて

逃散するものが続出し その地をこっそりやみで耕すものがうまれ

貧富の差が激しくなった。  豪族が生まれ寺社が勢力を持ち始めた。

 

頼朝は 農民の生活を 一日 米 2、5合から 5合に増やそうと

寺社、豪族等への納穀を うやむやにしようとします。

西の 後白河上皇との 書簡の駆け引きが面白い。

 

その頼朝が 正二位の位を享受します。 

昇殿が許されるのは 五位からで 五位になると 3,000坪の

屋敷が持てました。 鎌倉は狭いので 1000坪。

 

衣食足りると 名誉が欲しくなる。 全く男って奴は。

アッ これ 講師の 男性たる鎌倉人の言です。

 

鎌倉では 幾重にも重なった 素焼きの器が発掘されるそうですが

それは そこに五位以上の武士の館があった証だそうです。

そう 26日にも書きましたが 当時武士の家では 食器は使い捨て

でした。 (庶民は 木や塗の器。 いまと逆ですね)

 

再びの復習におつきあい下さって有難う!

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