川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

「ミス三重と青い目の人形展」開催中

2010-04-30 22:21:41 | 日記
 戦前、日本とアメリカの間に険悪な空気が漂いはじめた時、その空気を和ませようとアメリカから日本に12000体の青い目の人形が送られ、そのお返しに日本の子供たちから手紙をそえてアメリカに送られたのが答礼人形。この青い目の人形とアメリカから日本に里帰りした「ミス三重」などの人形展が4月29日から松阪市外五曲町の松阪市文化財センターで始まりました。

 全国に送られた12000体のうち、三重県にも200体がやってきたが、この多くが小学校に贈られました。しかし、やがて日本とアメリカは戦争に突入していった。アメリカから平和の使者として日本に送られてきた青い目の人形は、戦時中敵国の人形として多くが壊されたり、焼かれたりした。学校では子供たちがすすり泣くなかで青い目の人形が焼かれていった。まさに戦争の狂気である。このような状況の中で危険を顧みず、ひそかに青い目の人形をかくまっていた人がいた。嬉野の豊地小学校に残る「グレースちゃん」も県内に残っている9体のうちの1つ。

 数奇な運命をたどってきたこの人形たちを展示する人形展は、三重県各地で行われてきており、松阪市文化財センターでは5月4日まで行われます。
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松尾まちづくり協議会総会開催される

2010-04-29 20:36:07 | 日記
 4月29日、松阪市丹生寺町の松尾市民センターで、松尾まちづくり協議会(会長 今村勇)の総会が開催されました。この日会場には協議会の役員など約80名(委任含む)が出席をしました。山中市長とともに私も来賓としてお招きいただきました。
 今村会長のあいさつ、来賓あいさつの後、21年度の活動報告・会計収支決算、22年度の活動計画・収支予算などの審議が行われました。

 松尾まちづくり協議会は平成16年に市の説明会を受け、平成17年3月から勉強会をスタート、平成18年2月に準備委員会を設立して準備に取り組んできました。そして昨年の4月に松阪市内13番目の協議会として設立され、1年が経過します。
 同会には公民館部会、福祉部会、安全防災部会、生活環境部会と4つの部会があり、それぞれ部会で事業を主催して活動をしています。

 協議会については今年の3月議会の代表質疑の中で関連質疑として私の方で質問をしました。松阪市内の43地区のうち、現在13地区でまちづくり協議会(住民協議会)が設立されています。市では残りの30地区に対して今後2年間で、全地区に設立ができるように呼びかける方向を打ち出しています。
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原田積善会の戸田理事長来松される

2010-04-28 14:13:10 | 日記
 (写真は左から世古松阪担当理事、川口、仲村資料館館長、戸田理事長、篠塚財団理事)

 原田二郎没後80年記念展が開催されている松阪市殿町の松阪市立歴史民俗資料館(松阪公園内)に今日4月28日、(財)原田積善会の戸田善明理事長(79歳)が来場されました。戸田理事長さんは原田二郎(幼名 徳松)が少年時代に剣術を習った戸田宇右衛門のひ孫に当たる人で、日本銀行の発券局長をしてみえる時に、現在のデザインの1万円札をつくられたということです。

 今日は山中市長を始め小林教育長、世古潤壹良原田積善会松阪担当理事、仲村歴史民俗資料館館長などがお迎えをしました。またこの日、同館には原田翁とゆかりのある土居光華のひ孫にあたる赤塚邦代さん・利夫さんご夫妻や大正ロマン一座の皆さん、また遠足の子供たちがたくさん来場する中、戸田理事長は展示されている資料の説明をされていました。会場には新聞記者も多く取材に訪れ、記者に混じって私もカメラのシャッターをきっていました。理事長さんは私たちの写真撮影にも気さくに応じていただきましたが、その1枚が添付の写真です。

 理事長さんは話しのなかで、「原田二郎という人物を故郷の皆様に思い出していただき感謝しています。原田二郎の功績はなんといっても全財産を投げ出して社会に貢献したことです。彼は金融機関や政府にアドバイスをしましたが、よく知識や経験の積んでおり、またよく勉強もしました。彼は松阪に対する思い入れが強く、原田積善会が全国で寄付をした8700件のうち、三重県及び松阪市には600件あり、その中でも特に松阪市内への寄付は多い。原田は自分の本城は松阪で、東京は戦いの場であるという認識であった。」とおっしゃいました。

