川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

松尾まちづくり協議会総会開催される

2011-04-30 00:20:17 | 日記

 松尾まちづくり協議会(会長 今村勇)の総会が4月29日、松阪市丹生寺町の松尾地区市民センターで開催されました。この日会場には協議会の役員など76名(委任含む)が出席をして22年度の活動報告・会計収支決算、23年度の活動計画・収支予算などの審議がおこなわれました。山中市長とともに私も来賓としてお招きいただきました。

 

 松尾まちづくり協議会は平成16年に市の説明会を受け、平成17年3月から勉強会をスタート、平成18年2月に準備委員会を設立して準備に取り組んできました。そして2年前の平成21年4月に松阪市内13番目の協議会として設立され、2年が経過します。

同会には公民館部会、福祉部会、安全防災部会、生活環境部会と4つの部会があり、それぞれ部会で事業を主催して活動をしています。

 

 松阪市の方針として、まちづくり協議会については今年度中に結成してもらうように市内の43地区の全域に結成を呼びかけており、今日も宇気郷地区で結成総会があり、現在24地区で設立されています。

 

松尾まちづくり協議会の平成23年度の新役員は93名いますが、主な役員は次の通りです。

  会 長  村田善清

  副会長  渋谷博希

   〃    清瀧薫

  会 長  垣本長生

  書 記  岡島孝

   〃    森雅子

  監 査  渡辺勝美

   〃    中川文夫

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第82回メーデー松阪地区集会開催される

2011-04-29 14:09:36 | 日記

労働者の催し第82回メーデーの松阪地区集会が中部台運動公園芝生広場で開催されました。私も初めて来賓として参加させていただきました。

メーデーは労働者の日として世界中で行われる行事で、日本では祭日になっていませんが、この日を祭日にしている国も多くあります。日本のメーデーは1920年5月2日に上野公園で行われたのが最初で、このとき1万人の労働者が参加しました。戦時中は中断しましたが、終戦後復活して今日に至っています。

 

今大会は東日本大震災の発生により中止や室内での開催も検討されたということですが、自粛見直しの流れの中で、予定通り中部台運動公園で開催されました。今回は「祭典」という言葉を使わずに、『東日本大震災「つながろうNIPPON救援宣言」』を合言葉に行われました。

大津未来生実行委員長のあいさつ、来賓あいさつ、メーデー宣言採択、団結ガンバロウなどが行われました。例年では最後に抽選会がありますが、今年は抽選会が取りやめになり、その費用と当日集めた義援金を合わせて東日本大震災の被災地に送られることになりました。

また芝生広場では障がい者福祉事業所4団体(希望の園、きらりんぱ、ポケットハウス、向野園)による物品販売も行われました。

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「星野富弘 花の詩画展」始まる

2011-04-28 14:26:44 | 日記

不慮の事故により手足が不自由になり、口に筆をくわえて書かれた詩画展「星野富弘 花の詩画展」が松阪市外五曲町の松阪市文化財センターで、今日4月28日から始まりました。この詩画展は「富弘美術館を囲む会(小林佳子代表 会員20)」が主催して、三重県及び同教育委員会、松阪市及び同教育委員会などが後援をして行われるものです。

 

この日9時から行われたオープニングセレモニーでは、小林佳子会長が挨拶をされ、山中市長や富弘美術館の須藤沘一郎館長が祝辞やお礼を述べられました。また来松できなかった星野さんのメッセージが披露され、これまで三重県には修学旅行や修学旅行のアルバイトの添乗員として来たことや、今回三重県では3回目の展示会となりますが、展示される作品は私たち夫婦の子供のようなもので、中には出来の悪い子供もおりますがよろしくと述べられました。このあと星野富弘作詞の詩に曲を付けた歌が、披露されました。テープカットのあと来場者は3つの部屋に展示された作品を見学しました。

 

星野富弘さんは1946年群馬県勢多郡東村に生まれ、中学校の教師となるが、1970年クラブ活動の指導中のケガで手足の自由を失い、病院に入院中に文や画を描き始める。1979年に初の作品展を開き、1991年に同村草木地区の集会所を改装して美術館を始めました。現在、群馬県みどり市東町草木に20億円をかけた立派な「富弘美術館」があり、年間600万人の来場者が訪れます。

 

本詩画展を主催する富弘美術館を囲む会の小林佳子代表は、現在大紀町にお住まいですが、星野さんとは30年も前からの知り合いで、以前に茨城県水戸市に住んでみえたとき美術館を訪れ、星野さんから本をいただいたそうです。その後つくば学園都市で行われた詩画展を見に行って以来の付き合いだそうです。

