川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

来迎寺の炎の祭典行われる

2017-09-30 07:41:51 | 日記
 松阪市白粉町の来迎寺(青木孝恵住職)で9月28日、「元三大師会式(がんざんだいしえしき)祈願ローソク献灯祭 炎の祭典」が開催されました。この祭典は来迎寺が主催し、松阪市観光協会が協賛して行われ、今年で33回目ということです。

 境内では午後6時から「伊勢津組」による笛と太鼓の奉納演奏があり、参拝者には甘酒やぜんざいなどが無料で振る舞われました。午後7時ころ八雲神社からもらってきた炎が到着し、来場者が文字が形取られたロウソクに次々と火がつけ、暗闇に「母」という字が浮かび上がりました。

 
 (境内では笛や太鼓の奉納演奏が行われます)    (八雲神社からいただいた炎が到着)   

 寺の境内に掲げられた表示板等によると、来迎寺は天台真盛宗に属し、永正年間(1504~1520)北畠材親(きたばたけ きちか)により松ヶ島城下に創建されました。天正6年(1588)蒲生氏郷の松坂城の築城により現在の白粉町に移されたということです。山号は教主山。院号は無量寿院。本尊は阿弥陀如来。
 享保元年(1716)の松阪大火で表門(現在の裏門)を残し消失したが、豪商三井家などが8700両の費用を支援し、再興されました。

 来迎寺の「炎の祭典」は、私のブログ「松阪市のまつり・祭り・祭 100選」に記載しています。
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日韓親善協会 まゆみツァー開催される

2017-09-27 18:23:53 | 日記
             (来年2月に行われる平昌冬季オリンピックのジャンプ会場を見学)

 三重県日韓親善協会主催の韓国旅行「まゆみツァー」が2017年9月23日から26日までの4日間行われ、私も初めて参加しました。
 まゆみツァーは三重県日韓親善協会の設立以来37年の長きにわたって日韓親善に尽力され、同協会の常任副会長・事務局長を歴任され、2010年に亡くなられた真弓浩さんの功績を称え始まった韓国訪問ツァーで、今回が5回目。

 
          (望郷の丘参拝)                      (独立記念館)          

 今回のまゆみツァーには、三重県日韓親善協会(山口久彦会長)の会員、在日本大韓民国民団三重県本部(殷 慶基(ウン キョンギ)団長)の団員など19名が参加しました。これまで私にも毎年お声がけをいただいていたのですが、市議会9月議会の開催中で参加できませんでした。今年は市議会を離れ、初めて参加することができました。

 
  (韓国を代表する伝統家屋「江陵船橋荘」)               (松茸をゲット)

 中部交際空港からソウル仁川空港に降りたち、日本で亡くなられた韓国人の遺骨を祀る「望郷の丘」、韓国の独立運動の歴史を展示する「独立記念館」、韓国を代表する伝統家屋を残す「江陵船橋荘」、五千ウォン札の肖像に描かれている栗谷李珥(ユルゴッ・イイ)と、その母であり五万ウォン札の肖像に描かれている申師任堂(シンサイムダン)の生家で朝鮮時代初期建物を示す「烏竹軒(オジュッコン)」、また来年2月に行われる平昌冬季オリンピックのジャンプ会場などを見学しました。また襄陽のまつたけ狩りでは急な山道を、汗をかきながらふうふう言いながら登って行き、係の人の案内でまつたけを収穫しました。
 また食事では、サムゲタン、韓定食、純豆腐、カルビ、ビビンバなど韓国の代表的な料理をいただきました。

 私にとって韓国は15年ぶりでしたが、懐かしく感じました。江陵ではみんなで夜の街に繰り出し、カラオケで大騒ぎをしたり、夜店でチヂミを食べたりしました。今回の参加者は楽しいメンバーで面白い旅でした。
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松坂城跡石垣修理シンポジウム開催される

2017-09-19 08:03:47 | 日記
 「みんなで学ぼう石垣修理」をテーマに平成29年度第1回松阪歴史文化塾事業 松坂城跡シンポジウムが9月18日松阪市本町の松阪市産業振興センターで開催されました。この催しは松阪市が主催して行われたもので、国史跡でもあり、都市公園でもある松坂城跡の整備を文化的価値の保全と、利用する市民や観光客の安全性の確保という両面からどのように取り組んでいけばよいかを探っていくものです。
 この日会場がほぼ満席になる約160人の市民が来場して、講演やパネルディスカッションを聞き入りました。

 基調講演では(協)関西地盤環境研究センター顧問で関西大学名誉教授の西形達明氏が『城郭石垣を災害から護り伝えるために』というテーマで、土木工学の立場から石垣の変形のメカニズムについて話をされました。
 またパネルディスカッションでは、奈良大学教授の千田嘉博氏をコーディネーターとして、西形教授のほか、松阪城跡を守る会会長の庄司博俊さん、竹上松阪市長をパネリストとして、城跡の文化的価値を保ちつつ、どのように修理して安全性を確保していけばいいのか、ディスカッションがありました。

 城跡石垣は長い時間の経過に伴い、基礎地盤の変状、はらみ出し、表面劣化など自然状態で変形することや、熊本城跡の石垣のように地震で大きな被害を受けることもある。このような石垣の変形は侍の時代にもあったわけで、どこの城も絶えず石垣の改修がなされていたものと思われる。
 以前視察した金沢城跡では石垣の改修された年代がその場所、場所に示されていました。