 「原田二郎没後80年記念展」は、今年が原田二郎没後80年、また(財)原田積善会設立90年にあたり、これを記念して彼の遺品や縁故者に関係する品々を展示する特別展として、7月11日まで開催されます。このような資料が原田積善会から持ち出されて展示されるのは初めてということです。
 なお原田積善会から松阪市に寄贈された松阪市殿町の原田二郎の生家は、資料館として平成24年秋の開館を目指して整備されます。
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蒲生氏郷公顕彰会定期総会&記念講演

2010-04-25 20:07:07 | 日記
 蒲生氏郷公顕彰会(高島信彦会長 会員243名)の定期総会と記念講演が4月25日、松阪市本町の松阪市産業振興センターの3階ホールで開催されました。この会は松阪開府の祖である蒲生氏郷公の足跡の探求・顕彰さらには市民の郷土意識の高揚と地域のとの友好・交流を通じて、まちづくりに資することを目的として、1年前に設立されました。市議会議員では私の他に久松議員が加入しています。この日は総会に約60人、講演会に約70人の市民が参加しました。

 総会では高島会長のあいさつ、来賓として招いた山中市長の祝辞のあと議事に入り、21年度の事業報告及び収支決算報告、22年度の事業計画及び収支予算について審議されました。22年度の事業計画には「氏郷講座」、「氏郷ウォーク」や氏郷の解説の小冊子の発行、京都大徳寺での「氏郷命日法要」への参加、氏郷公の生地、日野町へのバスツァーの実施などを決めました。
 
 記念講演では滋賀県立安土城考古博物館学芸課主任の高木叙子(たかぎのぶこ)さんが「織田信長と蒲生氏郷 -近江時代の蒲生氏-」というテーマで約1時間30分講演されました。
 信長は1534年の生まれ、氏郷1556年生まれで、信長が22年早く生まれている。この二人には、①二人ともめざましい立身出世をしている②二人とも人生の途中で落命している(信長49歳、氏郷40歳)③二人とも人気がよいなどの共通するところが多い。
氏郷に関しては、氏郷の孫の代で蒲生家が断絶しているので資料が少なく人物像がつかみにくい。近江時代の氏郷に関する文書は8点しかなく、伝説が先行して正しい氏郷像が伝わってこない。また六角氏の重臣であった蒲生氏が信長、秀吉の使えていく時代の流れを話されました。
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原田二郎没後80年記念展

2010-04-24 14:37:31 | 日記
 松阪市殿町の松阪市立歴史民俗資料館(松阪公園内)で、今日4月24日から「原田二郎没後80年記念展」が始まりました。この展示会には原田積善会から借り受けた106点の原田二郎の遺品や書画、彼と交流のあった尾崎行雄、原敬、井上馨、後藤新平等の書が展示されています。資料館の仲村館長の話では、このような資料が原田積善会から持ち出されて展示されるのは初めてということです。

 原田二郎は江戸時代末期の嘉永2年(1849)に伊勢国松坂殿町の紀州藩同心原田清一郎の長男として生まれた。明治・大正・昭和の時代に活躍した実業家で、31歳で第74国立銀行(後の横浜銀行)の頭取になり、鴻池銀行の再建にも当たった。また大正9年(1920)積年の計画であった原田積善会を設立した。その基金は生涯にわたって倹約貯蓄し、運用して得た全財産1020万円(現在の貨幣価値では百五十億円ともいわれる)であった。

 原田積善会は戦前・戦後を通して天災の被災者、福祉医療事業、学術・教育振興事業への助成、青少年の奨学金など幅広い助成活動をしてきました。三重県及び松阪市も現在の貨幣価値で約10億円が助成されています。
 また同会から松阪市殿町にある原田二郎翁の生家と敷地が松阪市に寄贈され、市では3年計画で整備して資料館として公開します。
 今年は原田二郎没後80年、また(財)原田積善会設立90年となり、それを記念して彼の遺品や縁故者に関係する品々を展示する特別展として、7月11日まで開催されます。

