この時期の森高の作品は、アルバム「ニュー・シーズン(`87)」「ミーハー(`88)」「見て(`88)」である。この最初期の森高の音楽は、その後の一見ロック風なサウンドに実はなんでもありなアレンジに素っ頓狂な歌詞がのるという音楽や例のミニスカというヴィジュアル面での「キワモノ」ぶりは未だほとんどみられず、ロック風なニュー・ミュージックとアイドル歌謡という、80年代にあっては両極端といえた作品が雑然と並べられている。
特にデビュウ作はその傾向が強く、プロダクション・サイドがどっちで売りたいか未だ決めかねている風情なのであった。ただし、「ミーハー」、「見て」とアルバムを重ねるにつれ森高が歌詞を提供した作品が数多くなるの象徴されるように、いくつかの作品では確実にその後のキワモノぶりを予見させており、全般的に食い足りないこの時期の音楽にあって、その点だけは注目して良い。ただ、これらの曲はアルバムにあってはどちらかといえば「捨て曲」であって「お遊び」だったのだろう。その後の森高はいわばそうした「お遊び」をメインにして大成功するワケだが、この時点ではプロダション・サイドはそのあたりの価値をほとんど評価していないのはアルバムを聴くと明らかである。
ついでにいえば、当時の森高の娘々した歌唱はその後の彼女とは別人の観があるが、巧いことは巧い。ただ彼女自身、「新世代の松田聖子」になるのか「浜田麻里のアイドル版」になるのか、この時点ではまったく分からなかったろう。まさにあやつり人形だったワケだ。歌謡界ではありがちな光景であるが、その後の展開は普通のアイドルとは全く違うものになる。
特にデビュウ作はその傾向が強く、プロダクション・サイドがどっちで売りたいか未だ決めかねている風情なのであった。ただし、「ミーハー」、「見て」とアルバムを重ねるにつれ森高が歌詞を提供した作品が数多くなるの象徴されるように、いくつかの作品では確実にその後のキワモノぶりを予見させており、全般的に食い足りないこの時期の音楽にあって、その点だけは注目して良い。ただ、これらの曲はアルバムにあってはどちらかといえば「捨て曲」であって「お遊び」だったのだろう。その後の森高はいわばそうした「お遊び」をメインにして大成功するワケだが、この時点ではプロダション・サイドはそのあたりの価値をほとんど評価していないのはアルバムを聴くと明らかである。
ついでにいえば、当時の森高の娘々した歌唱はその後の彼女とは別人の観があるが、巧いことは巧い。ただ彼女自身、「新世代の松田聖子」になるのか「浜田麻里のアイドル版」になるのか、この時点ではまったく分からなかったろう。まさにあやつり人形だったワケだ。歌謡界ではありがちな光景であるが、その後の展開は普通のアイドルとは全く違うものになる。
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