川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

よいお年をお迎え下さい

2016-12-31 16:34:28 | 日記
                         (2016年最後の夕日)

 比較的暖かく穏やかな大晦日を迎えています。この1年間、私の議員活動にご支援ご協力いただきありがとうございました。また私のブログを見ていただきありがとうございます。
 8月の臨時議会で副議長を退任させていただきました。実にいろいろなことがありましたが、忙しいながらも充実した1年を送らせていただきました。
 今年の松阪市政は竹上市長のもと、派手さはないが比較的安定した市政運営ができたと思います。
 8月のリオ五輪レスリング女子で松阪出身の土性沙羅選手が、見事金メダルを獲得するという嬉しいニュースもありました。凱旋パレードや祝勝会などにも参加しました。また年の瀬も押し迫った30日に、松阪出身の西野カナさんがレコード大賞を受賞という、嬉しいニュースも入ってきました。
 来る2017年が松阪市にとっても皆様にとってよい年でありますようお祈りいたします。そして来年もよろしくお願いいたします。

       平成28年12月31日            
                                    松阪市議会議員   川口 保

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西野カナさんがレコード大賞を受賞

2016-12-30 22:27:22 | 日記
 12月30日に新国立劇場で行われた「第58回輝く!日本レコード大賞」で松阪出身の西野カナさんの「あなたの好きなところ」が大賞を受賞しました。今年は松阪市にとって土性沙羅選手のレオ五輪の金メダルに続く嬉しいニュースです。
 今日はインタビューを受ける姿も風格が感じられ、少し大人っぽく見えました。

 以前に誰かが「西野カナは松阪市の西野町の出身だ」と言ったことがありました。私は「西野町に住んでるけど、そんな子知らんよ」と言ったのですが、実際は久保町在住ということです。
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深野棚田の歴史・文化

2016-12-26 01:37:26 | 日記
 第7回史跡めぐりで深野棚田について深野棚田保存会会長であり、深野棚田まつり実行委員長の栃木喜明さんから話をお聞きしましたので、まとめました。

◆深野棚田の概要
・棚田名 深野棚田
・住  所 三重県松阪市飯南町深野
・田の枚数 約550枚
・田の段数 約120段
・田の標高 100~300m
・石の推定数 約3,010,000個
・石垣の延長 約120㎞
・石垣の総面積 135,000㎡
・日本棚田百選 「深野だんだん田」として平成11年に認定

 三重県松阪市深野夏明地区の棚田は元禄時代頃~明治時代(約320年~120年位前)の間に造成された比較的新しいもので、平成11年に「深野だんだん田」として日本棚田百選に認定されました。この地区は紙漉きの里としても、また松阪牛飼育の草分けとしても有名です。
 毎年10月には「深野棚田まつり」が行われ、棚田の畔沿いに約4000本の灯りがともる幻想的な風景をかもし出します。

◆深野棚田の歴史
 深野棚田保存会が設置された看板によると、室町時代に北畠氏の重要な拠点であったこの地区には、白猪山の西に「のろし場」があり、見張りに詰めている侍たちの食料確保のため棚田が開墾されたということです。もともと深野地区は耕地にめぐまれず、木地、蚕、和紙などで生計をたてていたことから、棚田は貴重であったということです。深野の棚田のうち百選に選ばれた夏明地区の棚田は、元禄時代頃~明治時代(約320年~120年位前)の間に造成された比較的新しいものです。

◆日本棚田百選に認定
 深野地区の棚田は「深野だんだん田」として平成11年(1999)7月に農林水産省の日本棚田百選に認定されました。 棚田は稲作には効率が悪くて、大型機械の導入に不向きであることから耕作放棄地となることが多い。このため農林水産省では棚田を観光資源としての景観や、オーナー制や体験農業などに利用・保全していこうと平成11年(1999)7月に全国117市町村、134地区の棚田を「日本棚田百選」として認定しました。
三重県からは亀山市安坂山町の「坂本」、熊野市紀和町丸山の「丸山千枚田」とともに3カ所が認定されました。

