川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

松阪シティマラソン開催される

2010-01-31 12:36:13 | 日記
 今日1月31日、松阪市立野町の中部台運動公園市民芝生広場と松阪市外五曲町の鈴の森公園を中心として第5回松阪シティマラソンが開催されました。この大会には北は青森県から南は福岡県まで2200名余りのランナーが参加しました。
 中部台運動公園では開会式のあと、今回のゲストランナーとして参加したテレビタレントの森脇健児さんが紹介され、全体体操のあと競技が始まりました。

 マラソンでは10㎞の部、5㎞の部、3㎞の部、2㎞(ペアジョギング含む)に分かれて健脚を競い、またジョギングを楽しみました。松阪市議では濱口議員が10㎞の部に、海住議員が5㎞の部に参加して完走しました。また山中市長も3㎞の部に参加して完走されました。今年は広報活動に力をいれたことにより、昨年の倍近くの参加者があり盛大な大会になりました。
 参加者には毎年恒例のうきさとむらによる「うきさと鍋」が振る舞われました。
 また鈴の森公園会場では8㎞ウオークが行われました。

 私も以前体育指導員をやっていたとき、このシティマラソンの運営に携わったことがありますが、走るのは無理なようです。この大会に参加されたランナーの皆さん、運営に携わられた多くの皆さん、ご苦労様でした。
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はにわ館「天下の台所」展開催中

2010-01-30 08:42:16 | 日記
 松阪市外五曲町の松阪市文化財センターはにわ館の21年度後期特別展として「天下の台所~大坂の城と町そして松坂~」が開催されています。私も先日見学しました。
 
 大坂の羽柴秀吉によって築城と城下町の整備が行われ、日本屈指の商業都市に発展しました。大坂夏の陣後も「天下の台所」と呼ばれるように物流・経済の中心でありました。一方松坂(「阪」ではなく当時の「坂」を用いている)では秀吉の家臣蒲生氏郷によって松坂城の築城と城下町整備が進められ、商業都市として発展してきました。後に江戸で松坂出身の豪商が活躍しました。大坂と松坂の成り立ちを知り、互いに比較・補充するということで、この展示が行われています。

 展示には金箔瓦、鉄砲玉、陶磁器、木製品人形、魚名木簡などがあり、中でも大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣所蔵)は圧巻です。この図は大坂夏の陣に東軍として参戦した福岡藩主黒田長政が生前描かせたもので、黒田家に伝来するものです。
 この展示は3月22日まで開催されています。
  (写真は展示が行われている松阪市文化財センターはにわ館)
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歴史民俗資料館すごろく展

2010-01-26 22:26:21 | 日記
 松阪市殿町の松阪市歴史民俗資料館で企画展「新春 すごろく展」が開催されています。もう少し早く見に行きたかったのですが、今日1月26日、行くことができました。
 すごろくは「双六」、「雙六」、「寿語六」、「寿古緑」などの文字がはめられ、簡易な遊具として親しまれてきました。江戸後期には伊勢参りをはじめとする「道中双六」が数多く版行されました。
 この企画展では盤双六、参宮上宮道中一覧雙六、東海道名所入新版道中雙六などの明治・大正時代のすごろくが数多く展示してあります。また小津遺跡から出土した15世紀の時代の土製のさいころも展示してあります。
 この企画展は1月31日まで開催されています。
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第2回蒲生氏郷公顕彰会講演会開催される

2010-01-24 21:01:20 | 日記
 今日1月24日、松阪市魚町の松阪市産業振興センターで蒲生氏郷公顕彰会講演会が開催されました。昨年9月に第1回が行われ、今回は2回目です。この顕彰会は蒲生氏郷の功績をたどっていこうとする会で、市議会議員では久松議員とともに私も入会させていただいております。