囲む会は松阪市を始め、四日市、津、大台町の皆さんで構成され、この詩画展は2年も前から取り組んでこられました。展示会に必要な経費はカンパをお願いしたそうです。この日は会員の皆さんのほかにも、たくさんのボランティアの皆さんも来場されていました。

 

作品を見せていただきましたが、今日は多くの来場者があり、ゆっくり見ることができなかったので、改めてゆっくりと見せていただきたいと思います。作品の中で気に入ったのを1つ紹介します。

 

まつたけ

 

がんばれ まつたけ

まつたけ がんばれ

おまえは 山にしか出るな

松の根もとしか 出るな

一年に一度しか 出るな

 

どんなに 金をつまれても

甘いことばで誘われても

おまえは自分の生き方を変えるな

大安売りのシイタケを見ろ

エノキは ビンの中で まるでモヤシだ

頼りにしていた マイタケも 落ちた

 

がんばれ まつたけ

まつたけ がんばれ

おまえは自分の生き方に誇りを持て

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大相撲 技量審査場所

2011-04-26 22:04:58 | 日記

「大相撲技量審査場所」。もうちょっといい名前はなかったのかなあと思うのですが、本来の本場所と違うということを表す意味で、わざと事務的な名前にしたのだろうか。日本相撲協会は八百長問題で、来月行われる大相撲夏場所に変わり大相撲技量審査場所を行うと発表しました。観客から入場料を取らず無料とし、テレビ放送や懸賞金などがないが、成績や記録は生かすということです。

 

大相撲もいじめによる死亡事件から野球賭博、そして今回の八百長事件といろいろな問題が連続して発覚しました。八百長に関しては以前から噂はありましたが、今回初めて事件となりました。八百長はおそらく大相撲が始まって以来、相撲の歴史とともにあったのではないかと思います。口頭や電話での話では証拠が残らないのですが、今回メールという動かぬ証拠を突きつけられては、認めずにはいられませんでした。

 

 八百長の依頼をメールでするというのは、いかにも現代っ子という感じですが、消去したはずのメールを復元されては、お手上げです。おりしも4月26日、ライブドア事件の堀江貴文被告の実刑が確定しましたが、あの捜査の時もパソコンの消去したデータを復元して、証拠固めが行われたと聞きました。

 私も今のパソコンを使い始めてから、ものすごい量のデータを消去していますが、これらすべてを復元できるのだろうか、パソコンの機能に感嘆します。

 

 大相撲も変則的な開催が続いていますが、早く本来の本場所を見たいものです。

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パフォーマンスと受け狙いの政治

2011-04-24 20:24:14 | 日記

 今の政治の世界、特に地方政治で「受け狙い」やパフォーマンス政治が流行っている。住民受けのする甘い言葉を発したり、派手なパフォーマンスで注目を集めようとする政治である。このような政治が住民のためになるのなら、日本中こういう政治が行われていいはずであるが、極一部の人しか行われないところを見ると、何か問題があるのだろう。

 

 たしかにパフォーマンスは一時的に人々の注目を集める。しかし夜空に打ち上げられた花火のように一時的には華やかであるが、やがて人々の関心は淡く消えていく。パフォーマンスで人々の注目を集め続けるためには、花火を打ち上げ続けなければならない。政治に携わるものが自分の不足する部分をパフォーマンスで補うのであろうか、パフォーマンス政治には何か軽さやむなしさを感じる。

 

 「減税」。住民にとって大変耳障りのいい言葉である。減税するのがいいか、しないのがいいのか、住民の皆さんに聞けば減税するのがいいと言う人が多いだろう。しかし減税した後どうなるのであろうか。減税で収入が減った分住民サービスが低下するのか、あるいは減税した分借金が増えるのか、はたまた住民にとってバラ色の世界が広がるのか、いずれにしても最後の付けは住民が負うことになる。

 

 先日退任した野呂昭彦前知事はパフォーマンスを極力嫌っていたといわれている。前任の北川知事が派手なタイプの知事であったが、対称的に野呂知事は地味なタイプの知事で、マスコミに登場することは少なかった。野呂知事の評価は何年か経った後に行われるであろう。

マスコミはいつもニュースを探している。だから政治に携わる者が少し奇異な動きを見せればすぐニュースになる。そしてマスコミに登場すれば、なぜか自分が偉くなったような錯覚に陥るのだろうか。