◆紙すきの里としても松阪牛の里としても
 深野地区は深野和紙の里として400年の歴史があります。慶長9年(1599)北畠家の家臣で深野村の郷士であった野呂市兵衛俊光が、美濃から紙すき職人2人を招き、農閑期の副業として深野地内長野で紙すきが始められました。多い時には紙すき農家が250戸を越えましたが、昭和44年に最後に残った紙すきの2戸が廃業し、400年続いた深野の紙すきの歴史が終りました。
昭和62年に深野和紙保存会が結成され、平成4年に現在の松阪市飯南和紙和牛センターが建設されました。深野和紙保存会(野呂修三会長)は小学生などに紙すきを教え紙すきの伝承に取り組んでいます。
 また同深野地区は松阪牛発祥の地で、現在でも和牛肥育農家があります。


 
(松阪市飯南和紙和牛センターでの紙すき体験)        (幻想的な深野棚田まつり)
 
◆深野棚田まつり
 深野棚田まつりは平成24年11月10日に第1回が開催されて以来毎年行われており、今年で5回目を迎えました。この祭りは、柿野住民協議会深野支部と深野棚田保存会(栃木喜明会長)が主催して行われています。
 これまでは単独の祭りとして行われてきました「深野棚田まつり」と「飯南ふれあい祭」が今年から合体し、「いいな まつさかフェスタ」として新たにスタートしました。棚田まつりはこの祭りの前夜祭となります。
 午後4時30分に棚田の畔沿いに並べられた、約4000本の竹やペットボトルで作った燭台のローソクに一斉に点灯されます。やがて夕闇が迫ってくると、ローソクの炎が竹筒の横穴からチカチカと風に揺れ、何とも言えない幻想的な景色が浮かび上がってきます。


—――—―――――――――――――――――――――――――――—――――――――――
 第1回の深野棚田まつりの会場で松阪市文化財保護指導委員の野呂修二さん編集の「日本棚田百選 深野棚田の考察」という文書をいただきましたので、全文紹介します。 
 
             日本棚田百選  深野棚田の考察

稲作文化のなかった縄文期は別として、現在の深野の里は何時ごろより集落化したのかを調べるとき、資料があまりにも少なく疑問が多くありますが、古代の大和と伊勢を結ぶ線上に位置する地点だけに、櫛田川沿いでは比較的に古い時期より水田も開かれていたと思われます。
 江戸時代の文献に、東沖と深世古にまたがって宮城があり、氏神としてお祀りされてきた「東の宮午頭天王八王子社」の社伝に「村の草分けは700年ほど前」とされており、当時より200年を加えると約900年遡ることができ、平清盛の時代頃にはすでに集落ができていたと推測できます。
 また神路山地区の橋ヶ谷には木地屋廣という所があって、数百年以前より、数軒の生地師がすんでいたという伝承も残っています。
 その後永正7(1510)年 伊勢国司6代目北畠材親(きちか)が疱瘡(天然痘)を患って、伊勢国司職を家督の7代晴具に譲り、多くの家臣を伴い隣村の大石村字御所に隠遁しました。いわゆる大石御所と呼ばれる所です。
この際元国司の北畠材親に随行してきた家臣たちは、大石御所周辺の原野を開拓して軍事拠点の城郭や狼煙場・馬場等や、狩猟のための狩場を造ったり、家臣団の食料生産の場として荒地を開墾して農地を拡大してゆきました。(現在も地名とつて御所、馬場山、狩場、城山、矢下が残り使われています。)
深野地区内にある宇長野は、家臣の長野左京の居城長野城があったところで、この辺りを拠点に傾斜地の荒地を開墾して、段々に田畑を作っていったのでしょう。棚田の造成はこのころより本格的に始まったと思われます。この集落は開墾者の名に因み今も「長野」と呼ばれています。
慶長年間(1596~1615)長野城の奥詰として居住していた郷土の野呂俊光(改名前松本市太夫)は、この地が紙すきに適していることを悟り、美濃の国に赴き紙漉き職人2名を連れ帰り当地で冬場農閑期の副業として、里人達に紙を漉くことを奨励しました。
時は移り江戸時代、元禄の世となり経済も発展し庶民のくらしも豊かになり、紙の需要も次第に増大してゆきました。ところが紙の生産には立地条件があり、今と違ってどこででも紙を生産するということができませんでした。
当時紙生産の最適地であった深野は、そのために近在はもとより、遠くは松阪・南島・志摩方面からも、深野へ行けば紙を漉く仕事があるというので、江戸時代中頃より明治初期まで、荒地原野であった夏明地区に人家が集中して、冬場の紙が透ける時期は紙を漉き、紙すきができない夏場に食料生産の場として棚田を造成してゆきました。
この地方の方言で、原野や荒地を切り開くことを「地明け(ぢあけ)」と呼んでいます。私はこの夏場に荒れ地を地明けして田んぼを造っていったために、地名を「夏明」としたのではないかと推測しています。
したがって平成11年に日本の棚田百選に認定された「深野のだんだん田」夏明地区の棚田は、元禄時代頃~明治時代(約320年~130年位前)の間に造成された比較的に新しいもので、中世期の開田された長野地区などとは150年以上も後に造られたものです。
又この夏明地区の狐岩と呼ばれている所には、深野上郷地区の旦那寺として浄土宗宝泉寺というお寺がありますが、当時江戸幕府はキリスト教を取り締まるための宗門改により、夏明地区の入植者は全戸他所4ヶ寺の門徒宗の信者で、宝泉寺の檀信徒ではありませんでした。
しかし現在の様に交通手段が発達していなかった時代の事、普段の弔いは地区内の宝泉寺に以来をしていたために記録が残されていて、江戸中期より明治中期までの間は増加傾向にあり、これは幕府の新田開発奨励も相俟って、夏明地区の戸数増加と棚田の増加が立証されます。当時深野の戸数は250戸、内本郷100戸上郷150戸となっていて上郷集落の方が多くなっていました。
明治末期から和紙需要の減少に伴い、夏明地区の入植者も次第に減少していきました。
               文責 松阪市文化財保護指導委員 野呂修三      
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冬空のひときは明るい星は何?

