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古い曲が気になる

羽田空港は、混雑していた

2011-03-16 | 日記・エッセイ・コラム

                                               

 

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 東京のニュースは、それほど流れないから、きっと北海道の人は、首都圏の緊張を実感できないだろう。福島原発から東京は、250キロしか離れてないのだ。

 電車は、突然の停電で止まるのを恐れて、運休・間引きしている。とうぜん、朝夕のラッシュはすさまじい。原発事故は、終息にむかうのではなく、さらに悪化すると、だれも自覚がある。

 原発事故に関して、政府からも、東電からも正確な情報がない。枝野の、楽観的希望的あいまい会見の直後に、爆発や火災がつぎつぎに起きる。まったく信用できない。NHKも、放射線は、ただちに健康被害がおきる量ではない。と、何の根拠もない、楽観的放送に終始している。これも、まったく信用できない。

 自己判断しかないのだ。

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 羽田空港は、大混雑していた。ペットの犬をつれて空港にやってくる白人の外国人がたくさんいた。身なりの良いアフリカ人の20人くらいのグループが、それぞれ大きなトランクを持ってやってきた。どこかアフリカの国の大使館員のようだ。大阪か福岡に大使館機能を移転するのか?

 羽田空港までの、京浜急行の車内では、半数ちかいお客が、マスクをしていた。空港は、小さい子供をつれて飛行機にのる母親がたくさんいた。妊婦も目についた。小さい子供や妊娠している人は、いま首都圏にいるのは、危険だ。放射能がヤバいが、スーパーマーケットや薬局では、ミルクも紙おむつも売り切れだ。大きな余震もつづいている。

 空港が混雑しているのは、関東から、大阪や九州や北海道に出る人たちもいるが、被災地をめざす人たちもいるのだ。水や米を持って家族親戚をたずねる人、ボランティアで手伝いにいく人たちだ。医師や看護師もいるのだろう。欠航してない山形や秋田や花巻や八戸にいって、目的の被災地をめざすようだ。

 京浜急行の車内からみる街は、闇に近い。停電しているわけでなく、ネオンやビルの明かりがほとんどないのだ。1973年(昭和48年)、石油危機のときの、あの、夜の街の闇だ。

 帰りに通ったJR川崎駅は大混乱だった。計画停電の影響で、南武線が50%運行だ。帰宅の時間だから、とんでもなく混雑し、改札で入場制限をしていた。

 駅のエスカレーターは、停止させていた。小田急の下りも大ラッシュだった。わたしが乗った上り(都心、新宿に向かう)は、ガラガラで、向いのホームのすさまじい帰宅の人と、数人しかいない、わたしの新宿行のホーム。不気味な対比だった。(不気味な光景だが、あれだけの、数千人の人が、冷静に列をつくるのだから、日本人は、すごい、と思った)

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 新宿駅の飲食街は、営業していて、いつもより繁盛していた。コンビニの弁当・おにぎり類は売り切れだし、きっと家に帰っても、停電で料理ができないかも知れない、と帰りの電車に乗る前に夕飯を食べている人たちも多いのか。オール電化のマンションでは、停電になれば、ご飯どころか、カップ麺のお湯も沸かせない。

 節電のために駅全体の暖房を切っているから、駅ビル内でもひどく寒い。自動ドアを開けぱなしにして、店内の照明を落としていて、いつもよりかなり暗い。そのうす暗い店内で、満席のお客がカレーライスを食べていたりするから、不思議な光景だ。

 午後9時ころにのった東京メトロ東西線の下りは、いつもひどく混む時間なのに、いつもほどでない。都心で酒を飲んだりせず、早々に帰宅したのだろう。車内で傘を持っている人たちがたくさんいた。放射能に汚染した雨を警戒しているのか。

 東京メトロ浦安駅もエスカレーターを止めていた。

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 結局、政府や東電の情報をあてにせず、自分の判断で行動していくしかない。そういう、諦めの、開き直りの雰囲気が、電車のなかの人々の表情に現れている。さらに原発事故が、再臨界の最悪な事態になっても、ここで生きていくぞ、という暗く緊張した顔だ。

 近所の焼肉屋は、外で調理をして、熱い丼物を売ってる。たくましい商魂だ。

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 シャンプー無料でします、トイレ自由に使ってください、と張り紙しているのは、近くのヘアーサロンだ。都市ガスは復旧したが、水道の水圧が低いので、給湯器やトイレが満足に使えないマンションや住宅も多いのだ。

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 まだ大きな余震が頻発している。今夜も東京は、ひどく寒い。真冬のようだ。エアコンや電気コタツしか暖房がない何千万人もの人々が、節電のために、自ら暖房を切って寒さに耐えているだろう。被災地の人々を思うと、まだ、自宅で眠れるだけいい。