 今日の会場には顕彰会会員や市民など約100名が参加して「松坂城下のまちづくり-氏郷の都市計画」というテーマで歴史家の下村登良男さんから話しを聞きました。
 松ヶ嶋城から松坂城への移転に伴うまちづくりや氏郷の「町中掟」の話し、明治初期の松坂城下の地積図の様子などの話しがありました。
 
 滋賀県日野町にも蒲生氏郷のまちづくりが今も残っており、また松阪も、会津若松にも氏郷のまちづくりが残っています。松阪の町は戦災に遭わなかったおかげで、江戸時代の町づくり図を持っても今の町を歩けるほど、歴史的なストックが残っています。津城、鳥羽城、桑名城など各地で城を中心としたまちづくりへの取り組みが始まっており、松阪市政にとっても松阪城下のまちづくりをどうしていくかという取り組みが重要となってきます。
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荒れる成人式について

2010-01-21 21:45:30 | 日記
 毎年、成人式の日に「荒れる成人式」がマスコミで報道されます。青年時代に成人式に携わってきた一人として残念であり、悲しく思います。当時、松阪市において青年団活動が活発な時代、成人式の企画・運営の全てを私たち青年が受け持って進めてきました。だから今でも成人式は大変気になります。
 松阪市の成人式は毎年、問題なく開催されているものとばかり思っていましたが、1月19日付けの夕刊三重紙のコラム「デスク日記」で、松阪市の成人式でも『式典前になっても会場に入らない新成人が多く、開始は10分遅れ、司会者の声が会場に届かないほどの大声を出したり、壇上に上がって大暴れしたりと、目に余る行動が目立ったという』とあり、大変驚いています。
 成人式は、成人となった喜びと、大人としての自覚や責任を感じるための式典ではないでしょうか。成人式での大人になりきらない幼稚な行動には、何のための成人式かと思います。

 人は誰もが、目立ちたい、人から注目を集めたいという気持ちがあると思います。それは私たちが人生において人間として成長していくための大事な心の糧でもあります。「人より目立ちたい、人から注目されたい」という気持ちは学業でも、スポーツや趣味の世界でも、社会でも、精進していく上で大変大事なことです。しかし、人より目立つということ、人から注目されるということは、長く地道な努力の積み重ねすえに花開く結果です。成人式で暴れるのは、単なる軽薄なパフォーマンスにすぎません。全国的にみてもテレビで写し出される新成人たちの傍若無人ぶりには目を覆うばかりです。まして警察沙汰になる成人式なんて悲しい限りです。

 このような荒れる成人式においても、決して目立たずとも、足を地に着け、自分の将来をしっかりと見すえた、多くの新成人たちがいたことを忘れてはなりません。私たちは彼らに松阪市の将来を、日本の将来を託したい。

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副市長の公募と市議会議員の公募

2010-01-18 21:42:07 | 日記
 現在、松阪市で副市長が公募されています。昨年の11月議会で副市長の2人制実施のための条例改正案が可決されたのを受けて、1月12日から全国に向けて公募されているものです。応募資格は日本国籍を有する25才以上の人で性別・学歴は問いません。また論文の提出が必要です。募集は3月12日までです。

 松阪市のように市長が副市長を公募するのはいいのですが、名古屋市では河村市長の支援団体「河村サポーターズ」が市議選の候補者を公募して、36人の応募があったと新聞の記事にありました。公募の条件として河村市長のマニフェストを支持することとありました。
 いろいろな考え方の人が市議会議員に立候補し、市議会議員なるのはいいのですが、市長の支援団体から、河村市長を支援するための市議会議員を出すというのはどうなのでしょうか。

 国のように議員で組織された国会で内閣総理大臣を選任する議員内閣制と違って、地方政治では市長や知事などの首長も議会議員も直接住民から選ばれ、ともに住民の代表とする「二元代表制」がとられています。首長と議会は一線を科し、適度の緊張関係を保ちながらそれぞれ別の役割があるのです。
 国では時の内閣総理大臣を支持する与党と支持しない野党にはっきり分かれますが、地方政治では与党・野党はありません。ただ首長を支持する会派を「与党」、そうでない会派を「野党」と呼ぶことはありますが、国のそれとは異なります。地方議員は行政をチェックするという大変大事な仕事があることから「地方議員は野党であれ」といわれます。絶えず野党の立場で行政を厳しく見て「よいものはよい、悪いものは悪い」と言えることが大事であるということです。

