(両国国旗は「三重県日韓親善協会 ご案内のしおり」から引用させて頂きました)
✦近くて遠い国・韓国
かつて「近くて遠い国」と言われた日本と韓国、じゃあ今「近くて近い国」かというと、決してそうでもないだろう。2015年に日韓国交正常化50周年を迎え、いろいろなイベントも行われたが、2つの国はなかなか近くならない。
✦2002年韓国で仕事
以前に勤めていた会社の仕事で2002年7月から9月まで釜山に、同じ頃約1ヶ月金海に行っていた。韓国には観光でも3度程訪れているが、韓国に住み込みで仕事をしていると、短い期間ではあったが、観光では見えない韓国の実情が少しは見えた気がした。日本ではもう無くなってしまったものが韓国には残っていたり、日本に無いものが韓国にあったりした。
当時の韓国にはスーパーマーケットやホームセンターがほとんどなく、自転車屋、文房具屋、ポンプ屋、工具屋、八百屋などそれぞれの店が成り立っており、狭い路地の奥まで活気があった。それはスーパーマーケットやホームセンターができる前の我が国の姿と同じで、懐かしくもあった。よその国のことながら、何とかこのままの町のかたちを残してほしい気がした。
また韓国では都会の歩道にはいろいろな店がいっぱい出ていた。食べ物の屋台を始め、衣類や靴や、日用品までいろいろな商品が、歩道狭しと並べられており、歩行者は狭くなった歩道を、当然のように歩いていた。また、郊外ではあったが、近くの皮のなめし工場の皮が、数百メートルに亘って歩道の全面に干されていた。日本であれば近所から「通行の邪魔になる」という苦情がすぐ出てくるだろうが、韓国人の大変おおらかな国民性が感じられた。
✦儒教の国・韓国
韓国は儒教の国といわれる。儒教のことはよくわからないが、仏教やキリスト教などとはちょっと違い、精神的な支柱のような気がした。そして韓国という国にも、韓国人にも儒教精神が背骨のように通っている気がした。韓国では親・師・年上など目上の人達に対する礼儀・礼節があり、先祖に対する崇高の念が強いように感じられた。
釜山行ったとき、韓国人の7組くらいの夫婦の人たちが渓流沿いでバーベキューパーティーをしていた中に、私たちも一緒させてもらったことがあった。
この時彼らはまずグループの中の最年長の人を紹介された。私たちは最年長の人に挨拶をし、その他の人たちに挨拶をしました。帰るときもまず最年長の人にお礼を言い、みんなにお礼を言いました。日本では何かの会であれば会長、会社であれば社長を紹介しても、最年長の人を紹介する習慣はないが、これが韓国の儒教精神かと感じました。
✦おいしい韓国料理
私たちが仕事で行ったのは釜山の鳴旨(ミョンジ)と呼ばれる所で、洛東江という川の河口付近の埋立地であった。はるか向こうが、かすむような広大な新しい埋め立て地で、当時は工事現場の飯場以外の建物は何もなかったと記憶しています。そこに建設されるマンションの地質調査の技術者として、私と同じ会社の韓国人技術者・金氏と、もう一人の若い日本人技術者の3人が派遣された。通訳は金氏してくれた。
私たちは埋立地に建てられた6畳1間の小さなプレハブ小屋を拠点にボーリング調査の管理をしていたが、昼食は小屋の中でインスタントラーメンばかり食べていた。金氏の奥様が「あなたらラーメンばかりじゃ、力つかないよ」と心配していた。夜の食事は金氏のお兄さんがいろいろな店に連れて行ってくれた。
韓国料理はどれもおいしかった。サムゲタン、クッパ、テールスープなどのスープ類で、特にうまいと思ったのは「テンジャンチゲ」。日本の味噌汁を濃くしたようなスープで青とうがらしの辛さが絶妙であった。また石焼きビビンバ、海鮮料理、焼き肉、そしていろいろな種類のキムチ、初めて食べるものも多かったが、みんな旨いと思った。
休みの日に金氏の兄さんが慶州の石窟庵に連れていってくれた。その帰りに慶州と釜山の間にある有名な韓定食に店に連れていってくれたが、そこで食べた韓定食はすごかった。韓定食は宮廷料理で、いろいろな種類の料理が少しずつ盛られてくる。次々と出てくる料理をみんなで食べてお腹は満腹。もうこれで終わりだろうと思ったところに第2弾が山のように出てきた。あの店にもう一度行きたいと思う。
✦豊臣秀吉の時代からの関わり