  松阪市立歴史民族資料館
   松阪市殿町1539(松阪公園内)
   TEL 0598-23-2381
   入館料 一般 100円 小・中・高校生 50円

 原田二郎翁に関しては私のブログ「松阪市何でも10選」の「松阪市ゆかりの偉人10選」をご覧下さい→クリック
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新聞の切り抜き

2010-04-23 00:27:06 | 日記
 主に夕刊三重紙と中日新聞ですが、気になった記事の切り抜きをしてスクラップしています。記事は今後の議員活動に必要と思われるものや、ブログを書くときに参考にできるものを中心に切り取り、ノートに貼っています。記事は市政に関するものと、祭りや催しなど一般的な記事に分けて整理していますが、十数冊になりました。
 切り抜きだけだと早いのですが、読みながら、そして必要な所はパソコンに打ち込みながらしているとなかなか進みません。新聞は届いたとき結構詳しく読んでいるつもりですが、読み落としている記事や、こんな催しがあったのかと後で気がつく記事もあります。

 夕刊三重の連載で松阪市愛宕町出身の元日活スター沢本忠雄の「沢本忠雄が語る芸能秘話」を面白く読ませていただいきました。全盛期の日活からテレビ、舞台と芸能界の第一線で活躍してきた彼の話しは面白かった。
 石原裕次郎と飲みに行っていたとき、裕次郎が「今から海に行こう」と店の女の子たちを誘って夜の海へ。「泳ごう」と裕次郎が素っ裸で海に入っていき、続いて沢本忠雄も裸で、そして女の子たちも素っ裸で海に入って泳いだそうです。それから数年経って、沢本があるクラブにいった時、クラブのママが「お久しぶりです」「どこかでお会いしましたか」「夜の海でご一緒させていただきました」「あ!あの時の」。
 今や大女優の吉永小百合が少女時代、沢本ら俳優仲間でしているマージャンを傍で見ていて、そのうち疲れて沢本の膝を枕に眠ってしまった話し。
 上岡竜太郎と彼の行きつけの飲み屋に行った時、おもろい女の子がいるので呼ぶは、と彼が電話で呼び出して来た女の子は大女。この子が結構歌がうまい、「歌手になったら」と沢本がいうと「そんなの無理やわ」と。しかし、しばらくしたらその子がデビューしてしまった、それが和田アキ子だったそうです。
この連載は4月20日付けの98回をもって最終章を迎えました。

 夕刊三重では4月から楽しみな新しい連載が2つ始まりました。1つは「作家たちと松阪」で、国学者本居宣長を生んだ松阪には多くの作家たちが訪れており、作家と松阪の関わりについてのシリーズ。もう1つは「原田二郎翁の足跡」。松阪市殿町出身の明治・大正時代の実業家で(財)原田積善会を設立した原田二郎の足跡を紹介するものです。

 私のブログはこの新聞の切り抜きや、実際に現場で取材した内容を参考に、なるべく正確に書くようにつとめています。
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三雲振興局「“ほっと”ギャラリー」

2010-04-20 17:48:59 | 日記
 松阪市曽原町の松阪市三雲振興局の玄関に三雲地域の良さを発信するミニギャラリー「“ほっと”ギャラリー」が設置されています。このギャラリーは三雲管内の自然や歴史・文化、イベントなどの風景をテーマとした写真や絵画などを展示するものです。
 このミニギャラリーは地域のホットな話題を発信していこうということで、3月8日から設置されています。これまで「碧川(あおかわ)周辺地域の風景展」「碧川の桜の写真展」「武四郎まつりの写真展」があり、19日から現在の後藤勝美水彩画展「みくも路を描く」が開催されています。
 「“ほっと”ギャラリー」の命名については、振興局全職員から募集した123点の中から選ばれたもので、このギャラリーを見た来場者の気持ちを“ほっと”和らげ、職員の対応もお客さんに対して“ほっと”していただけるようにという願いが込められています。
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上海万博テーマ曲の盗作疑惑