2016-12-23 21:48:33 | 日記
冬は空が澄んでいて、星空がきれいに見えます。
宵のくちの南西の空に、ひときわ明るい星が見えます。
UFOでもなさそうですが、何という星でしょうか。

家内は「昔はあんな星はなかった」というが、
最近になって現れたわけでもないだろう。
少し寒いが、星空を眺めるのもいいものです。
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松阪市議会平成28年5大ニュース

2016-12-19 07:00:17 | 日記
 松阪市議会の平成28年11議会は12月16日に最終日を迎え、今年の議会活動は全て終了しました。今年の松阪市政は竹上市長のもとで比較的穏やかな1年となりました。その中で市議会では議員定数のあり方調査会の設置や、海上アクセス代替バス議案の否決がありました。例年通り私が独断で選定する、今年の松阪市議会5大ニュースを発表します。

◆議員定数のあり方調査会を設置(4月~10月)
 松阪市議会では、次期市議会議員選挙に向けた議員定数の検討を行うため、本市の議会基本条例第16条の規定に従い、専門的な知見を有する学識経験者等で構成する『松阪市議会議員定数のあり方調査会』を設置しました。
 調査会は次の4人の学識経験者に依頼しました。
  調査会会長   駒林 良則(立命館大学法学部教授)
  調査会副会長  高沖 秀宣(三重県地方自治研究センター上席研究員兼事務局長)
  調査委員    辻   陽(近畿大学法学部准教授)
  調査委員    松井真理子(四日市大学総合政策学部教授)
 4回の調査会を経て意見書が10月18日西村友志議長に提出されました。同日意見書に基づいて調査会委員と議員の意見交換が行われました。

◆議会報告会第6回、第7回開催(4月、11月)
 松阪市議会の議会報告会が4月に第6回、11月に第7回が開催されました。この報告会は平成24年9月議会で成立し、同11月から施行された松阪市議会の議会基本条例に基づくもので、市民に市議会活動の報告をしたり、市民と意見交換行うものです。平成25年4月に第1回の議会報告会を開催してから、2巡目に入っています。
 4月の報告会では、市議会議員を4つの班に分けて12会場で開催し、2月議会の予算審査の報告を中心に、また11月の報告会では9月議会の決算審査の報告を中心として12会場で開催されました。また議員定数のあり方調査会からの意見書の内容を報告し、参加され市民から議員定数についての意見を聞きました。
 議会報告会の参加者は、第6回が12会場のトータルで265人、第7回が12会場のトータルで225人です。(詳しくは 第6回 第7回 参照してください)