韓国で嫌いな日本人はと聞くと、加藤清正や豊臣秀吉の名前があがってくるそうである。豊臣秀吉が天下を平定したとき、国内をもう少し固めていたら豊臣時代が続いてかも知れない。しかし征服欲の強い秀吉は海外にまで手を伸ばし、朝鮮出兵という事になった。徳川家康を始め、多くの人たちがやめた方がいいのにという気持ちはあっただろうが、権力者秀吉の命令で、加藤清正、福島正則、黒田長政など多くの武将がいやいや海を渡った。結局このことが豊臣政権を弱体化することになり、2度目の朝鮮出兵の途中に秀吉が死ぬと内部分裂が起こり、関ヶ原の戦い、大阪の陣を経て徳川時代へと移行していった。その後徳川家康は朝鮮国と友好的な交流を深めていくことになった。
それから数百年後の第二次世界大戦時に日本軍は朝鮮に侵攻していき、それが戦後の日本と韓国の交流に大きな影を落としている。
✦韓流ブームに冷や水
韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」が日本で放映されてから火が付いた「韓流ブーム」は、韓国への旅行ブームへと発展していった。主人公を演じた裵勇浚(ペ・ヨンジュン)「愛称・ヨン様」を訪ねて、おばちゃんなど多くの旅行者が韓国に渡った。2011年には韓国を訪れた日本人観光客が352万人に達した。この頃の日本のスーパーマーケットには今までほとんどなかった、ハングル文字で書かれた商品も目にするようになった。日本と韓国が友好を深めていく絶好の機会であった。
この韓流ブームに冷や水を浴びせかけたのが李明博(イミョンパク)元大統領であった。李明博大統領が退任間際の2012年8月に、日本と韓国双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)に現職大統領として初めて上陸した。同大統領の実弟の逮捕などで支持率が低迷している時期でもあったが、このことにより竹島に上陸した最初の大統領として韓国国民からは拍手喝采。支持率は上昇したという。
面白くないのは日本である。韓流ブームは一気に冷め、韓国への旅行客は激減していった。韓国や日本の旅行業界は大打撃を受けたのではないだろか。
この竹島問題や日本領事館前に新たに出現した従軍慰安婦を模した少女像の問題など、両国の国民の間にはまだまだ難問が多い。日本と韓国が「近くて 近い国」になるのにはどうすればいいのだろうか。
(次回につづく)
✦近くて遠い国・韓国
かつて「近くて遠い国」と言われた日本と韓国、じゃあ今「近くて近い国」かというと、決してそうでもないだろう。2015年に日韓国交正常化50周年を迎え、いろいろなイベントも行われたが、2つの国はなかなか近くならない。
✦2002年韓国で仕事
以前に勤めていた会社の仕事で2002年7月から9月まで釜山に、同じ頃約1ヶ月金海に行っていた。韓国には観光でも3度程訪れているが、韓国に住み込みで仕事をしていると、短い期間ではあったが、観光では見えない韓国の実情が少しは見えた気がした。日本ではもう無くなってしまったものが韓国には残っていたり、日本に無いものが韓国にあったりした。
当時の韓国にはスーパーマーケットやホームセンターがほとんどなく、自転車屋、文房具屋、ポンプ屋、工具屋、八百屋などそれぞれの店が成り立っており、狭い路地の奥まで活気があった。それはスーパーマーケットやホームセンターができる前の我が国の姿と同じで、懐かしくもあった。よその国のことながら、何とかこのままの町のかたちを残してほしい気がした。
また韓国では都会の歩道にはいろいろな店がいっぱい出ていた。食べ物の屋台を始め、衣類や靴や、日用品までいろいろな商品が、歩道狭しと並べられており、歩行者は狭くなった歩道を、当然のように歩いていた。また、郊外ではあったが、近くの皮のなめし工場の皮が、数百メートルに亘って歩道の全面に干されていた。日本であれば近所から「通行の邪魔になる」という苦情がすぐ出てくるだろうが、韓国人の大変おおらかな国民性が感じられた。
✦儒教の国・韓国
韓国は儒教の国といわれる。儒教のことはよくわからないが、仏教やキリスト教などとはちょっと違い、精神的な支柱のような気がした。そして韓国という国にも、韓国人にも儒教精神が背骨のように通っている気がした。韓国では親・師・年上など目上の人達に対する礼儀・礼節があり、先祖に対する崇高の念が強いように感じられた。
釜山行ったとき、韓国人の7組くらいの夫婦の人たちが渓流沿いでバーベキューパーティーをしていた中に、私たちも一緒させてもらったことがあった。