 城跡の石垣の保全改修については、現代の土木技術や材料を用いれば簡単なことであるが、文化財としての価値を保ちつつ、これまでのやり方で保全改修し、安全を確保するのが難しい。外から見えない内面の栗石の幅なども元のままに直すべきであると言われ、貴重な史跡をいかにして元のまま後世に伝えるか、全国の城跡の管理者のテーマでもある。
                               
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中・高齢者のためのパソコン教室13期開講

2017-09-12 21:33:55 | 日記
 松阪市丹生寺町の松尾公民館で中高齢者のパソコン教室が9月12日から始まりました。この講座は12年前から行われているもので、普段からあまりパソコン馴染みの薄い中高齢者の初心者を対象としたもので、今回が13期目となります。
 受講生は40歳代から80歳代くらいの中高齢者が中心で、若い人も大歓迎です。

 講座では日常生活で使うワードやエクセルを中心として、「ゆっくり 楽しく」をもつとうに進めていきます。今期は新たに6名が新規入会し、継続の人たちと合わせて25人の受講生でスタートしました。この日はスイッチの入れ方から始まり、ワードのかなやカタカナの打ち方など勉強しました。

 講師は私のほかに中川幸博さん、樋口喜一郎さん、木村晴司さん、また受講生のベテランの坂内八生・美千代夫妻が講師に加わっていただきました。これから約10ヶ月間、アットホームな雰囲気で、ワイワイガヤガヤ言いながら楽しく進めていきたいと思います。

 この講座は毎週火曜日、午後7時~9時まで、来年の7月頃まで続けられます。途中入会もできます。入会希望の方は川口保まで連絡して下さい。(自宅℡0598-58-2948 携帯090-8738-7959

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松尾神社で抜穂祭開催される

2017-09-10 12:01:34 | 日記

                  (参加者はそれぞれ11本の穂を抜き取りました)

 松阪市立野町の松尾神社(岡村行通 宮司)で、9月10日に抜穂祭(ぬいぼさい)がありました。この神事は平成25年から始まったもので、今回が5回目となります。この神事は松尾神社崇敬奉賛会(錦金則会長)が主催して、5月13日の御田植祭で植えられた餅米の実った穂を抜き取って神殿に備えるものです。この日は神社の氏子代表や奉賛会会員、JA大足店の職員など約30人が参加しました。 

      (始めに神殿でお祓いをします)       (抜き取った穂を束ねて神殿に供えます)

 この日の抜き穂は、神社の駐車場に隣接する5.9aの広さの水田に植えられた、「あゆみ餅」という品種のもち米で、参加者は松尾神社にとって縁起の良いとされる「11」という数字にちなんで、11本の穂を抜き取り、神殿に供えました。 

 この水田の代掻きや育苗、田植え後の管理などはすべて、丹生寺町の東海農産(薮谷源司代表)さんに奉仕していただきました。またこの後刈り取られたもち米は、松尾神社に寄贈され、来年2月11の例大祭のもち撒きなどに使われます。

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松坂城跡の石碑の表記について

2017-09-03 21:05:34 | 日記

 松坂城跡の名称がこれまでの「松阪城跡」から平成23年(2011)2月の国指定史跡以降「松坂城跡」となり、さかの字が「こざとへん」から「つちへん」に戻った。城跡内には国指定史跡以前につくられた案内板など「松阪城跡」のままのものもあるという。案内板などの総点検が行われているが、「松坂城跡」に直すべきであろう。ただ・・・ 

 城は戦国時代には軍事的な要塞として、戦国時代が終わってからは為政者の権威の象徴として政治・経済の中心的な役割を果たしてきた。しかし侍の時代が終わり、城が「城跡」となったとき、日本中にある城は無用の長物として、数奇な運命をたどっていくことになる。城跡の堀は埋められ、建物は取り壊され、城跡の中に学校が建てられたり、官公庁の施設が造られたりした。

 あの国宝であり、世界遺産でもある天下の名城姫路城でさえ、明治維新後天守閣は民間に払い下げられた。23円50銭、今のお金に換算して約10万円という信じられないほど安い落札で払い下げられた。その後、本来取り壊される運命にあった姫路城は奇跡的に残り、現在美しい姿を見せている。 

 松坂城も城跡となってからも新な歴史を重ねている。天守横の屋敷跡には市の配水池が造られていたことがあった。屋敷の規模や構造を知るうえで大変貴重な礎石の調査がされないまま撤去され、この施設が造られた。今となっては何と残念ことをしてくれたとなるが、当時の時代の考え方ではそれが普通だったのだろう。

 また戦後の城跡は公園としての色合いが強く、城内に猿など動物いて、私たちも子どもの時には公園で猿を見るのが楽しみであった。また恐竜の像が乱立したり、機関車が置かれたりした。これらは城跡がその時代時代の考え方で利用されてきた歴史でもある。 松坂城跡の呼び名も「松坂城」から「松阪城跡」へ、そして再び「松坂城跡」と移っていくのも歴史である。

 松坂城跡の大手門側(市役所側)から坂を上がっていくところに『松阪城跡』と書かれた石碑がある。この石碑は茶道の裏千家・千宗室宗匠の揮毫でできたもので、豊臣秀吉の時代までさかのぼった、松坂城を築城した蒲生氏郷公と茶道・千家のつながりを示す貴重な石碑である。そして「松阪城跡」という文字に城跡が歩んできた歴史が込められている。貴重な歴史の証人としてこの石碑はあのまま残すべきであろう。

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