■ 結局、日々の小さな幸せの積み重ねなんだな、と思う。幸せな人生とは?という本質的な問かけに対する私の答えだ。大計を立てて、それに向かって長い期間、何年も努力する、そういうロングスパンな生き方もあることは承知してはいる。そう、オリンピック出場を目指して苦しい練習を重ねるというような。でも日々の小さな幸せの積み重ねだと私は思う。
普段は残業続きで帰りが遅く、夕食の前に風呂に入ってビールを飲むなどということはできない。出先から比較的早く直帰できることが偶にあるが、その日は食前の風呂とビールができる。そんな日は、幸せだな~と思う。日々こうしている人たちも多いだろうが、その人たちにしてみれば当たり前のことであって、それが幸せなことだとは感じていないだろう。
残業までするような仕事に就いていることは、失業中の人からすれば幸せなことだろう・・・。ケガをして歩行困難になってしまった人は普通に歩いている人が幸せな人に見えるに違いない。昨日と変わらない朝を迎えることができたことも幸せなこと。具合が悪くて起きることができない朝だってあるではないか。朝食を摂ることができるのも幸せなこと。一日満足に食事を摂れない人たちだって少なくない。例示すればきりがない。
ある出来事を幸運なことと捉えるか、不運なことと捉えるか。先日、朝のラジオ番組で聞いたエピソード。番組に出演していたある大学の教授が出張のために駅に車で行くと駐車場がどこも満車だったという。仕方なく自宅まで戻って小走りに駅に向かい、予定通り特急電車に乗ることができたそうだ。
これは幸運なこと?それとも不運なこと?大学教授が問いかけた。
人によって答えは違うだろう。結局電車に間に合ったのだから、よかった、幸運。満車で駐車できず、いったん家に帰らなくてはならなかったわけだし、また駅まで急いで戻らなくてはならなかったのは不運。
あまり冗長になってもいけない・・・、結論。
要は日々のいろんな出来事を幸運なこと、幸せなことと捉えること。先の例だと、電車に間に会ったのだから幸運だと解したい。日々の小さな幸せ、その積み重ねが幸せな人生になるのだから。
私なんか難病で歩けない身体障碍者ですが五体満足の健康な人と比較しては生きていけません。自分のできる事に喜びを見つけるしかありません。五体満足でも精神の弱さで何もできず引きこもりになるひともいます。
ところで岡山の神社の備前焼の狛犬が七体も盗難にあったとヤフーにもでていました。最近の犯罪は罰当たりなんか考えず悪い事をするものです。
夜間人が近づくと警告灯が点灯してセンサーを切断するとサイレンが鳴り通報するようにでもしないと盗難にまたあいそうです。
誰のものでもない自分の人生、幸せに生きないと、
という思いです。
狛犬の盗難ですか。仏像が盗まれたりもしますが、
何とも残念です。
すばらしい民家の写真にいつも魅せられています。
「小さな幸せ」
私も今日何気なく考えたことがありました。
認知になった義母を我が家に迎えて今年で5年目を迎えます。
それまでは、夫と休みの日はランチに出かけたり、時には旅行に出かけたりしていました。
それがもう普通のことになっていました。
今はそういう当たり前だった時間はとれません。
しかし、ありがたいことに祭日でもデイサービスがあります。
そういう日だけは、夫婦だけの時間がとれます。
ゆっくり別府の温泉に入って、ランチを食べたりして過ごします。
温泉につかり、本当に幸せだな~って思います。
いつでも出かけたときに感じることがなかった大きな幸せ感です。
義母が私の作った料理をきれいに食べたときにも幸せを感じます。
義母が笑点を見て笑っているのが聞こえてきたときにも幸せを感じます。
小さな幸せは、大変なことが多いほうが感じられるような気がする今日この頃です。
tamiさんのブログを読んでいて私なりに考えたことを
書きました。タイトルはお察しの通りです。
小さな幸せを感じることができる暮らしっていいな、
と思いながら暮らせることが幸せなんでしょう。
来月から宇江佐さんの小説を読み始めるつもりです。
はまりますよ~、絶対に。
きっと、U1さんはお文さんのフアンになります!
今年中に「髪結い伊三次捕物余話」を全巻読破したいと
思っています。お文さんという女性が登場するんですね。
まずは、その準備読書で「無事、これ名馬」新潮文庫を
読もうと思っています。町火消しの頭が登場する物語だ
と分かり、買い求めました。