2010-04-19 22:41:56 | 日記
 今年の5月1日に開幕する上海万博のテーマ曲「2010年があなたを待っている」が、1997年にシンガー・ソングライターの岡本真夜が作曲した「そのままの君でいて」の盗作ではないかという疑惑が持ち上がっています。この曲は中国の売れっ子作曲家繆森氏が作曲したもので「99%盗作に間違いない」という声まででている。万博という中国国家が威信をかけた国際的な大イベントの、しかも人気作曲家が作曲したテーマソングが盗作となれば、中国の威信が台無しということになり、万博事務局は「暫定的に使用を禁止する」と決定しました。ただ今回この曲が盗作となれば、中国の知的財産権軽視の風潮の現れではないかと思います。

 中国のコピー商品や類似商標、知的財産権の軽視についてはこれまで私のブログでも何度か取り上げてきました。中国では以前に国営の遊園地で外国の人気キャラクターを無断で使用したぬいぐるみが出ていて問題になれましたが、その後も湖南省長沙市の「世界の窓」という遊園地では、外国の人気キャラクターを無断でコピーしたマスコットが出演する「コピー祭り」などというイベントが行われました。同遊園地では「コピーを理解せず、関心を示さない人は落後者」とか「コピーは文化。独特の雰囲気で魅了します」などの宣伝文句で市民をあおっていました。

 中国は市場経済の歴史が浅いため、国も国民も知的財産権に対する認識が低いのかも知れません。今回の万博のテーマソングの盗作騒ぎもそうですが、中国という国が国際的に信用されるためにも、コンピュータソフト、映画、音楽、特許・意匠、車のデザインなどの知的財産のコピー商品については国家の威信をかけて取り締まっていかなければならないと思います。マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏が中国政府に対して、「知的財産権を粗末に扱うと、最後に被害を被るのは中国国家でありますよ」と警告したことがあったそうです。
 私も日中友好議員連盟の一員です。2週間後に迫った上海万博が成功裡に開催されるように、そして世界に向かって躍進を続ける中国という国が、世界から信頼される成熟した国家を目指していけるように祈りたい。
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7公民館合同水墨画展開催中

2010-04-16 14:28:13 | 日記
 松阪市外五曲町の松阪市文化財センターで、「公民館合同水墨画展」が現在開催中です。この展示会は猟師町の林芳洲さんを講師とする7つの公民館(港、神戸、宇気郷、橋西、嬉野、中川、中原)で水墨画を習う会員が、日頃の成果を発表する場として毎年この時期に開催されているもので、今回が7回目となります。

 会場には会員45名から出展された作品120点余が展示してあります。作品の大きさは色紙サイズから50号の大作まであり、習い始めて間のない人から何十年のベテランまで出展されています。私の友人知人もこの水墨画の会員の中に何人かいいて、今日は家内と見にいきました。

 講師の林先生は私の若いときの書道の師で、今日も案内をしていただきました。林先生の話では、生徒が先生と同じ画風の絵を描いていてはダメで、それぞれの個性を生かした絵を創ることが大事であるということです。
 この展覧会は4月18日まで開催されています。
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歌われない国歌“君が代”

2010-04-15 07:18:37 | 日記
 4月も半ばを迎え、新しく学業に仕事に就かれた人たちも、少しは新しい環境になじんでこられたでしょうか。
 3月から4月にかけて小学校や中学校の卒業式や入学式に、ほかの地元の人たちとともに来賓として参列させていただきました。すばらしい卒業式、入学式でした。
 卒業式といえば私たちの世代には、今は歌われない「仰げば尊し」を懐かしく思いますが、それも時代の流れでしょうか。今、卒業式で歌われている“白い光の中に 山なみは萌えて・・・”で始まる「旅立ちの日に」も素敵な歌ですが。
 中学校の卒業式では3年間ともに学んだ学友たちと離ればなれになり、もしかするともう二度と会えないかも知れない。そのような思いの中での卒業生代表による「答辞」には、卒業生も在校生も保護者もそして私たち来賓も感極まって涙があふれる、そのような感動の卒業式でした。

 小学校や中学校の卒業式や入学式に参列していつも気になるのは、校歌や別れの歌を大きな声で歌う児童や生徒が、「国歌斉唱」ではほとんどの歌わないことです。子供たちだけでなく保護者も先生も歌う人は少なく、一部の来賓の人たちだけが歌う国歌斉唱になっています。
 私たちの時代には国歌を歌ったと記憶していますが、日本という国はいつからこのような国になってしまったのでしょうか。以前に卒業式の国歌斉唱をめぐって広島県で校長が自殺するという事件もありました。

