「大石の不動さん」でおなじみの松阪市大石町の大石不動院(岡本俊光住職)で8月31日から9月1日にかけて八朔祭が開催されています。私も久しぶりに31日の宵宮に行きました。この日は心地よい風が吹き、絶好の祭り日和でした。
八朔祭の「八」は八月の意味、「朔」は1日の意味。もともとは旧暦の8月1日に行われていたことが「八朔まつり」の名称の由来です。この八朔祭りは約300年前の江戸時代から続いている伝統行事で、現在は大石観光協会(野呂一平会長)が主催して行われ、8月31日が宵宮、9月1日が本日となります。
(書道家伊藤潤一さんによる書道パフォーマンス)
大石不動院は正式名を「石勝山金常寺不動院(せきしょうざんこんじょうじ ふどういん)」といい、お寺の概要については私のブログ「大石不動院の歴史・文化」に詳しく示しました。
このお寺は今から約1200年前の弘仁3年(812)に建立された真言宗のお寺で、弘法大師が開創したと伝えられています。
(夜店が人出でにぎわいました) (石野木御所太鼓奉納)
八朔祭は約300年前から続く伝統行事で、本堂では宵宮・本日とも護摩木を焚いて五穀豊穣、地域の安全、家内安全、交通安全、開運招福などが住職により加持祈願が行われます。宵宮には太鼓演奏やギター演奏、ダンス、書道家伊藤潤一氏による書道パフォーマンスなどがあり、またやぐらを囲んで盆踊りがありました。午後8時から花火大会があり、その後カラオケ大会などがありました。
本日には午前10時から本堂で読経、午後には大師堂の横に建設された「大日講」の落慶法要があります。
大石不動院の八朔祭は私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
スポーツの世界大会での日本人選手の活躍が報じられている。
卓球のチェコ・オープンでは張本智和選手が14歳61日で史上最年少優勝を果たした。またイギリスで行われているバドミントン世界選手権の女子シングルスで、奥原希望選手が(22)が日本選手としては40年ぶりの金メダルを獲得した。
またフランス・パリで行われているレスリング世界選手権でも日本人選手の活躍が報じられており、我が松阪市出身の土性沙羅選手も順当に勝ち進み、金メダルを獲得した。世界大会における日本選手の活躍は嬉しいが、地元出身の選手の活躍はさらにうれしい限りである。土性選手には風格を感じられた。
卓球のチェコ・オープンでは張本智和選手が14歳61日で史上最年少優勝を果たした。またイギリスで行われているバドミントン世界選手権の女子シングルスで、奥原希望選手が(22)が日本選手としては40年ぶりの金メダルを獲得した。
またフランス・パリで行われているレスリング世界選手権でも日本人選手の活躍が報じられており、我が松阪市出身の土性沙羅選手も順当に勝ち進み、金メダルを獲得した。世界大会における日本選手の活躍は嬉しいが、地元出身の選手の活躍はさらにうれしい限りである。土性選手には風格を感じられた。
松阪市飯南町向粥見に伝わる本郷かんこ踊りの、三重県の無形民俗文化財指定50周年を記念して、「本郷かんこ踊り展」が平成29年8月22日から松阪市外五曲町の松阪市文化財センターで始まりました。私も楽しみにしていましたので、今日は朝一番で見せていただきました。
本郷かんこ踊りは展示物の説明では、「本郷の氏神様である牛頭天王社の祇園祭に奉納されていたかんこ踊りで、現在は同町の医王寺で行われている。」とあります。踊り唄は「入り踊、宝踊、世の中踊、宮踊、綾の踊」など12曲という事です。
松阪市内の海岸沿いの猟師や松ヶ崎、曽原、笠松などのかんこ踊りは初盆供養の踊りですが、小阿坂、西野、本郷の踊りは豊年祈願や悪霊追放の神事踊りです。
西野と小阿坂は歌も踊りもよく似ています。今日展示物の歌本を見せていただきましたが、同じ神事踊りでも本郷は全く異なり、同じものはありませんでした。
(本郷かんこ踊り展の会場)
私も市内の各地のかんこ踊りはほとんど見せていただいていますが、本郷のかんこ踊りは見ていません。この踊りは平成15年8月に実施されたのを最後に中断されていて、このまま消えていくのは残念です。本郷の地元の人の話ではここのかんこ踊りは大変美しい踊りだという事です。この催しを契機としてぜひ復活してほしいと思います。
なお牛頭(ごず)天王はヤマトタケルノミコト。この催しは8月27日(日)まで行われます。なお本郷かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に載せてあります。
飯南町史(昭和59年3月1日発行)によると、本郷のかんこ踊りは次のように掲載されています。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
本郷羯鼓踊り(昭和42年2月10日三重県無形文化財指定)