 河村市長の支援団体からあがってきた市議会議員にはマニフェストを支持するという条件がつけられていますが、今後河村市長が出してくるマニフェスト関連の施策の全てに無条件で賛成なんて異様です。またマニフェスト以外の河村市長の施策に対しても「ノー」と言えるのでしょうか。市の行政をチェックする立場の市議会議員が河村市長のお抱え議員にならないか心配です。
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タイムカプセルが見つからない(3)

2010-01-16 10:10:24 | 日記
 光陰矢の如し。
 松阪市青年連絡協議会(松青協)で昭和46年(1971)に松阪公園の天守閣跡にタイムカプセルを埋設してから、開封する30年後の西暦2000年は驚くほどの速さでやって来ました。二十代から未来に向かっての30年間と、五十代から過ぎ去ったあとをふり返っての30年間は、同じ30年でも半分くらいに感じられるのではないかと思うほど、その年は速くやって来ました。
 
 私たちは当時の松青協メンバーで何ヶ月も前からタイムカプセル開封のための実行委員会を結成して、準備に取りかかりました。私がカプセル埋設時に松青協の会長をさせてもらっていたこともあり、この実行委員会の委員長を仰せつかりました。
 カプセルを掘り起こす日は、予定していた4月4日ではなく、4月16日と決めました。またカプセルを掘り起こした後、松阪公園で記念式典をし、同じ日にフレックスホテルで同窓会をすることになりました。行事の名前は「西暦2000年 松青協タイムカプセルアゲイン」としました。また名古屋テレビの朝の番組「コケコッコー」から取材申しも込みがありました。

 4月16日、天候は晴れ。タイムカプセルを掘り起こす時、私はどうしても別な用事があり、現場に行けませんでした。しかし埋設した場所ははっきり覚えていたので地図を書き、掘り起こしを他の人たちに託しました。しばらくして現場から私に電話が入り、指定した場所からはカプセルが見つからず、ほうぼう掘り起こしているとのことでした。以前に市の方から城跡の石垣の工事をするのでタイムカプセルを別の場所に移動して欲しいという要請があったのですが、その時はそのままになっていました。工事の時、場所を移動されたのか、それとも私の記憶違いか。私が遅れて現場に着くとやっと見つけてくれた時でした。
 
 穴から取り出したタイムカプセルのフタのコンクリートを割って開封しました。青春時代の思い出が30年の眠りから覚めた瞬間でした。中を見ると一部形が残っているものもありましたが、残念ながら紙類はほとんど「わたわた」の状態で、私が入れた手紙も形がありませんでした。防水が完全でなく、どうしても中に湿気が入ったのではないかと思われました。ビニール袋のようなものに入れればよかったのではないかと思いました。

 開封時にみんなで乾杯しようと入れたウイスキーはフタが飛んでいましたが、ビンの中には液体が残っていました。私が「実行委員会を代表して飲んでみるわ」と言うと、「川口さん そんなの飲んだらあかん!」と他の人たちからの止められましたが、意を決してビンの中の液体を飲んでみました。翌朝の東海テレビの生放送コケコッコーのインタビューで「ウイスキーを飲まれたそうですが、味はどうでした?」の質問に「水割りの味がしました」と答えたのを憶えています。
 公園の上での記念式典では実行委員長である私のあいさつ、来賓の三井教育長から祝辞をいただきました。また青年団時代に公民館主事をしてみえて私たちが大変お世話になった森智子先生も来賓としてお招きしました。