 日本がこれまで歩んできた戦争などの歴史の中で、国歌「君が代」や国旗「日の丸」に対する日本国民の思いは様々で、その認識の違いには奥深いものがあるのはたしかです。国歌や国旗のもとに国民がひとつになれない。これは日本が抱える大きな不幸ではないかと思います。世界の中でも日本人ほど国歌、国旗に対する敬愛の念がない国民は、他に例をみないのではないかと思います。

 オーストラリアにホームステーした日本の子どもに、現地の子供たちがオーストラリア国歌を歌って歓迎してくれたそうです。そのあとでこんどは日本の国歌を歌って下さいと言われたとき、日本の子どもたちは国歌を歌えなかったという話しを聞いたことがあります。
 サッカーやボクシングの試合前に国歌が流れます。またオリンピックなどで優勝すると日の丸が掲げられ、君が代が流れます。このときには「なぜ 日の丸を揚げるのだ!」「なぜ 君が代を流すのだ!」という批判はこないということも聞いています。

 自由な国ニッポン。日の丸を国旗として認める認めないのも自由、国歌斉唱で君が代を歌うのも歌わないのも自由。国旗、国歌のもとで国民がひとつになれない国をつくってきた、これまでの“大人たち”にも責任があります。このまま日本は何を目指して、どこを目指して進んで行くのでしょうか。
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天開山泰運寺の八角梵鐘

2010-04-13 07:08:41 | 日記
 4月11日、天開山泰運寺の会式に初めて行ったとき、18代・宮本泰源住職からこの寺の八角梵鐘についての資料をいただきました。私のブログもこの資料を参考にして書かせていただきました。この梵鐘ついてはインターネットでもあまり詳しく出てきませんので、検索していただけるように資料をそっくりまる写しします。

『「口窄さん」として親しまれている泰運寺の開山は、元文5年(1740)というから今から260年以上(注1)も前の事、肥前の僧・泰運了啓が禅可庵を建て子安観音を祀ったものだが、宝暦11年(1761)泰運寺と称するようになった。
 仏教の伝来とともに古くから存在する梵鐘。その多くは周囲がふっくらとした円形を描いているが、ここの梵鐘は大きさもさることながら、その形が八角形と珍しいものである。
 八角梵鐘は、天明3年(1783)二代目住職泰宗のとき鋳造にかかり天明5年10月に完成、撞初式が行われた。その供養には61ヶ寺、3200余名が集まったと記録に残っている。又、鋳造に当たっては「松阪御代官井二目付二人番人八人立会ス」と記され、余程の大事業であったことをうかがわせている。泉州佐野の大富豪、食野次郎左衛門(注2)が寄付したものだが、天下の豪商三井家に嫁いだ娘に子が無く、同寺の子安観音に祈願したところ一子を授かり、その恩に報いたものといわれる。
 八角の各面には法華教が一巻ずつ、計八巻6万9384文字を陰刻、内面にも天開山泰運寺記、寄造者、鋳工、彫刻師らの名が詳細に刻まれている。
梵鐘につきものの縦横の帯はなく、龍頭は宝珠となっている。宝珠からは各面に龍が頭を伸ばし、鐘を撞くとこれがうなり、ちょうど法華教を読むが如く響きわたるのである。県指定の有形文化財である。

 八角梵鐘
  高さ     2.42m
  口径    1.36m
  重量    4.87t
  天明3年3月18日鋳造
  銅      870貫
  錫       80貫
  文銭     150貫
  鏡       20貫(銅鏡)
  鋳物師工料130両
  地金代   370両
  等合計   839両
  タタラ工   120人
 三重県松阪市飯高町波瀬 曹洞宗 天開山 泰運寺
 ℡0598-47-0361 』

注1 この文書が作られたのが10年程前です
注2 食野次郎左衛門(めしのじろうざえもん)
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天開山泰運寺で会式開催される

