ピカソ・マニマニア

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頼朝の 所得倍増論 ”吾妻鏡” より

2011-10-28 16:10:38 | 吾妻鏡

文治5年(1189年) 1月13日、一条範保の使者が

頼朝が正二位に叙せられたとの知らせを持ってきた。

一条範保は 頼朝の妹の婿でした。

 

そもそも頼朝が挙兵をした理由は 大化の改新後聖徳太子に

よって発令された 律令制を壊すことにありました。

 

すべての土地と人民は天皇のものであり、 人民は 6才から

60才まで 男は600坪 女は400坪の土地を 天皇から借り受け

作物の3%を年貢として納めた。 それに租庸調、 雑用 出挙 

兵役等の負担があり、 一日一人当たり 2,5合の米しか残らなくなった。

1~6才の幼児分は そこからまかなうという有様に 畑を捨てて

逃散するものが続出し その地をこっそりやみで耕すものがうまれ

貧富の差が激しくなった。  豪族が生まれ寺社が勢力を持ち始めた。

 

頼朝は 農民の生活を 一日 米 2、5合から 5合に増やそうと

寺社、豪族等への納穀を うやむやにしようとします。

西の 後白河上皇との 書簡の駆け引きが面白い。

 

その頼朝が 正二位の位を享受します。 

昇殿が許されるのは 五位からで 五位になると 3,000坪の

屋敷が持てました。 鎌倉は狭いので 1000坪。

 

衣食足りると 名誉が欲しくなる。 全く男って奴は。

アッ これ 講師の 男性たる鎌倉人の言です。

 

鎌倉では 幾重にも重なった 素焼きの器が発掘されるそうですが

それは そこに五位以上の武士の館があった証だそうです。

そう 26日にも書きましたが 当時武士の家では 食器は使い捨て

でした。 (庶民は 木や塗の器。 いまと逆ですね)

 

再びの復習におつきあい下さって有難う!

       風呼   でした        

 

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