◆熊本地震の募金活動(4月)
 平成28年4月14日、熊本県を中心として震度7を観測する地震が発生し、その後も同規模を始めとする地震が頻発しています。この地震の被災地に松阪市議会としての義援金を送りました。またそれとは別に全議員により中部台運動公園(4/24)、松阪駅前(4/26)、ベルファーム(4/29)で募金活動をして市民の皆さまからいただいた義援金337,364円を松阪市福祉ささえあい課を通じ被災地に送りました。 

◆議長に西村友志議員が、副議長に植松泰之議員が選任される(8月臨時議会)
 8月臨時議会は、8月18日から2日間の日程で行われ、大平勇議長・川口保副議長が退任し、新しい議長に西村友志議員(公明党)が選任され、副議長に植松泰之議員(真政クラブ)が選任されました。また議会からの監査委員には大久保陽一議員(真政クラブ)が選任されました。任期は申し合わせにより1年間。

◆海上アクセス廃止に伴う代替バス案否決(9月議会)
 松阪市と中部国際空港を結ぶ海上アクセス「ベルライン」は平成18年(2006)12月20日に開港しました。しかし予想のように乗客数が伸びずに、平成21年9月1日より津エアポートラインが運行を引き継いできましたが、ついに廃止が決定し、平成28年(2016)12月19日を最後に11年間の歴史に幕をとじることになりました。
 松阪市では激変緩和措置として、松阪駅と津市の海上アクセスの発着港である津なぎさ町までの無料の代替バスを走らせる案を9月議会に提出しましたが、採決の結果反対多数で否決し、同案を除く修正案が可決されました。
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岡本の火祭り開催される

2016-12-16 05:27:16 | 日記
             (大蛇退治の松明が広場の周辺を廻ると祭りは最高潮に達します)

 松阪市岡本町の火祭りが平成28年12月15日午後7時から、同町の明神社跡の山の山頂で行われました。
 この祭りは「岡本明神祭礼」とか「松明行事」とも言われ、岡本町自治会(中川清自治会長)が主催して行われるもので、昔堀坂山に住みついた大蛇がこの村に出没し、村人に危害を加えたとき、村人が松明を焚いて大蛇を退治したとの言い伝えから行われています。

 いつものことながら寒い季節の開催となり、今年も寒い日でしたが、幸い風はなく、絶好の火祭り日和となりました。
 この日山の上には地元岡本町の町民や近隣の人たち、また祭りの様子を写真に撮ろうと多くのカメラマンも来ていました。また後藤健一県議や野口正県議も駆けつけ、行事が重なり来られまかった竹上真人市長のメッセージも読み上げられました。

 松尾郷土誌百話(松阪市立松尾公民館 発行)によると、岡本は昔堀坂山から山続きになっており、堀坂山に住みついていた大蛇が尾根伝いに岡本に現れて村人を呑んだり、危害を加えたりしていた。このとき村人の老人の夢枕に神のお告げがあり「大蛇を退治するには村人全員が松明作って、真夜中(丑の刻)に集まり、その松明を大蛇にめがけて一斉に投げつければ、大蛇は間違いなく退治できる」と告げられた。老人はこのことを村人に伝え、村人全員で実行したところ大蛇を退治できた。そこで村人は大蛇を退治できた陰暦11月1日(現在では太陽暦12月15日)に火祭が行われるようになったということです。市内にある多くの祭りや神事が、地区の人が出やすい休日に開催されるように変わってきましたが、この祭りは、同じ日に開催されています。

 
     (広場の中央に大火が焚かれます)     (煎餅餅が円盤のように来場者に撒かれます)

 午後7時ごろ山頂の広場の中央に積まれた薪に火がつけられ、神前にお神酒と各家から持ち寄った煎餅餅(薄くのばし直径20~30cm位もある餅)を供えます。みんなでお神酒を酌み交わし、この餅が来場者に撒かれます。
 祭りの最後は「むかしのしんまい たーつがしんまい おーとこやーまの みーねがとやまの すーりはやーし すーりはやーし(昔のしんまい たつがしんまい 男山の峰がとやまの すりはやし)」「ドンドコドン(太鼓)ドンドコドン(太鼓)」という音頭とともに太鼓が鳴らされ、火のついた松明をもった地区の人たちが広場の周囲を三回廻り、最後は大蛇に見立てた中央の大火に松明が投げ込まれます。