 

日本中には政治改革に取り組んでいる首長や議会があろうが、その多くはパフォーマンスとは無縁であろう。パフォーマンスがなくとも政治改革はできるし、政治改革にしっかり取り組むには、パフォーマンスをしている余裕はないのではないか。

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近くて近い隣人・韓国

2011-04-23 09:15:23 | 日記

韓国。かつては近くて遠い国といわれましたが、テレビドラマ「冬のソナタ」が人気を博して以来、韓流ブームが続いています。私はこの韓流ブームが起きる前、短い期間でしたが仕事で韓国に住んでいたことがありました。もともと韓国という国は好きでしたが、あらためて好きになりました。韓国には日本にないものがあったり、日本では既に失われたものが韓国には残っていたりしました。昔のよき時代の日本の姿が韓国で見られたりして、何となく懐かしい気もしました。

 

韓国民は情熱的で勤勉です。そして大変おおらかな国民性であることを感じました。私たちが接した韓国人は明るく、いつもユーモアにあふれていました。

その反面、韓国は儒教の国で、目上の人に対する礼儀、礼節ができています。親を敬い、年上の人を敬い、師を敬う。国民全体に一本筋の通った規律のようなものを感じました。

今、中国がアジアで、世界で大きな存在感を示してきていますが、いろいろな意味で発展途上の中国に対して、韓国は成熟した国という印象を受けました。

 

今日4月23日の中日新聞の「特報」で「危機の隣人 韓国は支える」というテーマで権哲賢在日大使のインタビュー記事が載っていました。東日本大震災の発生直後、32カ国の在京大使館が閉鎖や退避する中、韓国大使館は大使も家族も帰国をせず東京にとどまりました。日本政府の判断を信頼して、日本在住の韓国人に対しても帰国命令は必要ないと判断をしたということです。

災害発生の翌日には、韓国から救援隊や救助犬が日本に入り、多くの救援物資が届けられたということです。また大韓赤十字に寄せられた義援金は約40億円になり、在日本大韓民国民団やボランティアによる炊き出しも行われているということです。

 

韓国で生活していた時は見るもの見るものが目新しく、とても新鮮でした。前回行ってから約10年が経っています。何とかもう一度行きたい思いでいっぱいです。

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ごくろうさま野呂昭彦前知事

2011-04-21 12:07:54 | 日記

野呂昭彦知事が2期8年の任期を終え4月20日退職されました。超派手な北川知事のあとを受けて就任した野呂知事であったが、就任当初はごみ固形燃料(RDF)の爆発事故など北川知事の施策の後処理に追われました。パフォーマンスが流行っている昨今の政治の中で、パフォーマンス政治を嫌って、堅実に政治を進めていくタイプの知事でありました。

 

野呂氏は衆議院議員、松阪市長、そして県知事と国、県、市と3つの行政に携わっており、自身もそう多くの人が経験できないことができてよかったと振り返っているそうです。私も野呂氏が衆議院議員時代からの支持者の1人ですが、お金に関してはクリーンな政治家でした。気さくで親しみやすい人柄で、よく「たもちゃん、たもちゃん」と呼んでいただきました。

 

今後の予定は全く考えていなく、しばらくは休養をされるということです。野呂氏は昭和21年生まれで、私とは1ヶ月違いの同い年(私が1ヶ月先輩)の64歳、まだまだ若いのでこれから氏の力が必要なことがあると思います。その時には国のために社会のために活躍されることをお祈りいたします。まずは長い間ご苦労さまでした。

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はにわ館企画展「大昔のくらし」始まる

2011-04-20 07:39:56 | 日記

松阪市外五曲町の松阪市文化財センター「はにわ館」で前期企画展「大昔のくらし」展が始まっています。この企画展は「地域の歴史をさぐろう」ということで縄文時代と弥生時代の生活の様子が再現され、平成4年の調査で天白遺跡から出土した埋蔵物など、県埋蔵文化財センター及び松阪市文化財センター所有の土器や、祭礼に使われた道具などが展示してあります。この企画展は6月12日まで開催されます。

 

文化財センターの展示では、小学校6年生の歴史の勉強の支援をしていこうということで、この企画展が開催されており、この日も小学6年生が見学に来ていたということです。同センターでは夏休み特集として7月から、櫛田川流域の遺跡からの出土品など昔の生活の様子を展示し、秋には松坂城跡が国の史跡指定を受けたのにちなみ、氏郷・松坂城跡に関する展示が予定されています。