飯南郡大字向粥見が多気郡向粥見村であったころ、氏神である牛頭天(ごず)王社境内において、古来より毎年旧暦6月14日、祇園祭りを行い、同時に羯鼓踊りを奉仕した。
踊り子は12名、中踊りは多数の氏子青年男子にて奉仕した。
途中、一時期中止のやむなきに至ったが、たまたまそのとき疫病流行し、多数の男子が死したことにより、踊り子を8名にして、再び羯鼓踊りを実施した。
かくして、この村の氏子の数減じて3人に至るまでは、踊りを中止せざることを誓い、爾後毎年旧6月7日羯鼓を出庫し、同日より復習、同14日の祇園祭の当日、夕方より子踊りを盛大に執行することになった。
爾来星移り物変わりて、氏神牛頭天王社は八雲神社と改称され、明治41年には村内各社を八雲八柱神社へ合祀、粥見神社と単称された。
かくして合社後、またまた一時中絶したが、大正2、3年のころ、粥見神社境内において、以前(以後?)羯鼓踊りを執行せし各字より順次毎年交替にて子踊りを執行することになり、まず本郷組より開始することになった。
しかしながら経費、その他の都合により、中止のやむなきに至ったため、以後本郷組において毎年8月17日、医王寺にて実施することになった。
踊りの種類は・宝踊 ・入踊 ・御宮踊 ・姫子踊 ・世中踊 ・花踊 ・御伊勢踊 ・御寺踊 ・商人踊 ・綾の踊 ・御多賀踊 ・鷗踊
踊り子の服装は紺のハッピを着、脚絆・白足袋・草鞋を履く。ハッピには大ホラ貝を染め抜き、造花(桜花)を背に負い、これに神社名の幟をとりつけ、胸に羯鼓をくくりつけ歌に合わせて踊る。
本郷かんこ踊りは展示物の説明では、「本郷の氏神様である牛頭天王社の祇園祭に奉納されていたかんこ踊りで、現在は同町の医王寺で行われている。」とあります。踊り唄は「入り踊、宝踊、世の中踊、宮踊、綾の踊」など12曲という事です。
松阪市内の海岸沿いの猟師や松ヶ崎、曽原、笠松などのかんこ踊りは初盆供養の踊りですが、小阿坂、西野、本郷の踊りは豊年祈願や悪霊追放の神事踊りです。
西野と小阿坂は歌も踊りもよく似ています。今日展示物の歌本を見せていただきましたが、同じ神事踊りでも本郷は全く異なり、同じものはありませんでした。
(本郷かんこ踊り展の会場)
私も市内の各地のかんこ踊りはほとんど見せていただいていますが、本郷のかんこ踊りは見ていません。この踊りは平成15年8月に実施されたのを最後に中断されていて、このまま消えていくのは残念です。本郷の地元の人の話ではここのかんこ踊りは大変美しい踊りだという事です。この催しを契機としてぜひ復活してほしいと思います。
なお牛頭(ごず)天王はヤマトタケルノミコト。この催しは8月27日(日)まで行われます。なお本郷かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に載せてあります。
飯南町史(昭和59年3月1日発行)によると、本郷のかんこ踊りは次のように掲載されています。
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本郷羯鼓踊り(昭和42年2月10日三重県無形文化財指定)
飯南郡大字向粥見が多気郡向粥見村であったころ、氏神である牛頭天(ごず)王社境内において、古来より毎年旧暦6月14日、祇園祭りを行い、同時に羯鼓踊りを奉仕した。
踊り子は12名、中踊りは多数の氏子青年男子にて奉仕した。
途中、一時期中止のやむなきに至ったが、たまたまそのとき疫病流行し、多数の男子が死したことにより、踊り子を8名にして、再び羯鼓踊りを実施した。
かくして、この村の氏子の数減じて3人に至るまでは、踊りを中止せざることを誓い、爾後毎年旧6月7日羯鼓を出庫し、同日より復習、同14日の祇園祭の当日、夕方より子踊りを盛大に執行することになった。
爾来星移り物変わりて、氏神牛頭天王社は八雲神社と改称され、明治41年には村内各社を八雲八柱神社へ合祀、粥見神社と単称された。
かくして合社後、またまた一時中絶したが、大正2、3年のころ、粥見神社境内において、以前(以後?)羯鼓踊りを執行せし各字より順次毎年交替にて子踊りを執行することになり、まず本郷組より開始することになった。
しかしながら経費、その他の都合により、中止のやむなきに至ったため、以後本郷組において毎年8月17日、医王寺にて実施することになった。
踊りの種類は・宝踊 ・入踊 ・御宮踊 ・姫子踊 ・世中踊 ・花踊 ・御伊勢踊 ・御寺踊 ・商人踊 ・綾の踊 ・御多賀踊 ・鷗踊
踊り子の服装は紺のハッピを着、脚絆・白足袋・草鞋を履く。ハッピには大ホラ貝を染め抜き、造花(桜花)を背に負い、これに神社名の幟をとりつけ、胸に羯鼓をくくりつけ歌に合わせて踊る。
(12期の教室の様子)
松尾公民館の「中・高齢者パソコン教室」の13期講座を9月から開講します。この講座は中高齢者の初心者を対象として開くもので、松阪市民であれば誰でも参加できます。50歳~80歳くらいの人が中心ですが、若い人も参加されます。