 この祭りは戦時中昼間行われたことはあっても中断されることなく続けられてきましたが、明治41年の合祀の際に一度中断された年がありました。するとこの年に岡本で火災が発生し、「これは家を焼いて火祭りの代わりにされたのだ」と恐れ、火祭りを再開することになり、その後は中断されることなく続けられています。岡本町ではその後この火事以外の火事は記録がないと言われています。

 昭和初期の頃は花火が打ち上げられおり、また煎餅餅も戦前には各戸24枚ずつ持ち寄りましたが、太平洋戦争勃発後、花火が中止になり、餅も12枚になり今日に至っています
 松阪市内のいろいろな祭りを見学していますが、火渡りや、どんど焼きなど大火を焚く祭りは多くありますが、「火祭り」と名の付く祭りは、この祭りしか知りません。いつまでも続けてほしい祭りです。
 この祭りは私のブログ「松阪市の祭り100選」に掲載してあります。

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海上アクセス松阪航路12月19日で廃止

2016-12-15 09:58:50 | 日記
 海上アクセス松阪航路の廃止が決まり、今月19日をもって11年間の歴史を終えることになりました。
 
✦海上アクセス「ベルライン」の開港
 松阪市と中部国際空港(セントレア)を結ぶ海上アクセス「ベルライン」は平成18年(2006)12月20日に華々しく開港しました。この航路は江崎汽船(株)を親会社とする松阪高速船(株)が運行を受け持ちました。
この日は一番船の出航に先がけ、市長らによるテープカット、一番のりのお客さんへの記念品の贈呈、船長への花束贈呈などのセレモニーが行われ、多くの乗客を乗せセントレアに出航しました。「三重の玄関口」というキャッチフレーズで、観光にビジネスに大きな期待が寄せられました。

✦海上アクセスを通じた常滑市との交流
 伊勢湾の対岸の常滑市とはそれまでほとんど交流がありませんでしたが、ベルラインが開通してから、常滑市の祭りや造り酒屋の蔵開きに、松阪から多くの人が訪れました。私も常滑祭りには何度も行きましたが、松阪市の行政の人たちも観光課の人たちを中心として多く訪れ、常滑市の行政の人たちと祭りを通じた交流も持たれました。祭りの山車を見たり、遊歩道を通っての常滑焼の窯跡めぐりも楽しく、途中みやげ物屋をのぞいたり、名物のだんごをかじったりもしました。酒屋の蔵開きにも一度連れて行ってもらいました。
また松阪の祭りにも常滑市から多くの人たちが訪れました。松阪市柚原町の「うきさとむら」の祭りにはいつも常滑焼の販売が行われています。

 常滑市から市議会議員の皆さんが行政視察で松阪を訪れました。知り合いの市議がみえたので視察が終って松阪市内を見学されている時、少しだけ一緒させていただきました。松阪城跡や御城番屋敷、殿町の街並みを見て「感動しました」と述べられました。常滑市にも常滑焼を中心とした歴史はありますが、松阪の町を見て、また違った歴史を感じていられたと思います。

✦海上アクセスと観光
 海上アクセスは観光面でも役割を果たしてきて、多くの観光客がセントレアから海上アクセスを通じて松阪を訪れ、また南三重の物産展がセントレアで開催されました。

✦珍しい船のサーチャージ制の実施
 平成20年8月臨時議会で海上アクセスの燃料費の補填の問題が議会で議論されました。 海上アクセス松阪ルートは開業以来乗客数が採算ラインに達していないことに世界的な燃料の高騰が追い打ちをかけ、船会社の松阪高速船(株)とその親会社の江崎汽船(株)ともども経営が苦しい状態です。しかも20年の6月に運賃を値上げしたばかりで、これ以上の値上げは難しい状態でした。