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小野町の北斗山向井院大祭

2011-04-19 22:10:47 | 日記

松阪市小野町の北斗山向井院で4月19日に大祭が行われました。この神事は三重県修験道会(向井朋範会長)が主催し、松阪市観光協会が後援をして毎年この日に行われるもので、同修験道会の会員15名により、紫燈大護摩や火性三昧(火渡り)が儀式に則り行われました。

 

この神事は向井会長の話によると、明治の後期(35~40年頃)に始まったもので、明治18年2月18日、小野町の集落の東側にある向山から仏像が出土しました。向井会長の父・向井董峰さんの夢で、この仏像を向山の上に祀るようにお告げがあり、個人が持っていた山を譲り受け、仏像を祀ったということです。この向山は向山古墳のある山の一角で、昔から「不思議の山」と言われており、年配の人の話では子供のころには洞窟があり、よく遊んだということです。

 

向山の上で、ほら貝が鳴り響く中行われた祭礼の最後に火渡りがあり、見学に来た近くの人たちが煙の立ち込める薪の上を順番に渡り、家内安全、五穀豊穣などを祈りました。

 

向井朋範会長の息子さんの向井久視さんよりいただいた資料に、護摩供の所以がありましたので紹介します。

 

護摩

護摩とは焼の義である。

大日法身の智火を以って法界に遍満し、周遍法界の智火を以って、衆生の無明の煩悩を、焼き盡すのである。不道明王觀を為し、諸障浄除して三事をなす。

三事とは、息災、増益、調伏であり、三事三平等、身口意、本尊、炉、行者が三々平等、入我我入し、衆生の願いを叶えるものである。

 

法弓

神力の加持により、道場に障害を与える賊、即ち悪魔を退散せしめ東西南北、四維上下又、青黄赤白黒の相、自然に現じて、五大神龍王降臨して、悪魔の結界を為し給う。

 

法斧

斧とは、深山を切り開き、抖そう修行の密具であり、薪を切って身に付いた煩悩の敵を断焼して、有無の二見を焼尽する事火の減するが如し。

 

法剣

不道明王般若の利剣であり、自分を切る事なく、又、人をも切らず、煩悩も切る事なく、その心無である。然し、一旦邪の心、即ち、善と悪が交差して戦う時、憤然としてその悪を断絶して如来に導かんとするものである。

 

 

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軽率な内閣官房参与の発言

2011-04-18 01:53:40 | 日記

菅総理と会談した松本健一内閣官房参与が福島第1原発から半径30キロ圏内の地域について「10年~20年は住めないだろう」と菅総理が言ったと、会談後明らかにした。その後、内閣官房参与は「あの発言は、私の発言で首相は言っていない」と記者団に釈明した。内輪の話の中ではいろいろな発言が飛び出し、その中から公式に発表できるものを、しかるべき人が発表するものであろう。こんな大事なことを一内閣官房参与が軽々しく口にすべきでない。

 

災害発生後、枝野官房長官が災害や原発事故について記者団に丁寧に説明していた。発表だけなら、あらかじめ検討して書いたものを読めばいいが、質問に対してもしっかりと対応していた。いくつかの質疑の中で、うっかり発言や失言が飛び出すことも考えられるが、枝野官房長官の記者発表の中ではそのようなことはなく慎重であった。この枝野官房長官の記者発表は外国のメディアでも高く評価され、明らかにやつれた姿に「枝野を寝かせろ」という意見が出され、国内でも「枝野 寝ろ」という、うちわまで作られた。

 それに引きかえ、この内閣官房参与の発言は何と軽々しいことか。

 

 私たちの市議会においても、議員間でまた議員と行政の間で、内輪の話や本音の話しが交わされるが、それを議会など公の場に持ち出すことなどは、少なくとも松阪市議会においては記憶がない。それは議会人としてではなく、社会人としての最低限のルールであろう。

その発言で社会が大きな影響を受ける立場の者は、時と場所と自分の対場をわきまえるべきである。

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学校給食今とむかし

2011-04-15 14:35:01 | 日記

松阪市の小中学校全校を対象とした学校給食に関するアンケート結果が発表されました。この調査は昨年11月から12月にかけて松阪市給食管理課が実施したもので、4月14日付けの夕刊三重紙も詳しく報じています。

松阪市では平成19年に松阪市学校給食センターベルランチが稼働して、市内の全ての小学校、中学校で給食が実施されるようになりました。私の通っていた小学校(松尾小学校)では、たしか私が小6の時に給食が始まったので、松阪市の全ての小・中学校に給食が行き届くのに50年以上かかったことになります。