この時彼らはまずグループの中の最年長の人を紹介された。私たちは最年長の人に挨拶をし、その他の人たちに挨拶をしました。帰るときもまず最年長の人にお礼を言い、みんなにお礼を言いました。日本では何かの会であれば会長、会社であれば社長を紹介しても、最年長の人を紹介する習慣はないが、これが韓国の儒教精神かと感じました。
✦おいしい韓国料理
私たちが仕事で行ったのは釜山の鳴旨(ミョンジ)と呼ばれる所で、洛東江という川の河口付近の埋立地であった。はるか向こうが、かすむような広大な新しい埋め立て地で、当時は工事現場の飯場以外の建物は何もなかったと記憶しています。そこに建設されるマンションの地質調査の技術者として、私と同じ会社の韓国人技術者・金氏と、もう一人の若い日本人技術者の3人が派遣された。通訳は金氏してくれた。
私たちは埋立地に建てられた6畳1間の小さなプレハブ小屋を拠点にボーリング調査の管理をしていたが、昼食は小屋の中でインスタントラーメンばかり食べていた。金氏の奥様が「あなたらラーメンばかりじゃ、力つかないよ」と心配していた。夜の食事は金氏のお兄さんがいろいろな店に連れて行ってくれた。
韓国料理はどれもおいしかった。サムゲタン、クッパ、テールスープなどのスープ類で、特にうまいと思ったのは「テンジャンチゲ」。日本の味噌汁を濃くしたようなスープで青とうがらしの辛さが絶妙であった。また石焼きビビンバ、海鮮料理、焼き肉、そしていろいろな種類のキムチ、初めて食べるものも多かったが、みんな旨いと思った。
休みの日に金氏の兄さんが慶州の石窟庵に連れていってくれた。その帰りに慶州と釜山の間にある有名な韓定食に店に連れていってくれたが、そこで食べた韓定食はすごかった。韓定食は宮廷料理で、いろいろな種類の料理が少しずつ盛られてくる。次々と出てくる料理をみんなで食べてお腹は満腹。もうこれで終わりだろうと思ったところに第2弾が山のように出てきた。あの店にもう一度行きたいと思う。
✦豊臣秀吉の時代からの関わり
韓国で嫌いな日本人はと聞くと、加藤清正や豊臣秀吉の名前があがってくるそうである。豊臣秀吉が天下を平定したとき、国内をもう少し固めていたら豊臣時代が続いてかも知れない。しかし征服欲の強い秀吉は海外にまで手を伸ばし、朝鮮出兵という事になった。徳川家康を始め、多くの人たちがやめた方がいいのにという気持ちはあっただろうが、権力者秀吉の命令で、加藤清正、福島正則、黒田長政など多くの武将がいやいや海を渡った。結局このことが豊臣政権を弱体化することになり、2度目の朝鮮出兵の途中に秀吉が死ぬと内部分裂が起こり、関ヶ原の戦い、大阪の陣を経て徳川時代へと移行していった。その後徳川家康は朝鮮国と友好的な交流を深めていくことになった。
それから数百年後の第二次世界大戦時に日本軍は朝鮮に侵攻していき、それが戦後の日本と韓国の交流に大きな影を落としている。
✦韓流ブームに冷や水
韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」が日本で放映されてから火が付いた「韓流ブーム」は、韓国への旅行ブームへと発展していった。主人公を演じた裵勇浚(ペ・ヨンジュン)「愛称・ヨン様」を訪ねて、おばちゃんなど多くの旅行者が韓国に渡った。2011年には韓国を訪れた日本人観光客が352万人に達した。この頃の日本のスーパーマーケットには今までほとんどなかった、ハングル文字で書かれた商品も目にするようになった。日本と韓国が友好を深めていく絶好の機会であった。
この韓流ブームに冷や水を浴びせかけたのが李明博(イミョンパク)元大統領であった。李明博大統領が退任間際の2012年8月に、日本と韓国双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)に現職大統領として初めて上陸した。同大統領の実弟の逮捕などで支持率が低迷している時期でもあったが、このことにより竹島に上陸した最初の大統領として韓国国民からは拍手喝采。支持率は上昇したという。
面白くないのは日本である。韓流ブームは一気に冷め、韓国への旅行客は激減していった。韓国や日本の旅行業界は大打撃を受けたのではないだろか。
この竹島問題や日本領事館前に新たに出現した従軍慰安婦を模した少女像の問題など、両国の国民の間にはまだまだ難問が多い。日本と韓国が「近くて 近い国」になるのにはどうすればいいのだろうか。
(次回につづく)