 このまま放置すれば経営破たんも心配されます。そこで市としては何とか救済措置を取ろうと考えたのです。しかしこの航路開設時に県との申し合わせで「市から赤字補填はしない」という取り決めがありました。
 松阪市議会で市は船会社への補助金の代わりに、乗客の運賃への補助金というかたちの「燃料油価格変動調整金(サーチャージ制)」案として5000万円の補正予算を上程しました。
 燃油サーチャージは一般的には飛行機に用いられるもので、原油の高騰に伴って、航空会社の企業努力で吸収しきれない燃料価格の一部を、乗客に負担を求める追加運賃のことです。燃油サーチャージは、今回のように船に用いられる事は少なく、しかも自治体がそれを負担することは全国的にも見あたらない特殊な方法でした。

 この議案に対して議員からは、「実質的な補助ではないのか」、「違法性はないのか」、「燃油サーチャージは本来乗客が負担すべきものではないのか」など激しい議論がなされたあと採決が行われ、賛成多数で可決されました。
 燃油サーチャージ案は市の苦肉の策といえます。この海上アクセスは開業してまだ2年足らずしか経過しておらず、ここで破たんを迎えるには早すぎる気がします。そして今、会場アクセスを橋渡しとして常滑市との交流やセントレアでの市のPR活動も始まったばかりです。現在の市の財政事情を考えると、5000万円の支出は大きく、また先行きはまだ不透明でありますが、私はもう少し可能性を見極めたいと思い、苦しい判断をせまられた議案でしたが、この議案に賛成しました。

✦津エアポートラインが運行を引き継ぎ、そして
 運行開始後、予想通りの客数が確保されずに推移し、当初松阪高速船(株)が少なくとも10年間受け持つという約束でしたが、平成21年(2009)年8月31日をもって同社による運航を終了し、翌日9月1日より津エアポートラインが同航路の運航を引き継ぎました。
 その後も便数が減ったことや、津経由の運行になったことなどもあり、乗客数の減少に歯止めがかからず、ついに平成28年12月19日をもって廃止が決定しました。
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大石不動院の歴史・文化

2016-12-07 11:24:15 | 日記
 松阪史跡探訪会主催の第7回史跡めぐりで大石不動院を訪れ、岡本俊光住職からいろいろな話をお聞きしましたので、まとめました。

✦大石不動院の概要
・寺 名 石勝山金常寺不動院
・宗 派 真言宗
・開 山 弘仁3年(812)
・開 祖 弘法大師
・本 尊 不動明王
・住 職 岡本 俊光
・住 所 〒515-1205三重県松阪市大石町4番地
・電 話 0598-34-0180(不動院)
・東海三十六不動尊霊場第25番札所
・三重四国八十八ヵ所霊場74番札所
・公式ホームページ http://www.mctv.ne.jp/~hudouinn/

 「大石の不動さん」でおなじみの松阪市大石町の「石勝山金常寺不動院(せきしょうざんこんじょうじ ふどういん)」は、和歌山街道沿いにあり、櫛田川の清流を望みます。当寺は今から約1200年前の弘仁3年(812)に建立された真言宗のお寺で、弘法大師が開創したと伝えられています。寛文年間から紀伊徳川家の尊信厚く、御紋付提灯および共田三斗八合の地を受けました。
 8月31日~9月1日に行われる八朔祭りは、約300年前から続く伝統行事で、加持祈祷、手踊り、縁日、打ち上げ花火などがあり、多くの人々で賑わいます。

 
           (不動院の本堂)                  (不動院の鐘櫻堂)

✦不動院の建築物
 現在の本堂は今から400年以上前の慶長7年(1602)中興の住職政音和尚(しょういんおしょう)の時、松阪城主・古田重勝が再建しました。鐘櫻堂は享保7年(1722)住職甚隆和尚の時建立し、鐘は天命安弾の作です。大師堂は天保4年(1833)住職慧照和尚の時、深野村(現在の松阪市飯南町深野)の野呂市之新の寄進という記録があります。大師堂には寺の開祖である弘法大師坐像と薬師如来坐像が安置されています。
 平成21年~23年の「平成の大修理・開祖1200年事業」で本堂の屋根を葺き替えたとき、本尊の右側から平安末期にできた「上り龍」が、左側から「観音像」が出てきました。

