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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

The Best of GLENN MILLER

2005年06月04日 19時34分01秒 | JAZZ
 「スウィング・ガールズ」を観て以来、ビッグバンドの音がすっかり心地良くなってしまった私ですが(日本中にそういう人多いんではないでしょうか?)、頼んでおいたCDがやっと到着しました。グレン・ミラーのベスト盤です。今まで持っていたのは、よくブック・ショップなどの店頭で売っているワゴン・セールで購入した、いわば海賊盤すれすれの代物だったので、もうすこしきちんとディスク、そして少しでも良い音質で聴きたいと思い、この他にベニー・グッドマンやトミニー・ドーシーなどと併せて注文してあったものです。

 収録曲は20曲で、どれも大スタンダードばかり、これまで前述「スウィング・ガールズ」のサントラやポップス・オーケストラで演奏したものなど聴いてきた訳ですけど、改めてその規範たるご本尊の演奏を聴くと素晴らしいものがあります。
 当時は非常にアップ・トウ・デートに聴こえたはずのスウィング感は、もちろんゴキゲンなノリがあって楽しいのですが、同時になにやら優雅さすら感じさせます。また、オーケストラ的な色彩さえ感じさせるサウンドは、ある種知的な緻密さのようなものがあって、単なるBGMでは終わらないまさに「鑑賞に堪えうる音楽」になっているとも思いました。

 要するにこういう音楽ってのは、歴史的に見るとウィンナ・ワルツなんかと同じで、「殿堂入りした娯楽音楽」なんでしょうね。ヨハン・シュトラウスが振ったウィンナ・ワルツは録音が残っていませんが、いかなる形にせよオリジナル演奏の録音が残っていたのは幸いでした。こういう軽妙なスウィング感はおそらく現代に再現することは不可能でしょうから....。

 さて、音質ですが、なにしろ1940年前後の録音ですから、当然原盤はSPということで、いくら最新の技術でリマスターといってもたかがしれています。全般に低域が豊かになり、音の出方が積極的になったという感じでしょうか。それでもしばらく聴いていると、こうした優れた音楽&演奏は音の悪さを忘れさせますね。 
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THE BEATLES / The Capitol Albums Vol. 1

2005年06月03日 20時30分11秒 | Beatles
 大昔、ビートルズのアルバムといえば、「サージャント・ペパーズ」あたりまでは、日本も含め世界各国で、かなり勝手気ままに選曲構成したアルバムを発売していた。詳しい事情は省くが、ようするにビートルズがアメリカで大プレイクした時点で、本国イギリスでは既に2枚のアルバムが発表されていたこと、シングルヒットのいくつがその2枚に収録されていなかったことに端を発しているのだろう。ともかく、それら各国ごとに独自に編集されたアルバムは、CD期になるまでのそのほとんどが発売され続けていた。
 発売され続けたということは、親しまれていたことでもあろう。しかしながら、こうしたローカル盤は80年代のCD化に伴い、ジョージ・マーティンの号令ですべてが市場から抹殺された。ついで言えば、それと同時に赤青のビートルズ・ベスト、「ロックンロール」、「ラブ・ソングス」といった70年代のコンピレーション・アルバムも道連れにされ、以降、ビートルズのアルバムはワールドワイドできっちり統一されているワケだ。

 とはいうものの、初期のビートルズはやはり昔聴いた曲順や雰囲気で聴きたい....との意見があるのは、ある意味では当然であろう。現在の視点でクロノジカルに眺めれば、珍妙な構成のアルバムでも、幼い頃にそういう曲順で聴いて、既に刷り込まれてしまっているんだから仕方ない。こういうのは理屈ではないのだ。
 しからば、「そういう曲順でCDRやMDで作り直してたらいいだろう」という意見もあるかもしれない。しかしながら、アメリカで発売されたキャピトル盤については、事態はそう簡単ではないのだ。何故かといえば、聴こえてくる音質がまるで違うのである。
 私はことビートルズに関して、ステレオとモノラルとかミックス違いとか、フェイド・アウトの時間差などを巡って、そのヴァージョン違いを地球の果てまでも追いかけていくようなマニアではないが、ことキャピトル盤に関しては、オリジナル盤にはない豪快なリバーブ(残響)が付加されていることを非常に重視するクチだ。なにしろその音の違いは誰が聴いても明らかだし、そのゴージャズでスケール満点な音の仕上がりは、ひとつの音楽的存在価値を立派に主張しうるものだと思っているからだ。