 

当時は戦後間もないころで、家が貧しいため弁当を作ってもらえない子供もいました。我が家も貧しかったのですが、農家であったので何とか弁当は作ってはもらいましたが。弁当を作ってもらえない子は、昼食時になると運動場で遊んだり、私の知り合いの女性は当時、学校の裏の山に行って時間を過ごしたと言われていました。

他の子供たちが弁当を食べている時に、お腹が空くのを我慢して校舎の外で過ごす子供たちの気持ちは、どのようなものであったのでしょうか。また子供に弁当を作ってやれない親の気持ちは、どのようなものであったのでしょうか。子供たちは小さな心でその家が置かれている状況を受け止め、我慢したのです。そして非行に走ることもなく、元気に育っていったのでした。

 

そのような時代に始まった学校給食は、弁当を作ってもらえない子供たちにとって、みんなと一緒に食事ができる喜びがあったのではないでしょうか。しかし保護者にとっては、給食費が払えないという、新たな難問に直面することになります。今の時代の一部の保護者のように、お金があっても給食費を払わないのとは、全く異質のものです。

 

今回の松阪市アンケートでは、給食の時間が楽しくないと答えた小中学生が1割いたということですが、何故なんでしょうか。嫌いな食べ物があるからでしょうか。

私は当時、給食の時間が大変楽しみでした。今まで食べたことがないようないろいろな献立があったからです。特にクリーム(シュークリームの中味)が出された時には、世の中にこんなに美味いものがあるのかと、今でも記憶に残っています。また給食でパンが食べられることがうれしかった。当時の子供にとってパンは最高の食べ物でした。また当時の給食で出されるミルクは脱脂粉乳から作ったものでした。よく脱脂粉乳のミルクはまずいと言われましたが、私は大変おいしかったと思いました。ミルクというものは日常の生活の中では、なかなか私たちの口に入らないものでしたから。

 

今の子供たちが好きな食べ物は、カレー、揚げパン、鳥の空揚げ。嫌いなものは魚、野菜、などだそうです。調理師さんがカロリーや栄養バランスなどを考え、献立を作り、調理をしてもらっています。おいしく召し上がって下さい。

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松阪の地名を訪ねて(8)-「寺」の付く地名④-

2011-04-13 22:45:29 | 日記

(写真は薬王寺のあった山)

寺のつく地名④『薬王寺町』『蓮花寺町』について

 

 しばらく休んでいた地名探訪を再開します。

 松阪市内の地名探訪、「寺」の付く地名の4回目です。今回は『嬉野薬王寺町』と『蓮花寺町』の地名の由来となった「寺」を探訪します。

 

 

◆嬉野薬王寺町について

『嬉野薬王寺町』の地名の由来となった、薬王寺廃寺についての詳しい資料はなく、嬉野薬王寺町の地元の年配の方何人かにお聞きしても、薬王寺というお寺があったということも聞いたことがないという返事が返ってきました。 

こういう中で、嬉野薬王寺町534にある吉祥山善福寺の長谷川佑宝住職からお話を聞くことができました。この地にあった薬王寺は青蓮寺とともに善福寺に合祀されたということです。青蓮寺は薬王堂病院近くにあって、昭和の初めに合祀され、本尊の11面観音菩薩が善福寺に安置されています。また薬王寺はいつ頃合祀されたかは分かりませんが、善福寺に合祀され、本尊の薬師如来像が仏具とともに善福寺に保存されているということです。

長谷川住職のお話によると、薬王寺廃寺のあった場所は、集落の北側の「嬉野町薬王寺ポンプ場」の近くにある山の上だそうです。

この「薬王寺」は高野山真言宗の松坂竜泉寺の末寺で、紀州藩より寺領高一石四斗余を拝されていました。

 

◆蓮花寺町ついて

『蓮花寺町』には現在この名前の寺はなく、天保2年(1831)の多気郡蓮花寺村の「蓮花寺村宗旨御改帳」に阿弥陀寺(現在の東黒部)の記述があり、この頃には既に蓮花寺という寺はなかったと思われます。地元の人に聞いてもこの名前の寺があったかどうかはわからないということです。何か情報があれば教えて下さい。

 川口保のメールアドレス E-mailkawaguchitamotsu.info

 

