(阿射加神社で松本明徳宮司といっしょに集合写真)
松阪史跡探訪会主催の第10回松阪史跡めぐりが平成30年5月27日(日)行われました。数日前の天気予報ではこの日は雨という予想が出ていたのですが、見事予報が外れ、朝から青空が広がっていました。今回は29名が参加し、伊勢寺、阿坂、宇気郷方面を探訪しました。
✦伊勢寺廃寺(伊勢寺町)(案内 新山勝保さん)
伊勢寺は伊勢の国を平定した豪族・伊勢氏の菩提寺として、飛鳥時代の慶雲年間(701~708)に創建された。奈良時代の天平13年(741)の聖武天皇の時代に疫病がはやり、仏の力で治めようと各国に国分寺及び国分尼寺建てるように命がおり、伊勢の国では国分寺は国府のあった鈴鹿に決まり、国分尼寺は伊勢神宮へのお伺いで伊勢寺がよいとお告げがあった。このため伊勢寺を国分尼寺に転用し、尼10人が置かれ、聖武天皇より寺領として50町歩の水田を拝領した。その後七堂伽藍が建立され、行基菩薩が彫った丈6(4.8m)の仏像も安置され、20ヶ寺の末寺を拝し、繁栄を極めた。
平安時代の末期には保元の乱(1156)、平治の乱(1159)などには戦火を受け、大部分の伽藍が焼却し、寺は衰退していく。また寺領50町歩の水田の用水は堀坂川の流路が災害で変わり、用水が得られなくなり、水田は山林化し国分尼寺の維持ができなくなっていった。この頃創建当時の慶雲寺と名称を改める。
江戸時代初期(1620)以降紀州藩徳川頼宜公から国を守る官寺として「護国寺国分寺」の称号を受け、本堂が再建された。
昭和63年から平成元年にかけて発掘調査も行われ、東西150m、南北180mの寺域を有してあったと推定されている。
(伊勢寺廃寺で新山勝保さんから説明を受ける) (敏太神社で山本実穂さんから説明を受ける)
✦敏太神社(美濃田町)(案内 歴史研究家 山本実穂さん)
敏太(みぬた)神社(松本明 宮司)は平安時代の延長5年(927)にまとめられた、全国の神社一覧を表す「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう」に記載された式内社で、古くから牛頭天皇を鎮守神としてきたが、大正4年(1915)に八雲神社など11社と合祀しました。年中恒例祭礼として、粥だめし神事(2月)、すすき倒し神事(2月)、足焼き神事(12月)などが行われる。
✦阿射加神社(小阿坂町・大阿坂町)(案内 松本明徳 宮司)
阿射加神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社で、伊勢神宮より8年古い紀元前13年の創建とされている。今から1100年前の醍醐天皇の時代には、皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)と並ぶ由緒ある神社でありました。祭神は日本神話に登場する大神「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」を祀る。
この猿田彦大神は阿射加の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にます。現在の阿坂は伊勢湾の海岸より約8㎞も離れており、太古の阿射加は今の一志郡東部の総称であったと思われる。
伊勢の国において式内社は253座あり、小神と大神が祀ってある。この内大神は18座あり、ほかは小神が祀られている。18座の大神の内、伊勢神宮とその関連の神社に14座祀られており、残り4座の大神の内1座は桑名市の多度大社にあり、あとの3座は阿射加神社に祀られている。
(阿射加神社の松本明徳宮司がら説明を受ける) (浄眼寺は川口が説明しました)
✦浄眼寺(大阿坂町)(案内 川口保)
正法算浄眼寺(しょうほうざん じょうげんじ)(北川美英 住職)は曹洞宗のお寺で本尊は釈迦如来。当寺は文明10年(1478)伊勢国司北畠正勝が阿坂城の麓のこの地に七堂伽藍を建立し、中世を通して北畠氏の菩提寺となり、阿坂城とともに同氏の南伊勢支配の拠点となりました。しかし、永禄12年(1569)織田信長の阿坂城攻めの時に兵火にあい伽藍などほとんど全てが消失した。江戸時代に再建され、宝暦12年(1762)本堂などの修築が行われた。
✦伊勢山上飯福田寺(飯福田町)(案内 世木英勝 住職)
国峯山飯福田寺(こくほうざん いぶたじ)は真言宗醍醐派の古刹で、京都三宝院の末寺。今から約1300年前の大宝元年(701)役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場で、本尊は薬師如来。
古来より諸侯国司を始め多くの参拝者があり、北畠家の祈願所として栄えました。天正11年(1583)には織田信長の次男信雄(のぶかつ)より寺領百五十貫文を寄付されたが、松坂城主蒲生氏郷により、当寺の伽藍を壊し、松坂城を築くための材として使われ、寺は衰退していく。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得て、寺運は興隆して今日にいたっている。
飯福田寺一帯の山地には多くの奇岩怪岩が露出しており、鎌倉時代以来行者の修験道場として用いられている。明治半ばまでは女人禁制となっていたが今は解放されている。行場は表行場と裏行場があり、三重県の一番危険な観光地に登録されている。
(飯福田寺の世木英勝住職から説明を受ける) (蘭宇氣白神社で垣本長生宮司から説明受ける)
✦蘭宇氣白神社(柚原町)(案内 垣本長 宮司、坂下一夫 宇気郷地区連合自治会会長)
「アララギさん」でおなじみの蘭宇氣白(あららぎうきはく)神社の創始は分からないが、明治末期に蘭神社(柚原町)、宇気比神社(与原・後山町)、白山神社(飯福田町)が合祀され、この社名となった。祭神は主祭神の建速須佐之男命(すさのうののみこと)など17神を祀る。
この神社の境内には社名となっている蘭(別名「一位」)の木が6本ある。
