このところヴァイオリン協奏曲を聴きまくっているコルンゴルトの、これも純音楽畑の作品。ただしこちらはハリウッドへ渡る前のもので、しかも彼の作品歴の中ではごく初期(作品番号5)、なんと15歳の時の作品である。何度書いている通り、当時、「モーツァルト以来の神童」として知られていた彼は、この時点でウィーンの一流作曲家の仲間入りをしていて、この作品など初期の活動のハイライトのひとつといえるものらしく、当時、ニキシュだの、ワインガルトナー、R.シュトラウスが振ったというから、凄いものである。正式な作品名は「大管弦楽のための小交響曲(シンフォニエッタ)」で、大オーケストラで、演奏時間が45分もかかる作品が「小さい交響曲」というのも、ちょっと矛盾したような感じもするが、恐らくこれは規模の話ではなく、作品に盛り込まれた気分のようなものが、いわゆる交響曲のようなシリアスなものではなく、もう少し気軽なもの....という意味なのだろうと思う。
なるほど、曲は全編にわたって、ウィーンの田園風景のような、なだらかな起伏に終始している。金管が轟くように咆哮したり、オーケストラが嵐のようにうごめいたりするようなところはあまりなく(ない訳ではないが)、さながらブラームスのセレナードを20世紀初頭にリファインしたような音楽....とでもいいたいような、いってしまえば「のんびりした音楽」になっている。
第1楽章の冒頭はまるでオペレッタか、後年手がけることになるハリウッド映画のロマンスもののオープニング・タイトルのような音楽に始まり、主となる部分はワルツみたいなリズムで実に優雅に進んでいくが(第二主題あたりは特にそう)、このあたりは実にコルンゴルトらしい甘美な音楽になっている。しかも、随所にオーケストラのモダンな響きが散りばめられていて、全体としては古臭くて、それでいて新しいような感覚があり、まさにコルンゴルトの音楽の面目躍如たるものだ。もう15歳でこれだった訳だ。
第2楽章はスケルツォ、全曲中、もっともダイナミックな音楽である。後年の「ロビンフッドの冒険」や「シー・ホーク」を思わせる壮麗さがあり、これまた彼らしい響きに満ち満ちているのだが、それは長く続かず、すぐさま田園風なトリオになって、第1楽章の気分にもどり(主題も循環しているようだ)。この振幅の交替によりスケール大きな楽章に仕立て上げている感じ。
第3楽章は子守歌のような緩徐楽章である。20世紀初頭の楽曲らしく、多少印象派のようなオーケストレーションでもって、幻想的なムードを導入しているのが、この楽章の特徴だろう。また、ここでも第1楽章メインの主題を循環させたり、様々な音楽的要素を散りばめつつ進行していくが、その情報量たるや並のものではない。まさにひとつの文化が終わろうとしている時のみに出現するあらゆるものが統合された音楽だ。
全曲中もっとも長い(15分くらいかかる)最終楽章は、文字通りフィナーレで、メインの主題を変形した断片に始まり、やや表現主義な不穏なムードにはじまるのが印象的だが、実はそれは味付け程度で、主部はコルンゴルトらしいオプティミズム満開の明るい音楽でもって、あちこち寄り道しつつ、次第に壮大な盛り上がり、ブルックナー風なコラールでハイライトを作っていくという筋書きである。
という訳で、このCDを購入したのはもう10年以上前のことだが、これまでダラダラと聴き流してばかりいて、じっくりと聴いてみたのは、実はこれが初めてなのだが、とても良い曲であった。それにしてもこんな巧緻極まりない曲を15歳で作ってしまうというのは、やはり恐るべき神童という他はない。ツェムリンスキーもR.シュトラウスも戦慄を感じるのもさもありなん。
なるほど、曲は全編にわたって、ウィーンの田園風景のような、なだらかな起伏に終始している。金管が轟くように咆哮したり、オーケストラが嵐のようにうごめいたりするようなところはあまりなく(ない訳ではないが)、さながらブラームスのセレナードを20世紀初頭にリファインしたような音楽....とでもいいたいような、いってしまえば「のんびりした音楽」になっている。
第1楽章の冒頭はまるでオペレッタか、後年手がけることになるハリウッド映画のロマンスもののオープニング・タイトルのような音楽に始まり、主となる部分はワルツみたいなリズムで実に優雅に進んでいくが(第二主題あたりは特にそう)、このあたりは実にコルンゴルトらしい甘美な音楽になっている。しかも、随所にオーケストラのモダンな響きが散りばめられていて、全体としては古臭くて、それでいて新しいような感覚があり、まさにコルンゴルトの音楽の面目躍如たるものだ。もう15歳でこれだった訳だ。
第2楽章はスケルツォ、全曲中、もっともダイナミックな音楽である。後年の「ロビンフッドの冒険」や「シー・ホーク」を思わせる壮麗さがあり、これまた彼らしい響きに満ち満ちているのだが、それは長く続かず、すぐさま田園風なトリオになって、第1楽章の気分にもどり(主題も循環しているようだ)。この振幅の交替によりスケール大きな楽章に仕立て上げている感じ。
第3楽章は子守歌のような緩徐楽章である。20世紀初頭の楽曲らしく、多少印象派のようなオーケストレーションでもって、幻想的なムードを導入しているのが、この楽章の特徴だろう。また、ここでも第1楽章メインの主題を循環させたり、様々な音楽的要素を散りばめつつ進行していくが、その情報量たるや並のものではない。まさにひとつの文化が終わろうとしている時のみに出現するあらゆるものが統合された音楽だ。
全曲中もっとも長い(15分くらいかかる)最終楽章は、文字通りフィナーレで、メインの主題を変形した断片に始まり、やや表現主義な不穏なムードにはじまるのが印象的だが、実はそれは味付け程度で、主部はコルンゴルトらしいオプティミズム満開の明るい音楽でもって、あちこち寄り道しつつ、次第に壮大な盛り上がり、ブルックナー風なコラールでハイライトを作っていくという筋書きである。
という訳で、このCDを購入したのはもう10年以上前のことだが、これまでダラダラと聴き流してばかりいて、じっくりと聴いてみたのは、実はこれが初めてなのだが、とても良い曲であった。それにしてもこんな巧緻極まりない曲を15歳で作ってしまうというのは、やはり恐るべき神童という他はない。ツェムリンスキーもR.シュトラウスも戦慄を感じるのもさもありなん。
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