 個人的な話をすれば、私は中学時代、初めてキャピトル盤を購入し、その豪快でリッチな音にびっくり仰天して以来、キャピトル盤の音が病みつきになってしまい、例えば「アンド・アイ・ラブ・ハー」や「イフ・アイ・フェル」は、キャピトル盤で聴かないと、心底うっとりできないし、「ビートルズ・フォー・セイル」という彼らとしては、どちらかといえば地味なアルバムの収録曲についても、キャピトル盤の音で聴くことが好きだった。だからCD時代が到来しても、必要に応じて、アナログ・キャピトル盤を聴き続けていたのだが、所有しているレコードは30年もたっているため、痛みもひどかったので、密かにCD化を期待していたところでもあったのだ。

 そんな、キャピトル盤に渇望するファンに朗報となったのだが、昨年末近くなって突如リリースされたこの「The Capitol Albums, Vol. 1」なのである。前述のキャピトル・レーベルからの出た最初期の4枚、つまり「MEET THE BEATLES」「THE BEATLES SECOND ALBUM」「SOMETHING NEW」「BEATLES '65」が収納されたボックス・セットな訳だが、各アルバム共、ご丁寧にもジャケットは紙、ディスクにはステレオ&モノ・ヴァージョン両方を収録するというマニアックな趣向までついての発売なのであった。これには溜飲が下がったファンも多かったことと思う。もちろん私もそのひとりな訳だが、購入した夜さっさく「SOMETHING NEW」を取り出して聴いた時は、感無量となったものだった。以来、初期のビートルズといえばこちらを聴く機会の方が圧倒的に多い。日本人の私ですら、そうなのだから、アメリカ人はきっともっとそうであろう。思えば、遅すぎた再発であった。
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ジョー・サンプル/インビテイション

2005年06月02日 11時27分49秒 | JAZZ-Fusion
  ジョー・サンプルの1993年の作品です。私は彼が在籍していたクルセイダーズの作品はほとんど聴いていませんし、ソロ作品も同様で、このアルバムもジョー・サンプルというよりは、トミー・リュピーマのプロデュース作品の線で購入してきたような記憶があります。結果的に私はこの作品を大いに気に入り、彼の作品もさかのぼって「Spellbound」や「Ahses To Ashes」を購入したり、その後出た新作をぼちぼち購入したりするようになった訳ですから、私の「ジョー・サンプル発見の一枚」ということになるかもしれません。

 さて、この作品、ジャズ的形容をすると「ウィズ・オーケストラ物」ということになるんでしょう。サンプルにベースにセシル・マクビー、ドラムスにヴィクター・ルイス、そしてパーカスにレニー・カストロを加えた、ビアノ・トリオ+1のフォーマットに、オケがバックに陣取るという内容で、選曲は大半がスタンダード・ナンバーであり、後でわかったことではあるのですが、前後の諸作に比べ、こりアルバムはほとんど例外的に「正統派ジャズ」を狙ったものだったようです。とはいえ、リビューマのプロデュースですから、通り一遍の物量作戦による「ウィズ・オーケストラ物」ではなく、いかにも彼のブロデュースらしい、よく作り込まれ、オシャレで、センスの良い、GRP的な瀟洒さに満ち満ちた仕上がりになっています。

 曲はどれも非常に完成度の高いアレンジがなされていますが、私の好きな「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」などピアノとオケの絡み具合に実にセンスが良く、まさに、極上のイージー・リスニング・ジャズというか、今風にいえばスムース・ジャズを楽しませてくれますし、バカラックの「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」では往年のシアリング・サウンドをモダンに再現、「降っても晴れても」ではちょっとギル・エヴァンス風なアレンジに接近したりと、編曲も多彩です。ちなみに担当したのはディル・オーヘラーという人ですが、なかなか作品のコンセプトをわきまえたセンスのよいオーケストラ編曲をしています。

 それにしても、ジョー・サンプルって人、聴く前はあの風貌からして、かなりアーシーで、精力的なピアノ弾く人なのかなとも思ってたんですが、まるでイメージが異なりました。極めてメロディックで洗練されたフレーズ、特に高域で転がすようにフレーズを繰り出すあたりや、フレーズのしめくくりをコードでおさえていくあたりは独特なポップさすら感じます。これ以降、彼の作品は数枚聴いてますが、アルバムの企画は違っても、このキャラは基本的に不変なようで、その後作品も同じように楽しませてもらってます。そろそろ「ウィズ・オーケストラ物」も、もう一枚どうでしょうかね~。