2010-04-11 17:58:16 | 日記
                  (写真は会式の最後に行われたもちまき)
 
 4月11日(日)、松阪市飯高町波瀬の曹洞宗天開山泰運寺(宮本泰源住職)で大黒会式が開催されました。この寺は桜の名所でもありますが、満開の桜の中での会式を私も始めて参観させていただきました。この会式は家内安全祈願、交通安全祈願、子授け祈願、安産祈願などが行われ、波瀬の地区内を始め、地区外、県外から約150人の参列者がありました。

 天開山泰運寺(てんかいざんたいうんじ)は「口窄(くちすぼ)さん」として親しまれていますが、本尊が子安観音で「子授けの寺」として知られています。この寺の開山は、今から約270年前の元文5年(1740)に、肥後の僧・泰運了啓が禅可庵を建て子安観音を祀ったもので、宝暦11年(1761)から泰運寺と称するようになりました。

 泰運寺には県指定の有形文化財八角梵鐘があります。梵鐘の多くは、円形を描いていますが、この梵鐘は八角形と珍しく、天明3年(1783)に二代目住職泰宗のときに鋳造にかかり、天明5年10月に完成、撞初式が行われました。梵鐘は泉州佐野の豪商食野次郎左衛門の寄贈によるもので、八角形の各面には法華教が一巻ずつ、計八巻6万9384文字が陰刻されています。また内面には天開山泰運寺記、寄造者、鋳工、彫刻師らの名前が詳細に刻まれています。この鐘を撞くと法華教読むが如く響きわたるということです。
 このお寺の境内にはこの梵鐘をうたった山口誓子の「七萬の 鐘の字が鳴る 紅葉山」という石碑もあります。

 この会式は、約200年の歴史があります。最近は毎年4月の第2日曜日に行われていますが、以前は4月20日に行われていて、その頃は桜もその時期に満開を迎えていたということです。当時は村に子供たちも多く、この日は学校も仕事も休みとなり、会式の参拝者も多くて、たくさんの出店も出て大変賑わったということです。また相撲や剣道の試合も行われ、当時は多くの若者も参拝をして、この会式で見合いをしたり、恋愛をして、これが縁で結婚した人も結構いたそうです。

 この日、午前10時30分より本堂において大般若祈願が行われ、その後もちまきもありました。また参拝者にはぜんざいが無料で振る舞われました。このお寺は檀家がないということですが、たくさんの地区の人たちが出て運営をされていました。このお寺の開山以来18代目の住職である宮本住職さんは忙しい中、会式の歴史などいろいろと教えていただきました。また世話人の皆さんからも写真はどこでも自由に撮ってもいいを言っていただきました。歴史あるお寺の歴史ある催しを堪能させていただきました。

  曹洞宗 天開山 泰運寺
    三重県松阪市飯高町波瀬
    ℡ 0598-47-0361

 泰運寺の会式は私のホームページ「松阪市何でも10選」の「松阪市まつりごよみ」に登録させていただきました。→クリック

 また泰運寺の桜については「松阪市何でも10選」の「松阪市桜の名所10選」をご覧下さい→クリック

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伊勢山上山開き

2010-04-08 22:20:13 | 日記
                      (写真は飯福田寺での火渡り)

 今日4月8日、松阪市飯福田町の伊勢山上・飯福田寺(世木英勝住職)で山の安全を祈願する山開きが行われました。私もかねがねこの行事を見たいと思っていたのですが、何かと重なって来られませんでした。今日初めて見せていただきました。世木住職の話ではこのような行事はいつから行われているかは分からないということですが、この山開きは1300年前から行われているそうです。

 飯福田山は標高390m、高低差200m山麓丘陵で、飯福田寺周辺一帯を伊勢山上と呼びます。飯福田寺は大宝元年(701)、修験道の始祖・役行者小角(えんのぎょうじゃおずぬ)の開祖による古刹で真言宗醍醐派に属します。
 伊勢山上は鎌倉時代の頃よりの修験道の霊場で、表行場と裏行場があります。表行場には油こぼし、屏風岩、行者越え、岩屋本堂、などの多くの行場があり、鎖をつたって崖を登るなどのスリルを味わうことができます。