 このあと場所をフレックスホテルに移しての「松青協半世紀記念パーティー」には当時の会員をはじめ、連合青年団時代からの歴代団長、会長や現役の松青協の会員なども含めて約80名が参加して思い出話に花を咲かせました。
 現在の私の友人の多くはこの松青協の時代に、ともに青春の血をたぎらせた仲間たちです。青春のよき思い出、いつまでも。
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タイムカプセルが見つからない(2)

2010-01-15 09:26:25 | 日記
 タイムカプセルが初めて日本で知られるようになったのは昭和45年(1970)の大阪万博の時、松下電器と毎日新聞により企画、製作され、大阪城公園に埋められたタイムカプセルです。このタイムカプセルは5000年後の6970年に開封予定です。このあと学校においての卒業記念や、会社の創業記念、建物竣工記念などにつくられてきました。

 松阪市青年連絡協議会(松青協)も昭和46年(1971)の総会の日にタイムカプセルを埋設することになりました。しかし当時の松青協にはあまりお金がなく、タイムカプセルには素焼きのかめを使うことになりました。本当はもう少し保水性のある容器を使いたかったのですが、予算の関係で素焼きのかめに防水塗装をして用いることになりました。市民からカプセルの中に入れる品物の募集など、夕刊三重紙が全面的に協力してくれました。
 市民から提供のあった品物は1つずつパラフィン紙で包みました。当時ビニール袋が一般的でない時代、湿気を少しでも遮断するためにパラフィン紙に包んだのでした。このタイムカプセルはしばらく市役所のロビーに展示していただきました。

 昭和46年4月4日、松阪市中町の当時の労働会館で行われた総会が終わった後、場所を松阪公園に移してタイムカプセルを埋設することになりました。埋設場所はあらかじめ市の方に許可をもらって公園の一番高い天守閣跡にしました。
 カプセルの少し上に土がかぶる程の穴を掘り、カプセルを入れました。カプセルの中には品物と一緒に、30年後にみんなで乾杯しようとウイスキーも入れました。フタをして、真空ポンプで中の空気を抜き、フタをコンクリートで固めました。この一連の作業は、左官業を営んでいた田中幸生さんがしてくれました。土をかぶせて、近くにあすなろの木を植えました。
 これにより松青協のタイムカプセルは西暦2000年4月4日まで、約30年の永い眠りにつくことになりました。
 当時私たちは二十代、まさに青春の真っただ中。30年後なんて、はるか遠い未来に思いました。その時は・・・   (続きます)
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タイムカプセルが見つからない(1)

2010-01-14 11:01:07 | 日記
 松阪市で成人式が行われた1月10日に、松阪市伊勢寺町の伊勢寺小学校と小阿坂町の阿坂小学校で、新成人たちが8年前に埋めたタイムカプセルを掘り起こしたと夕刊三重紙で知りました。伊勢寺小学校ではタイムカプセルが見つかり、歓声とともに封印が解けたが、阿坂小学校では見つからなかったということでした。わずか8年前に大勢で埋めた所がわからないとは不思議ですが、少しだけ場所がずれているような気がします。

 このタイムカプセルの話しをお聞きし、私たちが10年前に掘り起こしたタイムカプセルを思い出しました。このタイムカプセルは私たちが松阪市青年連絡協議会をやっているときに思い出に埋めたものでした。

 松阪市青年連絡協議会の前身は、戦後間もない頃に結成された松阪市連合青年団で、初代団長が元県議会議員の長井源一郎さんでした。当時はどこの地区でも青年団があり青年団活動の華やかな時代でした。ところが私が学校を卒業して市の青年団に入る昭和40年代には、各地の青年団が衰退していって市連合青年団そのものの存続も危うい状態でした。会長をしてみえた森勝之さんも市連合青年団を解散しようかと真剣に考えられて、このことを当時の中央公民館の坂井館長さんに相談をされました。館長さんは「川の流れはどんなに細くなっても水が流れていれば、いつか大河となるときがある。青年団も今は苦しくとも続けていれば、いつか大きく活動する時がくるのではないか。もう少し続けてみれば」とおっしゃいました。そして市の青年団は存続されることになりました。