✦本尊
 本尊は石造「不動明王」で弘法大師が当地を訪れたとき、当地の青石を刻んで安置したと伝えられています。薄暗い本堂に安置されていますが、外ののぞき窓から見える人にはご利益があるということです。

 
  (外から本尊が見えればご利益があります)              (大師堂)

✦不動滝
 本堂の左側にある不動滝は白猪山の麓から流れる滝谷川から落下するもので、高さ約10m、幅約1,8m、途中から二条に分かれていることから「夫婦の滝」と呼ばれています。諸病に効能があるといわれ、夏には納涼も兼ねて滝に打たれる人も多いということです。滝の岩面に「不動滝」の文字が彫られており、向かって右側に修験道役角行者が鎮座して、修験道や滝行の人達を見守っています。
 明治大正時代には水月、山月、車屋、滝の屋などの料亭があり、鮎料理でにぎわっていました。

 
            (不動滝)                    (焙烙岩のムカデランの群生)

✦ムカデランの群生
 国道166号沿いの池の通称「焙烙岩(ほうろくいわ)」に群生しているムカデランは、全国的にも珍しく、池の岩面に群生しているのはここだけで、昭和2年に国の天然記念物に指定されました。ムカデランは単子葉類蘭科で日本特産の養生蘭であり、ムカデが這っている形をしています。8月頃より小さなピンクの花をつけ、その後卵円形の小さな実をつけます。
 岩の下の池は人が近づいて採取するのを防ぎ、湿気を与える役目を果たしているということです

✦展望台
 不動院の展望台は焙烙岩のちょうど真上に位置します。本堂の横を通り、山を右の方に登って行くと、秋葉大権現・金比羅大権現の祠があり、その前が展望台になっています。
 登り口に「息切れしないで登ると現在の年齢より5歳若いといわれています」という看板が立っています。
 展望台からは櫛田川や大石町・小片野町・多気町波多瀬の集落、山々が一望できます。

  
         (展望台からの眺め)                     (八朔まつり)

✦八朔祭り
 不動院の八朔祭りは約300年前の江戸時代のから行われているもので、8月31日が宵宮、9月1日が本日となります。
本堂では宵宮・本日とも護摩木を焚いて五穀豊穣、地域の安全、家内安全、交通安全、開運招福などが住職により加持祈願されます。また宵宮には多くの夜店が並び、石野木会メンバーによる「和太鼓の演奏」や手踊り、花火の打ち上などが、本日には夕方から「カラオケ大会」などがあります。
 八朔の八は8月、朔は1日で、明治6年の改暦までは旧暦の8月1日に開催されていたことが「八朔まつり」の名称の由来です。
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我が地区の山の神行事

2016-12-04 14:09:31 | 日記
 我が西野町向林地区(10戸)で平成28年12月4日、毎年恒例の「山の神」が行われました。詳しい由来や、いつ頃から始まったのかは分かりませんが、昔から「子供の神」と言われるように、子供のための行事であります。一時我が地区から子どもがいなくなったこともありましたが、今は子ども達もできて、少しはにぎやかな山の神となりました。

この行事は、昔は各地区で行われていましたが、多くの地区で廃止され、残っているところは少なくなりました。我が地区でも数年前に廃止の話しも出ましたが、何とか今まで続けています。昔の開催日は12月7日と決まっていましたが、今は12月の第一日曜日に行われています。

 
 
 この日近くの宮さんにお参りしたあと、番屋の家に、地区10戸の家の赤ちゃんからお年寄りまで家族中が寄ってきて、みんなで談笑をしながら食事をしました。

 我が地区では、以前は朝から晩まで食事がありました。朝早くから女性の人達が番屋に寄ってきて、ごはんを焚いたり、おかずを作ったりします。そして山の神の名物「ぼた餅」をつくり、各戸に配って用意ができたことを知らせます。そうすると各家から子どもから年寄りまで家族中が集まってきました。
 しかし準備する女性軍が大変だと言うことで昼と晩だけになり、そして昼だけになりました。そして2年前からはパック料理になりました。山の神と言うと「ぼたもち」がつきものでしたが、それもなくなり少し寂しい気もしますが。地区の人達が一堂に会する唯一の行事なので、いつまでも続けてほしいと思います。
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