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FFXI <戦 L17,白 L11>

2005年06月01日 23時59分58秒 | GAME
 ひき続き、戦士、白魔導士共に地道なソロ・レベル上げを進行中。私はゲームでもウィザードリーとか女神転生あたりのレベル上げメインのゲームが好きなたちなので、こういう作業はうんざりしつつも、けっこう楽しかったりするのだが、さすがにあれほど怖かったコンシュタット高地も、さすがに戦士でレベル15を超えると、トカゲや亀にリンクを食らっても、2~3匹ならなら対処できたりするかわり、経験値はあまり入らなりつつある。何度も書いている通り、ソロもそろそろ限界ということなのだろう。一方、白魔導士は涸れ谷の南側で活動中で、こちらの方がむしろ順調。

 さて、昨夜のことなのだが、泊まり明けで思わずキボコン膝に置いたまま、爆睡していると、例の強豪さんたちが親切にも私の白のレベル上げを手伝ってくれると、私に呼びかけているのを発見、渡りに舟とばかり、ひとりで何度も亀に殺されそうになりつつも、コンシュタットへ向い合流した。最初はコンシェで高い経験値がもらえそうな相手を探しいたが、どうももめぼしい敵がいないので、もっと強い敵を求めて、砂丘へということになる。砂漠は一度だけ入り口まで行ったものの、パーティーで来るのは初めて、強豪さん達はみんなサポート・キャラらしくみんなレベル10代前半、ひょっとして私のレベルに会わせてくれたのかもしれない。ありがたいことである。

 さて、戦闘していて驚いたのは、とにかく戦い方が洗練されていて、やたらと手際がいいということだ、マクロなど使い、連携やなにやらとあれこれ技を繰り出し、とにかくあっという間にカタがつく。「えっ、どれが相手?」などと思っているうちに、戦闘に突入、「誰にケアルかけりゃいい?」とこっちが逡巡しているうちに、戦いは終わっているという感じだ。私などから見ると超高速な神業のようにしか思えないが、ひょっとしてあれでも、私の低レベルさに合わせて、ゆっくりとやってくれたのかもしれぬ。そう思うと厚顔無恥な私でもさすがに恐縮する(笑)。

 はてさて、このパーティーでのハイライトはふいに訪れた。召還獣を呼んでみたいな段取りで、強い敵を発見、私は例によってどれが相手だか分からないまま、戦闘に突入したが、まるで相手を捕捉できないまま、「えぇ、どこどこ?」と途方にくれていると(大笑)、どうやら戦闘メンバーが強敵にリンクされたらしく、バタバタと消えていく、ふと気がついてみると、状況がよくつかめなかった私も、どうやらここで生きているのは私だけということに気がつきはじめた。しずまりかえる周囲。こわいよぉ~と、一目散に出口までトンヅラしかけたところ、敵においつかれあっけなく撲殺された次第。うーむ、おそろしや、バルクルム砂丘。

 で、今夜はいつも戻って、コンシェで地道なレベル上げを続けていたところ、突然、ナイトのレベル16になった師匠が登場。うってかわって2人のパーティーで昨夜のリベンジとばかりに、例の砂丘で「強よそうだ」の相手を次々に殴りつけて経験値を稼ぐ、60とか80くらいのポンポンでるのでとっても効率がいい。師匠の話によれば、ここで6人のパーティーでやると200とかとれるそうだ。どうしてそういう理屈なるのかよくわかってないところもあるが、そう考えるとパーティー確かに効率がいいし、第一チャットしているので単調にならないところが禁欲的なソロの苦行とは違って開放感ある。そんな訳で2時間もかからずレベル17に到達。うーむ、さすがに早い。

 そんな訳で、そろそろレベル10に続く目標のサポキャラ獲得のレベル18が見えてきたというところか。さっきミッション2-2「涸れ谷の怪物」の依頼を受けたので、今週末は「とかげの卵」をゲットに挑戦し、あわよくば次の2-3「バストゥークを離れて」に着手....といったところだろうか、あっ、そうそう、サボ・キャラをつけてもらうために、3つのグッズも集めなくてはいけないな。で、いったいコレはどこに手にはいるのか....、依然として勉強することがいっぱいだ。
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