 その後市の青年団にも大西優さん(故人)のような救世主が何人か現れて、再び活力を取り戻すようになりました。地区の青年団も柚原青年団、与原青年団、大河内青年団、猟師青年団、高須青年団、東黒部青年団など残っているところもあり、また新たに青年団だけに限らず、いろいろな青年グループも加入してもらうことになり、名前を松阪市連合青年団から「松阪市青年連絡協議会」(後に「松阪市青年協議会」と改名)に改めました。

 この新生松阪市青年連絡協議会(略して「松青協」)には小野若者グループ、美濃田青年おさらぎ会、松尾青年会、青少年ホームくろしおクラブ、市役所たけのこ会などが加入して昭和45年度には会員300人を越える大きな組織になりました。
 この昭和45年度にタイムカプセルを埋設しようという話しが持ち上がりました。46年度に引き継ぐ総会が行われた昭和46年4月4日に松阪公園(城跡)の一番高い天守閣跡に青年時代の思い出を詰め込んだタイムカプセルが埋設されました。そして30年後の西暦2000年の4月4日にみんなで再会をしようと約束しました。(続きます)
 (写真はタイムカプセルが埋設された松阪城跡の天守閣跡)
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松阪市消防団出初め式開催される

2010-01-11 21:32:28 | 日記
 平成22年の松阪市消防団(田所照朗総括団長 団員1420人)の出初め式が1月11日、松阪市川井町の市民文化会館で開催されました。この日会場には消防団員・消防署員812人が参加して規律正しく厳粛に行われました。
 式典は副市長による開式の辞のあと、国旗に対する敬礼、消防旗に対する敬礼、市長に対する敬礼などがあり、表彰授与では三重県消防協会長表彰、三重県消防協会松阪支会長表彰、松阪市長感謝状贈呈、松阪市長表彰に330人が表彰されました。
 このあと市長式辞、市議会議長あいさつ、来賓祝辞のあと被表彰者を代表して伊勢寺分団の池下敏一分団長が謝辞を述べた。
 式典のあと松阪市民文化会館第二駐車場で消防車輌観覧があり、消防本部の消防車輌を先頭に、各分団の車輌が紹介を受けながら会場を後にしました。第二部として松阪農業公園ベルファームで分団による一斉放水がありました。

 私も来賓の一人として舞台の来賓席に座らせていただきましたが、今の消防団員は、私たちが団員だった時とは違い、制服・制帽が揃えられ大変凛々しくみえました。「松阪市の消防団は日本一」と市長の式辞の中にあったように、松阪市の消防団のように団員の定数(1420人)を満たしているところは全国でも珍しく、平成20年4月に全国消防団の最高栄誉とされる日本消防協会の特別表彰「まとい」を受けました。
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立野町の嫁入り神事

2010-01-10 10:52:13 | 日記
 1月10日、松阪市立野町下出で「嫁入り神事」が行われました。この神事は男女一対の山の神碑を中心に行われ、男の神には雑木で作った三ツ股を、女の神には同じく雑木で作った二股を供えます。また男の神には「米十分」女の神には「麦十分」と書かれた紙を供えます。

 地区の人たちが集まって藁でたいまつと、男を形どった人形、女を形どった人形をつくります。そしてたいまつと人形に火を付け、場を半周して最後には焚かれた大火にたいまつを投入し、男の藁人形と女の藁人形重ねるようにして大火に投入して燃やします。
 10年くらい前まではおかゆを炊いて、その中に餅をいれ、その餅を神に供えましたが、今は大火を焚いて、そこで焼いた餅を神に供えます。

