マーラーの交響曲第1番は元々交響詩として構想され作曲された。現在時折演奏される「花の章」は同曲が交響詩から交響曲にシェイプされるプロセスで削除されたものだが、交響詩だった頃のスコアも残っていて、CD化されたりもしている。しばらく前に取り上げたハマル&パンノンPOの演奏などはその例だけれど、それではマーラーが第1番の時の経験から、その後の作曲活動は交響曲のみに邁進したのかといえば、どうもそうでもないらしく、実は続く交響曲第2番の方も交響詩に色目を使っていたようだ。このアルバムに収録された交響詩「葬礼」は、その後交響曲第2番の第1楽章となる音楽であるが、当初はこうして交響詩として発表されたのである。
音楽の基本的なところは、交響曲第2番の第1楽章とそれほど変わりはない。私のようなロック・ファン出身の人間からすると、ここまで出来ていれば音楽的にはほぼ同一という感じてしまうのだが、クラシックの作曲家といのはこのあたりまで完成させても、ほぼ骨格が出来たという程度のものなのだろう。ここから更なるディテールの磨き上げやアンサンブルの精査などを思う存分、納得するまでやったところで完成と呼ぶのだ。改めて凄い世界だとは思う。ただ、第1番の交響詩版と交響曲版の違いはそれほどでもなかったけれど、こちらはかなりぱっと聴きでも「おや」と思う部分がけっこうある。それは主に交響曲版にはあって、ここにはない音がけっこうあということなのだが、全般に金管の出番が少なく、オーソドックスな弦主体のバランスで進んでいく....という感じである。だから、けっこうワーグナーとかブラームスなんかに近いようなサウンドになったりもする。
演奏はブーレーズとシカゴ交響楽団で録音は1999年、一応メインはリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」だが、どちらかといわずともブーレーズがグラムフォンで手がけたマーラー選集(全集?)の副産物として考えた方がすっきりとすると思う。この時期のブーレーズは、かつてのようなギリギリと締め上げ、かつ怜悧な演奏から、いく分リラックスした、ナチュラルな音楽が変貌したように思うが、この演奏もまさにそういう印象である(ホール・トーンをたっぷりと取り入れたナチュラルな録音のせいもあるだろうが)。ただ、1楽章で完結する交響詩として演奏するならば、むしろもっとドラマチックに演奏するやり方もあるもあるのではないかと思うが、この場合、オリジナル・スコアが地味なのだから仕方ないということなのかもしれない。そう思うと、単一の交響詩として演奏するには、むしろ完成した交響曲第2番の第1楽章の方が相応しいということなってしまうのは、皮肉なものだ。
音楽の基本的なところは、交響曲第2番の第1楽章とそれほど変わりはない。私のようなロック・ファン出身の人間からすると、ここまで出来ていれば音楽的にはほぼ同一という感じてしまうのだが、クラシックの作曲家といのはこのあたりまで完成させても、ほぼ骨格が出来たという程度のものなのだろう。ここから更なるディテールの磨き上げやアンサンブルの精査などを思う存分、納得するまでやったところで完成と呼ぶのだ。改めて凄い世界だとは思う。ただ、第1番の交響詩版と交響曲版の違いはそれほどでもなかったけれど、こちらはかなりぱっと聴きでも「おや」と思う部分がけっこうある。それは主に交響曲版にはあって、ここにはない音がけっこうあということなのだが、全般に金管の出番が少なく、オーソドックスな弦主体のバランスで進んでいく....という感じである。だから、けっこうワーグナーとかブラームスなんかに近いようなサウンドになったりもする。
演奏はブーレーズとシカゴ交響楽団で録音は1999年、一応メインはリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」だが、どちらかといわずともブーレーズがグラムフォンで手がけたマーラー選集(全集?)の副産物として考えた方がすっきりとすると思う。この時期のブーレーズは、かつてのようなギリギリと締め上げ、かつ怜悧な演奏から、いく分リラックスした、ナチュラルな音楽が変貌したように思うが、この演奏もまさにそういう印象である(ホール・トーンをたっぷりと取り入れたナチュラルな録音のせいもあるだろうが)。ただ、1楽章で完結する交響詩として演奏するならば、むしろもっとドラマチックに演奏するやり方もあるもあるのではないかと思うが、この場合、オリジナル・スコアが地味なのだから仕方ないということなのかもしれない。そう思うと、単一の交響詩として演奏するには、むしろ完成した交響曲第2番の第1楽章の方が相応しいということなってしまうのは、皮肉なものだ。
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