 この日、三重修験道会(向井朋範会長 会員約40名)の山伏8名が、ふもとの薬師堂から鎖を伝って崖を登ぼり岩屋本堂に到着、半年ぶりに岩屋本堂の扉を開きました。このときほら貝が鳴り響き、般若心経が唱えられました。
 開帳の儀式のあと下山して、薬師堂の前で祈願護摩供養が行われ、また飯福田寺では火渡り護摩供養が行われました。火渡り護摩供養では燃やされた火の上を山伏に続き、来場者が素足で渡りました。私も火渡りを初めて経験させていただきました。

 この日伊勢山上・飯福田寺には約100名の来場者がありました。中にはベルギー人の一行も来ていて、山伏による山開きの儀式を珍しそうに見ていました。薬師堂と飯福田寺での護摩供養では山伏が弓矢を射ますが、その矢を拾うと縁起がいいということで、ベルギー人の人たちも矢を拾っていました。
 伊勢山上は今日から閉山式を迎える10月7日まで、行場めぐりの人たちが訪れます。


 伊勢山上・飯福田寺の開山会式は私のホームページ「松阪市何でも10選」の「松阪市まつりごよみ」に登録させていただきました。→クリック
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本居宣長ゆかりの「国学の道」散策

2010-04-06 17:52:47 | 日記
 平成22年4月4日、宣長まつりの一環として「国学の道」の散策が行われました。この催しは松阪市内にある本居宣長ゆかりの建物や史跡、また松阪城跡関係の史跡などを尋ねて廻るもので、この日、主催者の見込みの20名をはるかに超える110名の市民が参加しました。
 コースは歩いて約4000歩から5000歩くらいの1.5㎞の距離で、約1時間の予定でスタートしました。本居宣長記念館の吉田悦之館長のユーモアを交えた案内で、普段私たち市民も何気なく通り過ごしてしまう所に、貴重な石碑や史跡などがあることを知りました。

◇本居宣長旧宅
 鈴屋と呼ばれ1691年に小津定治が清光寺前に建て、1726年に魚町に移転され、1909年に松阪城跡に移転された。現在国の特別史跡に指定されています。

◇鈴屋遺跡保存会表門
 101年前の明治42年(1909)にできた門で、神社仏閣の補修を手がけていた名工が制作しました。奈良時代から室町時代の様式が入っています。

◇松阪城跡搦手門付近の常夜灯
 左右2基あり、左側のものは安永9年(1780)9月に造られ、櫛田川の早馬瀬側にあったもので、本居宣長の目にとまっている可能性が高い。右側のものは宣長の没後22年の文政6年(1823)12月に造られたもので、津の藤枝町にあったものが、ここに移転されたもので、津市では大変残念がっているそうです。

◇四五百の森
 四五百の森には466種の植物が確認されており、町中の森としてはかなり珍しい木や花もあるそうです。

◇本居宣長ノ宮
 1875年山室山奥墓隣りに山室山神社として創祀、1889年殿町(現在の市役所)に遷座、1915に四五百森に遷座、1931年本居神社と改称、1995年本居宣長ノ宮と改称、現在にいたる。
 この神社に1959年4月に建てられた、宣長の「しきしまのやまとこころをひととはばあさひににほう山さくらばな」という有名な歌が書かれた歌碑があります。これは松阪市内にある12基の宣長の歌碑の内の1つで、宣長六世孫本居弥生書です。また本居宣長記念館の開館と同じ頃の1970年11月に牧戸正平氏より寄進された石の駅鈴があります。
 
◇松阪神社
 神殿前の狛犬は、1936年5月5日に原田積善会から寄進されたもので、東京の名工・野村保泉作です。
 この神社のくすの木は、1092年に芽生えたという伝承があり、今年で樹齢918歳とされています。
 このくすの木の根本にある歌碑は、1958年11月に牧戸正平氏により寄進されたもので「民の戸もささで月見るよひの杜めぐみのかげのくもりなきよは」と書かれてあり、宣長五世孫本居清造書。この歌の歌碑はもう1つ、松阪駅東のロータリーの所にもあります。