 男の神に供える「米十分」、女の神には「麦十分」の意味はわからないのですが、米が十分取れるように、麦が十分取れるようにとの願いではないかと言われています。また男の藁人形と女の藁人形重ねるようにして大火に投入するのは、子孫繁栄を願ってのことではないかと言われています。

 この神事は以前7日に行われていましたが、最近はこの日に近い日曜日に行われています。また現在は地区の南側の八王子という山で行われていますが、中部台公園ができるまでは別なところにありました。中部台公園の建設で立ち退きにあい、現在の場所で行われるようになりました。
 この神事がいつ頃から始まったかは定かでありませんが、地区のお年寄りが子供のときにはすでに行われていたということで、かなり昔から行われていたことになります
 このような昔からの伝承神事はいつまでも続けていただきたいと思います。

嫁入り神事は、私のホームページ「松阪市何でも10選」の「松阪市まつりごよみ」に記録させていただきました。→クリック

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農家の個別所得補償制度について

2010-01-09 11:53:16 | 日記
 農家の個別所得補償制度についての勉強会がありましたが、まだまだ未定部分もあり、また理解できていない部分もあり、全体の一部ですがまとめてみました。

 この制度が目指すところは我が国の食糧の自給率の低さを是正しようとするものです。日本の食糧の自給率は39%で、先進国のアメリカ128%、フランス122%、ドイツ84%、イギリス70%に比べてもかなり低く、約60%もの食糧を海外からの輸入に頼っています。この食糧の自給率を10年後をめどに10%アップの50%を目指していこうとするものです。この個別所得補償制度は23年度から本格実施されますが、22年度にはモデル事業が行われます。

1 趣旨
 我が国の農業は、農業従事者の減少、高齢化、農業所得の激減、農村の崩壊など危機的な状況にある。このため、個別所得補償制度の導入により、意欲のある農業者が農業を継続できる環境を整え、国内農業の再生を図ることで、我が国の食糧自給率の向上を図るとともに、農業の有する多面的機能が将来にわたって適切かつ十分に発揮されるようにする必要がある。
 23年度の個別所得補償制度の本格実施に向けて、事業の効果や円滑な事業運営を検証するために、22年度に個別所得補償モデル対策を実施する。

2 水田利活用自給力向上事業
 米の消費が減少していく中、米以外の作物の生産を増大していこうとするものです。それが「戦略作物」というものです。

助成交付対象となる戦略作物と助成額
○麦(小麦、二条大麦、六条大麦、はだか麦)、大豆、飼料作物  35,000円/10a
○新規需要米(米粉米、飼料用、バイオ燃料米、※WCS用稲)   80,000円/10a
○そば、なたね、加工用米  20,000円/10a
○その他作物(都道府県単位で単価設定可能)  10,000円/10a
○二毛作助成(主食用米と戦略作物又は戦略作物同士の組み合わせ)15,000円/10a
  ※WCS用稲=稲わらも籾も一緒に飼料として用いる(サイロなど)

交付対象者
①交付対象作物を生産する農業者・集落営農。
②これまでの生産調整未達成者も未達成数量はリセットして、助成対象とする。
③新たな生産調整を達成すること。
④戦略作物の販路は個々の農家で見つける。
⑤捨てづくりで助成金だけを受け取ることを防止するため、畜産農家などの実需者と販売契約を交わし、収穫をおこなうこと。
⑥二毛作助成の場合野菜は対象外となる。

3 米戸別所得補償モデル事業
 主食である米の安定供給ができる環境を整えること目的とし、生産費が販売価格を上回る場合、その差額の所得補償を行う。

○主食用米の作付けに当たり  一律15,000円/10aの交付金が支払われる。
○主食用米の販売価格と生産費との差がマイナスの場合(特別な算出方法による)、その差額分が交付される。

交付条件
①生産調整を実施している販売農家・集落営農。
②主食米の作付け面積から一律10aを控除する。これは自家消費米を省く。
③酒造好適米、種子米は自家消費に廻らないので10aを控除はしない
④新規需要米、加工用米は主食用米の作付け面積にカウントしない。

