ピカソ・マニマニア

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機(起)因に敏なひと  村岡花子さん

2011-10-15 23:54:12 | 

写真は 赤毛のアン 原書と 花子直筆原稿です。

 

”赤毛のアン” の訳者 村岡花子さんは 機(起)因に敏な人でした。  兄弟の犠牲の上に自分の学業が成り立っていると 十分理解していました。

10才で東洋英和女学院の給付生になり 寮生活を始めるのですが ひと  月に2回ある外出日に 家には帰りませんでした。  自分の学業の成果が出るまで 浮かれてはいられなかったのです。

学校の紹介で 16才で英語の家庭教師を三軒もつと 花子は母に仕送りをするような娘でした。 華やかに見える 裕福な家庭の内実をも 知るようになります。 自分の目でしっかりと見、 判断する娘でした。

 

女学校の教師を経て 再び翻訳や物語を書くようになった花子は 1919年    26才の時、 運命の人と巡り合います。 聖書の印刷を一手に引き受けている 福音印刷の 御曹司 村岡ー人敬(けい にんべんに敬)三ーです。 二人は即 相思相愛になりますが けい三には 一子と長く患っている妻がありました。  結婚生活はとっくに破綻していたのですが 花子は略奪という形で けい三と結ばれます。

やがて二人の間に 男の子が生まれ 道雄となづけられますが 6才の誕生日目前の9月1日に 疫痢で死にます。  その3年前の関東大震災で けい三の息子が7才で亡くなっていました。  花子は道雄を亡くしたのは けい三の息子を薄倖のまま死なせたせいだと 自責します。

その後 二人は子供に恵まれませんでした。 同じ敷地に住む 花子の妹の子 みどりを養女に迎えます。  その みどりの次女が 『アンのゆりかご』 を著した 村岡恵理さんです。

 

花子は とうとう アンの小説の舞台 プリンスエドワード島に 行きませんでした。 みどりが米国滞在中に 訪れた花子を 連れて行こうとしますが 第二子(恵理)を妊娠中でした。 身重の娘を気遣って花子は断ります。  恵理が生まれてまもなく 今度は花子が みどりを伴って行こうとするのですが 置いていくつもりの恵理が 気配を察してか 花子の顔を見て火がついたように泣き出した。  幼子を母親から引き離すむごさに気付いた花子は またしても断念するのです。

 

今はやりの言葉で言えば 想定外 に起こることには 起因があると 私も常々思っていました。 

村岡花子さんは きっちりそれを考える人でした。

 

花子さんは プリンスエドワード島に 行かない方が良かったのだと思われるようになります。  大切な何かが壊れてしまうかも知れなかったのです。

        風呼    でした        

 

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