(北畠館跡での集合写真)
松阪史跡探訪会主催の第9回松阪史跡めぐりが平成29年(2017)11月25日に行われました。今回は北畠氏最後の武将・北畠具教(きたばたけ とものり)ゆかりの地・大台町周辺を探訪しました。
この日は前日までと違い、暖かく穏やかな秋空が広がりました。折しもこの日は、北畠具教の命日に当たると言うことで「大台町ふるさと案内人の会(代表 上野進)」の皆さんや、お寺の住職さんからお話をお聞きし、参加した市民37名は北畠氏の史跡を堪能しました。
大河内城を拠点とする北畠氏は240年の間、伊勢の国司として君臨しました。永禄12年(1569)織田信長5万ともいわれる大軍が大河内城を攻め、一方守る北畠具教・具房軍は1万といわれる。難攻不落の大河内城はさすがの信長も落とせない。後から到着した織田の猛将滝川一益の魔虫谷(まむしだに)からの総攻撃も失敗し、血が川のように流れたという。45日間の戦いにも攻略できずに、ついに信長は攻撃を諦め北畠と和睦を結ぶこととし、次男茶筅丸(後の信雄(のぶかつ))を養嗣子として大河内城に入れた。この時具教は三瀬の館に、具房は阪内城に移ることになった。大河内城に入った茶筅丸には20人を超える織田の屈強な武士が付いてきて、北畠氏は城の中から崩されていくのである。
今回の史跡めぐりは具教が大河内城から移り、北畠の再興を願ったという三瀬の北畠館跡、北畠の家臣・三瀬氏の砦跡、北畠ゆかりのお寺などをめぐりました。
✦宝泉寺(案内 山口恵照住職)
立石山宝泉寺は浄土宗のお寺で、境内には「善光寺報恩堂」があり、長野の善光寺からいただいた神輿の形をした御厨子(みずし)が祀られています。今日は山口住職さんから、このいきさつを詳しくお聞きしました。
信州信濃の国(現在の長野県)の善光寺は檀家のないお寺で、天台宗と浄土宗で管理していましたが、お寺を維持していくにもお金が集まりにくい。そこでご本尊の分身を御厨子に納めて全国を廻り、寄付を受ける出開帳(でがいちょう)が7年に1回行われていました。勧進帳の弁慶が背中に背負っている御厨子にも仏像が入っており、まさにそれが出開帳です。
明治9年、出開帳のため熊野地より大台町付近にさしかかったとき、三重県各地で発生した伊勢暴動に遭遇しました。松阪市の七見から始まった暴動は一晩のうちにこの地方まで入ってきて、身の危険を感じた僧俗は御厨子を当地の墓地に置いて長野へ逃げ帰ってしまいました。暴動が鎮静後、宝泉寺の当時の住職・山口快聞和尚はこの御厨子を開扉してこれが一光三尊善光寺如来と断定し、善光寺に引取依頼の手紙を送るも返事がありませんでした。そこではるばる善光寺まで出向いて引取を申し入れましたが、「明治9年に出開帳の制度が終わったので、そちらの寺でお祀り下さい」ということであった。分身であれご本尊を無料でいただくのも恐れ多いと、当時(明治15年)のお金で10圓を志納して帰郷しました。この時の受領書が今も宝泉寺に保管されています。
その後快聞和尚は村内を廻り募金を集め報恩堂を建設しました。明治19年(1886)堂宇落慶入佛開眼法要が三昼夜行われました。善光寺関連のお寺は全国各地にありますが、神輿型の御厨子は2つしか確認されていないということです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/7a/f97a4d4f6ceead22e2a93affba9dd00e.jpg)
(浄土宗宝泉寺の本堂) (三瀬砦跡)
✦三瀬砦跡(案内 大台町ふるさと案内人の会 谷田敬一さん)
三瀬砦は北畠の家臣でこの地の豪族・三瀬氏によって室町時代に築かれた城砦(じょうさい)です。約2,500㎡の敷地が宮川本流と大谷川の合流地点で天然の要塞となっています。内部は高さ3mほどの土塁に囲まれ、井戸も残っています。この砦から北畠館跡の近くの茶臼山(ちゃうすやま)が一望でき、昔は狼煙などで連絡を取り合ったと考えられます。昭和50年に県の史跡に指定されました。
✦慶雲寺
浄土宗の寺院でご本尊は阿弥陀如来。慶長10年(1605)三瀬左京佑によって三瀬氏の菩提寺として建立されました。左京佑が大阪夏の陣に出陣するときに「自分が戻らなかったら三瀬家の土地は慶雲寺に寄贈する」といって行ったが、討ち死にし、現在のお寺は三瀬家の土地に建てられています。
毎年8月14日には三瀬左京佑の供養のための「下三瀬羯鼓(かんこ)踊り」が行われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/84/5ff1c8a1162c648f52fb1a3b0f8e2f45.jpg)
(浄土宗慶雲寺) (浄土宗永徳寺)
✦永徳寺(案内 大台町ふるさと案内人の会)
浄土宗萬福山永徳寺は、伊勢国司北畠第3代当主満雅が造ったお寺です。ご本尊の薬師如来は平安時代の作で、大台町の文化財に指定されています。現在の建物は190年位前に建てられました。
澤 正昭住職さんとは下見の時にお会いさせていただいたのですが、この日は急に所用ができ、お話をお聞きすることができませんでした。奥様と息子さんがお茶を出していただきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/7e/9399cd0b869bf98b2506f58b152d2d79.jpg)
(北畠館跡) (胴塚)
✦北畠館跡・胴塚(案内 大台町ふるさと案内人の会)
北畠館跡は国道42号(熊野街道)の北側の山のふもとにあり、現在は公園となっています。春には桜、秋には紅葉が美しく、ひっそりと昔を忍ぶことができます。
北畠氏最後の武将となる具教は、織田信長との和睦のあと元亀3年(1572)三瀬御所(館)に移り住み、この地で北畠家の再興を願っていました。しかし、信長の刺客が具教や北畠一族を暗殺する「三瀬の変」が発生します。天正4年(1576)11月25日密かに信長の命を受けた滝川雄利、柘植三郎左衛門、加留左京進らが三瀬館を訪れ、お茶を立てようとしていた具教を襲って殺害しました。同時に田丸城などでも北畠一族が殺害され、240年続いた伊勢北畠は滅亡しました
胴塚は、殺害された具教の胴体が埋葬された塚で、首は具教の家来が津市美杉町の多気の菩薩寺に葬ろうと馬を走らせたが、敵方の追っ手が厳しく、途中の松阪市飯高町の野々口に埋葬しました。ここに現在でも首塚があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/7b/6560a7366e17f3bff2215695a2572a11.jpg)
(奥伊勢フォレストピア近くの公園で昼食) (瀧原宮自由参拝)
✦瀧原宮
それぞれ自由参拝しました。
今回の史跡めぐりに協力していただいた「大台町ふるさと案内人の会」顧問の上野進さん、案内をしていただいた同会書記の谷田敬一さん、浄土宗宝泉寺さん、浄土宗永楽寺さん、大台町産業課など多くの皆さんのお世話になり、ありがとうございました。また安全運転でマイクロバスを運転していただいた小林岩雄さん、梶間弘功さんありがとうございました。