 また、くすの木の根本には松阪城からの抜け穴伝説もあります。
 松阪神社の正門にある鳥居は大変古く、1674年に建てられた八雲神社の鳥居(宣長の母の実家・村田家の寄進)に次ぐ古さで、今から約300年前の宝永4年(1707)9月に造られたものです。

◇松阪城の堀跡
 殿町付近を流れる神道川は松坂城の堀の名残で、今は幅2m位ですが、当時の堀の幅は16m~30m、堀の深さは1m~3.3m、総延長約2.1㎞ありました。松阪城への入口は大手門、搦手門、五曲口門、同心町門の4ヶ所ありました。

◇鵜川邸
 新町にある民家で、宣長が生まれた、宣長の母の実家・村田家ではないかといわれています。棟札がないので築何年というのは分からないが、宣長生誕の家の可能性があることから、鵜川義之助さんが道路拡幅のおりにも取り壊さず、後ろに引き家をされた。

◇樹敬寺墓地
 本居一族、小津隠居家、村田家の墓が多数あります。寺の本堂や嶺松院跡の宣長の歌碑は工事中で入れませんでした。
 お寺の墓石の配置も本居家で生まれたものと、養子などで外から本居家入ったものとは区別されていました。

◇和歌山街道と伊勢街道の分岐点の道標
 日野町のヒシナカ薬局隣りにある道標は、和歌山街道と伊勢街道(参宮街道)の分岐点を示すものです。このような道標には普通建てられた年号が入っていますが、この道標には記入がなく年号は分かりません。

◇新上屋跡
 日野町のカリヨン駐車場付近は、宣長が生涯の師と仰ぐ賀茂真淵と1回きりの対面を果たした「新上屋」があったところです。以前ここには「新上屋跡」と書かれた石碑が建てられていましたが、今は本居記念館に移設されています。

◇本陣「美濃屋」跡
 日野町の松崎屋食堂は本陣「美濃屋」のあったところで、ここで宣長は宣長の信奉者浜田藩主松平康定に源氏物語を講釈しました。松平康定が何を聞いても宣長は答を返したそうです。
 松崎屋食堂の左側から入る小路は美濃屋の脇だから「美濃屋小路」と呼ばれ、当時の道の広さのまま今もある。
「小路」は松阪では「しょうじ」、京都では「こうじ」、伊勢では「世古」と呼びます。

◇魚町界隈
 魚町の茶番亭横にある駅鈴童子は「せんとくん」で有名になった藪内佐斗司氏の作。まどいのやかた「見庵」は宣長の友人で乳兄弟であった小泉見庵の家。
 本居宣長旧宅跡は本居家が1741年から1900年まで代々住んだ家で、宣長も12歳から72歳までの大半をここで過ごしました。

 この「国学の道」は本居宣長旧宅跡で解散しました。参加人数が多いこともあって、予定の1時間を越えて1時間40分位かかりましたが、大変いい勉強になりました。
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好天の中、宣長まつり開催される

2010-04-04 20:57:56 | 日記
 春爛漫の4月4日、松阪城跡(公園)において宣長祭りが行われました。この日は穏やかな祭り日よりのなか、大勢の市民が春の祭りを楽しみました。
 この祭りは松阪が生んだ国学者本居宣長を称えるもので、宣長まつり運営委員会が主催し、松阪市や松阪市観光協会、松阪商工会議所、鈴屋遺跡保存会が共催して毎年この時期に行われています。
 午前11時からの式典では主催者や市長の挨拶のあと、宣長エッセイの表彰式と朗読があり、3人が受賞されました。また2010クィーン松阪の表彰では2人のクィーンが発表され、表彰されました。

 このあと特設舞台や舞台前のイベント広場では松阪鈴おどり、子どもたちのダンス、しょんがいソーランなどがありました。また松阪しょんがい音頭と踊り保存会によるしょんがい踊りでは、蒲生氏郷の「松阪築城物語」や、本居宣長と賀茂真淵が運命的な対面を果たした「松阪の一夜」が披露されました。

 この日は本居宣長記念館や歴史民俗資料館、松阪商人の館が無料開放され、多くの来場者で賑わっていました。
 また松阪市内にある本居宣長に関する史跡や建物などを散策する「国学の道」にも100以上の参加者があり、この日松阪市内は本居宣長一色の1日になりました。
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