ピカソ・マニマニア

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村岡花子さん 『アンのゆりかご』

2011-10-14 23:45:06 | 

”赤毛のアン”の訳者 村岡花子さんの伝記です。お孫さんの 村岡恵理さんが書かれました。 1893年6月21日生まれ。 この写真は花子が 25, 6才のころのものです。

あの時代に あんなに立派な英語教育を受けられているので 恵まれた家庭のお嬢様かとずっと思っていました。  

実際は クリスチャンで社会主義者だった無頼のような父親と 従順な母親との間の8人の子供たちの第一子で 花子と五番目の子のうめ以外は 養子に出されるという家庭でした。

花子(”はな”が命名された名まえです)の賢さを見抜いた父親が 花子10才の時に東洋英和女学院に 給付生として入寮・入学させます。  「華族の娘なんかに負けるな」 と。

ABCも知らないで入学した花子ですが 英和辞典を手にした時から 書籍 室に入り浸り ほとんどの本を読破します。 読んだ本を寮の皆に語って聞かせるのでした。

徳富蘇峰が2年間の洋行の時 奥さまが入寮され自由に授業を受けられていた事がありました。 旦那様がいない寂しさにいつも目を赤く腫らしていられましたが 花子にだけは親しく接していたそうです。 花子は13才でしたが   大人だったのですね。

15才で結婚し20才で実家に戻った 柳原ー火華ー(あき)子が入寮してきた時も やはりそうでした。 あき子(白蓮)は22,3才 花子15,6才。  二人は夜通し話し合うほど 仲良しでしたが あき子が九州の炭鉱王と愛のない結婚を決めた時 花子は離れていきます。  後に 交友は復活します。

東洋英和という学校は 麻布学園と並ぶ カナダ系のメソジスト系のスクールでした。 先生は宣教師でもあります。 第一次世界大戦で 宣教師たちが帰  国させられた際 ひとりの先生が花子に本を置いていきました。 それが ”アン・オブ・グリーンゲイブルズ” 邦訳 赤毛のアン です。

40才でこの本の翻訳を志し 第二次世界大戦中も本と訳が終わった原稿を  抱えて逃げた、 13年かかって完成したが 出版されるにはさらに7年の歳月が必要だった。 花子は60才になっていました。 

 

初恋の相手が 後にエリザベスサンダースホームの理事長になる 澤田廉三だったり 同年生まれの市川房江や そうそうたる女性運動家、 小説家との交流に 胸がときめきます。

そうして 運命の人 聖書の印刷を一手に引き受けていた 福音印刷の社長の 村岡ー人敬ー(けい)三と結婚します。 

 

人生における困難の起因も たくさん織り込まれていて 読み終わるのが勿体ない本でした。 

   新潮文庫 705円(税別)  

(あき子のあきと けい三の けいが 漢字化できませんでした。 最近このブログ編集欄がクルクル変わり 私は対応できていないのです)

       風呼   でした         

 

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