UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

明治維新は牢獄から!伝統あるわが湖国の刑務所・・・

2018-09-14 02:16:39 | 日記
9月11日の午後、GGIは湖国の監獄である「滋賀刑務所」に入ってきました。悪いことをしたからではありません、「参観」という名の見学に行ったのです。

刑務所や拘置所など、いわゆる刑事施設の見学を全国的に実行している市民グループの元気青年の誘いがあったからです。GGIさん、無為徒食の日々を反省して、たまには刑務所を見学して、己の幸せをかみしめてみてはどうですか、とこの青年に言われたのです。

受刑者や犯罪者と疑われている人たちを収容する刑務所や拘置所などにおける、これらの人々の処遇・扱いは国際的にみて過度に厳しいものであるため、刑事施設の実態を確かめ刑務所や拘置所などで行き過ぎたことが行われていないか、市民が見学してしっかり見張りませうという活動です。

実はわが湖国の刑務所、GGIは4年前にも見学しております(その時のことは2014年11月13日の日記に書いておりますので、よろしければご覧ください)。けれども、GGIはふたたび見学に参加したのでありました。この青年の話によれば、同じ施設をできれば数年に一度は見学に訪れて、特に受刑者の人権という観点から、その間に何らかの変化があるか、何か問題が生じていないか、何らかの改善が施されているか、などを確かめることが必要であるとのことでした。御説ごもっともであります。

わが湖国の刑務所、以前は市街地ともいえるわが庵の近く、湖岸の城跡にあったのですが、その後、市の郊外に移転しています。

移転に際して、湖国を地盤にしている西武さんが暗躍、所有していた二束三文の値打ちしかない山林、刑務所の用地として提供するから、その代わりに高層プリンスホテルを湖畔に建てるために湖岸の埋め立て地をちょうだいね、と関係者に働きかけてまんまとホテル用地の入手に成功したとの風の噂を耳にしたことがあります・・・

などと話が脱線いたしましたが、最近はどこの刑務所でも見学者がふえているせいか、見学に行きますと、施設の内容がしるされたパンフレットが用意されています。

先日見学しましたときに配られたパンフレットによれば、わが刑務所、すなわち「滋賀刑務所」の沿革が以下のように記されておりました。

・明治9年(1876) 大津市御蔵町に仮懲役場を設置
・明治11年(1878)「滋賀県監獄」と改称
・明治18年(1885)膳所城跡に「膳所監獄」が竣工
・大正11年(1922)「滋賀刑務所」と改称
・昭和41年(1966)現在地(大津市大平)に移転

驚きますね。わが刑務所、明治に入ってまもなく、まだまだ政府の体制も整っていない時期にすでに設けられていたのです。江戸時代の刑法?が改められ、明治5年に「監獄則」なるものが制定され、それに則ってわが刑務所の前身である刑事施設が設けられたのです。

まだまだ法制度が整っていない、議会も存在しておらず、憲法も作られていない時代に、明治に入ってからわずか9年目に、刑務所が設けられているのです。しかも、江戸時代の「牢獄」に代わる新国家のための施設が、中央からみればまったくの片田舎ともいうべきわが湖畔の町に、早くも設けられていたのです。おそらくこの時期に全国のあちこちに新時代の刑務所が出現していたのでありませう

何と国家なるもののの動きは素早いのでありませうか、未だ維新政府の体制も整っていないのに、新国家の建設は、まずは治安対策から!何を差し置いても、まずは刑務所から!何にもまして犯罪者の取締りから、国の基本を成すはずの憲法の制定や議会の開設なんかは急ぐことはない、そんなものはあとまわし、あとまわし・・・・

何と明治の権力者たちはシッカリしていたのでありませう。国家というものはそういうものだ、それがリアルな現実であると言われてしまいますと確かにそのとおりではあるのですが、それにしてもこの素早さ、抜け目のなさに、GGIは正直申してあきれてしまいました。

最近は明治150年などと「栄えある」明治維新を持ちあげる声があちこちで聞かれるのですが、明治維新のスタートはこのようなものであったのです・・・

上記のように、明治11年(1878)に当初の施設は「滋賀県監獄」と改称されていますが、これは「1872年に欧米諸国(主にフランス法)に学んだ監獄則が制定された」(ウィキペディアより)ことによるものだとされています。その後、この監獄則は明治41年(1908)に監獄法に改められています。

そして、さらに驚くべきことに、この受刑者の人権なんかほどんど眼中にいない「監獄法」なるもの、戦後も廃止されることも大きく改められることなく平成17年(2005年)になるまで、何と百年近くも施行されていたのです。

名古屋刑務所で受刑者が刑務官から裸のお尻に高圧の放水を浴びせられて腸が破裂して死亡するという酷い事件が起きたのをきっかけに「行刑改革会議」が設置され、やっと明治の「遺産」ともいうべき古めかしい、受刑者の人権への配慮が大きく欠落している監獄法が全面改訂され、新たな法律「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」(通称:刑事収容施設法)が2006年に制定されるに至っています。

つまり、ほんの10年少々前までは、明治初期に作られた古めかしい監獄法が生きていたのです。つまり「明治」は遠くはならずに、実際にごく最近まで生きていたのです。ですから刑務所に関する限りは「明治150年」なる言辞は事実であると言ってもよいのです。

かようなしだいで、明治の初期に設けられたわが湖国の刑務所はなかなか伝統ある施設なのであります。また、滋賀刑務所は、大津市内で起きたロシア皇太子襲撃で知られる「大津事件」(1891年)の犯人、警備にあたっていた巡査の津田三蔵が当初収監されていた刑務所としても知られています。

今日の写真は、現在地に移転する前の、膳所城跡に設けられた滋賀刑務所の写真です。いつごろの写真かは不明ですが、おそらく戦前のものでありませう。同刑務所のパンフレットから借用しました。よろしければクリックしてご覧くださいませ

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!