松阪史跡探訪会主催の第10回松阪史跡めぐりが平成30年5月27日(日)行われました。数日前の天気予報ではこの日は雨という予想が出ていたのですが、見事予報が外れ、朝から青空が広がっていました。今回は29名が参加し、伊勢寺、阿坂、宇気郷方面を探訪しました。
✦伊勢寺廃寺(伊勢寺町)(案内 新山勝保さん)
伊勢寺は伊勢の国を平定した豪族・伊勢氏の菩提寺として、飛鳥時代の慶雲年間(701~708)に創建された。奈良時代の天平13年(741)の聖武天皇の時代に疫病がはやり、仏の力で治めようと各国に国分寺及び国分尼寺建てるように命がおり、伊勢の国では国分寺は国府のあった鈴鹿に決まり、国分尼寺は伊勢神宮へのお伺いで伊勢寺がよいとお告げがあった。このため伊勢寺を国分尼寺に転用し、尼10人が置かれ、聖武天皇より寺領として50町歩の水田を拝領した。その後七堂伽藍が建立され、行基菩薩が彫った丈6(4.8m)の仏像も安置され、20ヶ寺の末寺を拝し、繁栄を極めた。
平安時代の末期には保元の乱(1156)、平治の乱(1159)などには戦火を受け、大部分の伽藍が焼却し、寺は衰退していく。また寺領50町歩の水田の用水は堀坂川の流路が災害で変わり、用水が得られなくなり、水田は山林化し国分尼寺の維持ができなくなっていった。この頃創建当時の慶雲寺と名称を改める。
江戸時代初期(1620)以降紀州藩徳川頼宜公から国を守る官寺として「護国寺国分寺」の称号を受け、本堂が再建された。
昭和63年から平成元年にかけて発掘調査も行われ、東西150m、南北180mの寺域を有してあったと推定されている。
(伊勢寺廃寺で新山勝保さんから説明を受ける) (敏太神社で山本実穂さんから説明を受ける)
✦敏太神社(美濃田町)(案内 歴史研究家 山本実穂さん)
敏太(みぬた)神社(松本明 宮司)は平安時代の延長5年(927)にまとめられた、全国の神社一覧を表す「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう」に記載された式内社で、古くから牛頭天皇を鎮守神としてきたが、大正4年(1915)に八雲神社など11社と合祀しました。年中恒例祭礼として、粥だめし神事(2月)、すすき倒し神事(2月)、足焼き神事(12月)などが行われる。
✦阿射加神社(小阿坂町・大阿坂町)(案内 松本明徳 宮司)
阿射加神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社で、伊勢神宮より8年古い紀元前13年の創建とされている。今から1100年前の醍醐天皇の時代には、皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)と並ぶ由緒ある神社でありました。祭神は日本神話に登場する大神「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」を祀る。
この猿田彦大神は阿射加の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にます。現在の阿坂は伊勢湾の海岸より約8㎞も離れており、太古の阿射加は今の一志郡東部の総称であったと思われる。
伊勢の国において式内社は253座あり、小神と大神が祀ってある。この内大神は18座あり、ほかは小神が祀られている。18座の大神の内、伊勢神宮とその関連の神社に14座祀られており、残り4座の大神の内1座は桑名市の多度大社にあり、あとの3座は阿射加神社に祀られている。
(阿射加神社の松本明徳宮司がら説明を受ける) (浄眼寺は川口が説明しました)
✦浄眼寺(大阿坂町)(案内 川口保)
正法算浄眼寺(しょうほうざん じょうげんじ)(北川美英 住職)は曹洞宗のお寺で本尊は釈迦如来。当寺は文明10年(1478)伊勢国司北畠正勝が阿坂城の麓のこの地に七堂伽藍を建立し、中世を通して北畠氏の菩提寺となり、阿坂城とともに同氏の南伊勢支配の拠点となりました。しかし、永禄12年(1569)織田信長の阿坂城攻めの時に兵火にあい伽藍などほとんど全てが消失した。江戸時代に再建され、宝暦12年(1762)本堂などの修築が行われた。
✦伊勢山上飯福田寺(飯福田町)(案内 世木英勝 住職)
国峯山飯福田寺(こくほうざん いぶたじ)は真言宗醍醐派の古刹で、京都三宝院の末寺。今から約1300年前の大宝元年(701)役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場で、本尊は薬師如来。
古来より諸侯国司を始め多くの参拝者があり、北畠家の祈願所として栄えました。天正11年(1583)には織田信長の次男信雄(のぶかつ)より寺領百五十貫文を寄付されたが、松坂城主蒲生氏郷により、当寺の伽藍を壊し、松坂城を築くための材として使われ、寺は衰退していく。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得て、寺運は興隆して今日にいたっている。
飯福田寺一帯の山地には多くの奇岩怪岩が露出しており、鎌倉時代以来行者の修験道場として用いられている。明治半ばまでは女人禁制となっていたが今は解放されている。行場は表行場と裏行場があり、三重県の一番危険な観光地に登録されている。
(飯福田寺の世木英勝住職から説明を受ける) (蘭宇氣白神社で垣本長生宮司から説明受ける)
✦蘭宇氣白神社(柚原町)(案内 垣本長 宮司、坂下一夫 宇気郷地区連合自治会会長)
「アララギさん」でおなじみの蘭宇氣白(あららぎうきはく)神社の創始は分からないが、明治末期に蘭神社(柚原町)、宇気比神社(与原・後山町)、白山神社(飯福田町)が合祀され、この社名となった。祭神は主祭神の建速須佐之男命(すさのうののみこと)など17神を祀る。
この神社の境内には社名となっている蘭(別名「一位」)の木が6本ある。