 このほか現行に比べて助成金が減少する地域における影響をできるだけ少なくするため激減緩和措置がとられます。
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まずーい米「モミロマン」に注目が

2010-01-07 00:57:35 | 日記
 中日新聞の1月1日版で「まずい米で〝一石三鳥〟」という見出しで紹介された「モミロマン」という最近開発された米に注目が集まっています。日本の米はコシヒカリに代表されるように、いかにして美味しい米を作るかが長年の研究課題でありましたが、このモミロマンはまずいのが特徴で、飼料用に開発された品種です。

 この米は作付けに手間がかからず、農薬もほとんどいらず、収穫量は従来の米の2倍以上あるということですが大変まずい。この米を試食した赤松農相が「とても食えたもんじゃない」と吐き捨てたそうです。だがこの米を鶏に与えたところ、うまそうに食べたそうです。
 加工米や汚染米が食用に横流しされて問題になったことがありましたが、飼料用として栽培されたこの米が、そのまずさゆえ食用に流用される心配はないようです。

 このほど農家の「戸別所得補償制度」がスタートします。この中の水田利活用自給力向上事業の戦略作物の1つとして「新規需要米」があり、この内訳は米粉用、飼料用、バイオ燃料用米、WCS用米です。これらの米の販路は自分で見つけることが必要ですが、10a当たり8,0000円の助成金(生産調整達成などの条件が必要ですが)があります。この中の飼料用米としてこのモミロマンが注目されそうです。
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伊勢神宮へ初詣

2010-01-03 19:32:16 | 日記
 今日は妻と2人で伊勢神宮に初詣をしました。いつも車が途中で混雑をするので少し早めの7時20分ごろ家を出ました。おかげでほとんど停滞に巻き込まれることなく、約1時間で内宮の駐車場に到着しました。

 伊勢神宮は内宮、外宮など125の神社からなり、平成25年に20年に一度の第62回式年遷宮が行われます。それに先がけ昨年11月に宇治橋が架け替えられました。宇治橋は俗界と神の領域を分ける橋だそうです。

 車を降りて地下道をくぐり、参道に入るともうたくさんの参拝者であふれ、両側のお店から売り込みの声がかかるのを聞き流し、先に参拝を済ますことにして一路社殿へ。社殿前の階段では30ほど分並びましたが、心地よい参拝でした。

 帰りには両側の店を覗きながら、おかげ横丁をめぐりました。おかげ横丁は約2700坪の敷地に江戸時代から明治時代の伊勢路の代表的な建物を移転して、再現されています。
 参宮の時の恒例の赤福の五十鈴茶屋で抹茶をいただいて帰りました。
 (写真は新装になった宇治橋)

 (1月3日の中日新聞の広告「旅するキモチ!」を参考にさせていただきました)
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2010年明けましておめでとうございます

2010-01-01 07:41:58 | 日記
 2010年、平成22年元旦。
 各地で大雪警報が発令され、この地方でも雪花の舞う寒い年明けとなりました。皆様明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
 今日は朝5時から本居神社で行われた「朝起会」に出席しました。山中市長や田村代議士、森本代議士、また県会議員、市議会議員、町会議員などの来賓とともに大勢の会員さんが出席されていました。私の2010年はこの朝起会からスタートしました。

 このあと宝塚古墳公園で初日の出を拝みました。宝塚古墳公園では花岡自治会が主催して、今年初めて初日の出を見る会が行われました。早朝にもかかわらず、約200人の市民が訪れていました。午前7時10分頃伊勢の方向から初日の出があがりました。
 初日の出のあと久松倫生市議より宝塚古墳の話しがあり、また公園に張られたテントでは花岡自治会により甘酒、ぜんざいが振る舞われました。

 今日はこのあと松尾神社の元旦祭に出席します。

        (写真は宝塚古墳公園からみた初日の出)

                                松阪市議会議員 川口 保
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