寺の付く地名はこのほか、小字にもいくつか付いています。我が西野町の山にも「法淨寺」というところがあり、やはり昔にお寺があったということです。

「寺」の付く地名の探訪はここまでとします。また新しい情報がはいれば報告します。

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8公民館合同水墨画展始まる

2011-04-12 23:33:25 | 日記

松阪市外五曲町の松阪市文化財センターで、「第8回合同水墨画展」が今日4月12日から始まりました。この展示会は猟師町の林芳洲さんを講師とする8つの公民館(港、神戸、宇気郷、橋西、嬉野、中川、中原、飯南)で水墨画を習う会員が、日頃の成果を発表する場として毎年この時期に開催されているもので、今回が7回目となります。

 

 会場には会員36名から出展された作品130点が展示してあります。作品の大きさは色紙サイズから50号の大作まであり、習い始めて間のない人から何十年のベテランまで出展されています。私の友人知人もこの水墨画の会員の中に何人かいいて、毎年楽しみにしています。

 

講師の林先生は私の若いときの書道の師で、書道の世界から水墨画の世界に入られました。この展覧会は4月17日まで開催されています。

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東日本大震災後の旅行・イベントなど自粛の見直し

2011-04-10 17:18:40 | 日記

 東日本大震災の後、被災地の皆様への思いから旅行やイベントなどの中止や縮小が相次いでいましたが、ここにきて自粛を見直す動きが出てきました。自粛ばかりでは日本全体が元気でなくなり、日本経済が停滞するからです。

 

 私たちが予定していた恒例の旅行も中止になり、今ではそれでよかったのかと複雑な思いです。5月に予定されていたもので、行き先や参加費も決め、パンフレットの校正も終わり、印刷する間際まできていましたが、その時震災が発生しました。震災直後ですので中止の決定も仕方なかったのではないかと思っています。ただ旅行の中止は簡単ですが、旅行関連の旅行社やバス会社、観光施設、土産物店などはどうなるのだろうか心配したのも確かです。

 私の知り合いの観光バス客に食事を提供している店では、キャンセルが相次いで大変であると言われておりました。伊勢のおかげ横丁なども客が少ないということです。観光地では外国人観光客が激減し、さらに日本人観光客まで来ないとなると大変です。

 

 阪神大震災から少し復興したとき、神戸の人たちから、気兼ねなく神戸に観光に来てくださいというメッセージが、発せられたことがありました。今回の被災地で、津波の被害を受けた海岸沿いはとても無理でも、被害の少ない山間地の温泉などの観光地が復興して観光客を迎えられるようになったら、行ってみたい気がします。避難所で生活してみえる人たちには少し気兼ねはしますが。

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津波に飲み込まれるまで、避難を呼びかけ続けた女性

2011-04-05 17:00:14 | 日記

東日本大震災で自らが津波に襲われるまで、放送で住民に避難を呼びかけ続けた女性の話は以前から聞いていましたが、今日4月5日の中日新聞の「中日春秋」の記事を読み、改めて涙が溢れました。

 津波により壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町で防災放送担当だった24歳の女性は、津波が接近する中、住民に「津波が来ます。避難して下さい」と繰り返し呼び掛け続けた。最後の方では津波からの恐怖のためか声が震えていたという。そして放送は途中で途切れた。彼女の居た庁舎は一瞬に津波に飲み込まれていった。彼女の声は両親も聞いていました。彼女の命の叫びで避難して助かった人も多かったのではないだろうか。

 

宮城県女川町の水産会社の専務の佐藤充さんは地震発生後、中国人研修生20人を高台に避難させ、自らは家族を迎えに戻り、津波に飲み込まれ行方不明になっています。研修生を日本に送り出した中国遼寧省大連の人材派遣会社では、彼の行為を称賛して「日本、がんばれ」のメッセージを掲げて義援金の募集を始めたという。彼は日本人に接するように中国人研修生に接して、研修生には兄貴のような存在であったそうである。

 

 阪神大震災のときもそうであったが、日本で災害が起きると外国から見て日本は不思議な国に見えるそうです。災害で社会が混乱しているのに、日本ではなぜ略奪が起きないの?、日本人はどうしてあのように整然を並んで食糧などを受けることができるの?。それは日本人の心の中に脈々と受け継がれてきた、思いやりの精神、助け合いの精神です。苦しい時こそ日本人としての誇りを忘れずに、助け合い支えあっていく、それが日本です。

 

 家族を無くし、家を無くした多くの自治体職員や消防団員が、自らの傷心をこらえて避難所の世話をしたり、町の復興へ動き始めています。

 大丈夫ですよ皆さん。この国はきっと復活します。

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