「先週習ったこと、すっかり忘れた。もう一回教えて」など、みんなでガヤガヤ言いながら、「ゆっくり、楽しく」をもつとうに、スイッチの入れ方から始めます。
◆講習日 平成29年9月12日(火)より (約10ヶ月間)
毎週火曜日 午後7時~9時まで
◆場 所 松尾市民センター (松阪市丹生寺町605)
◆内 容 ワード(案内状の作成など)、エクセル(名簿、表計算)など
◆対象者 中・高齢者の初心者
◆定 員 30名程度(定員になり次第しめ切りますので、早めに申し込んで下さい)
◆講師陣 川口 保、中川 幸博、木村 晴司、樋口喜一郎、坂内 八生、坂内美千代
◆会 費 年間2000円程度
◆準備物 パソコンは市民センターにもありますが、自宅にある人はご持参下さい。
メモ用のノート、ファイルは主催者側で用意します。
◆申し込み 松尾市民センター(58-2648)へ8月25日までに。
氏名、住所、年齢、電話、パソコンの有無、経験の有無を示して下さい。
川口保まで申込んでもらっても結構です。(090-8738-7959)
三重県松阪市曽原町に古くから伝わる「曽原かんこ踊り」が8月14日から15日の未明にかけて、同町の法性寺と西光寺や地域一帯で行われました。この踊りは先祖の供養や五穀豊穣を祈って毎年この日に行われるもので、曽原かんこ踊り保存会(瀬古一彰会長)が中心となって伝承されています。
曽原かんこ踊りは今から約260年前、法性寺建立に当たって農民たちの要望で始まったとされる盂蘭盆(うらぼん)踊りといわれています。平成18年(2006)に一度中断しましたが翌年に復活して今日にいたっています。
現存する最古本に記載されている年号は享和元年(1801)で、28曲の歌が掲載されています。また大正時代の天白郷土教育資料では24曲、現在使用中音頭本には20曲が掲載されています。
平成10年に松阪市無形民俗文化財に指定されました。
踊り手は小学校5年生から50歳代くらいまでで、4人1組で10組40人が踊ります。踊り手の頭にはキジの羽を表すかぶりものを着け、紺木綿の衣装に脚絆を巻き、1番手は紺足袋にわらじ履きで、2番手以降は素足で踊ります。ここの踊りの特徴は胸の太鼓を鳴らしながら、ゆったりとした独特の足さばきを見せます。
午後5時に祭りがスタートし、まず1番手が法性寺で踊ったあと同町内の西光寺へ場所を移し、この寺の境内で踊ります。そして再び法性寺へ場所を移し、2番、3番と踊り手が変わり、15日の午前1時頃まで踊ります。
曽原かんこ踊り保存会の瀬古会長さんからいろいろな資料をいただきました。そのうちの1つ明治安田文化財団10周年記念誌に掲載された「風流 曽原かんこ踊り」の内容を原文のまま写します。三雲町が松阪市と合併する前の記事です。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「風流 曽原かんこ踊り」
◆継承してきた行事と特色
三重県一志郡三雲町曽原に伝わっている「かんこ踊り」。風流の太鼓踊りで「盂蘭盆踊」とも呼ばれ、お盆に一年間に亡くなった人の初盆と祖先の供養のために踊られている。
紺色上下の衣装を身にまとい、頭に雉の羽でつくられた鳥毛甲をつけて(四人一組)、カンコと通称する締太鼓を胸に吊り下げ、供養、豊年、歴史などを表現した唄をもとに、音頭と笛に合わせて踊る。
◆起源と沿革
今から約二六〇年前に、真宗高田派本山専修寺(三重県津市一身田町)の末寺として、ここ三雲町曽原に法性寺が建立された。これを記念し、お盆の行事として死者の供養と村の安泰を祈って盂蘭盆踊(かんこ踊り)が始められたという。
踊りの内容は、盂蘭盆経のお経に説かれている、餓鬼道に堕ちて苦しんでいたお釈迦様の十大弟子の一人である日蓮尊者の亡き母親が、お念仏によって救われて極楽浄土に生まれさせていただいた縁起にあやかり、初盆を迎えた亡き人がお念仏によって救われていく喜びを、身も心も歓喜踊躍して、太鼓を打ち鳴らし、“仏法ひろまれ、世の中安泰なれ“と歌い踊りあげるもの。
◆継承活動の経緯と状況
当地には古くから伝わり現在も行われている行事として、八月十四日の法性寺「かんこ踊り」、八月十八日の西光寺「観音手踊」、正月元旦の天白神社「獅子舞」がある。江戸末期ごろから明治時代にかけては若者組という組織によって伝承されていたが、大正時代に「誠友会」と改名して存在が続けられていた。
今次大戦より昭和十六年(1941)から二十三年までの数年間、一時中断を余儀なくされていたが、昭和二十四年(1949)に復活した。その翌々年の二十六年に「盂蘭盆踊り保存会」が結成され、昭和五十三年(1978)からは会員減少対策として小学四年生より参加させるようにした。平成十年五月、『曽原かんこ踊』は三雲町無形文化財に指定され、保存会組織の名も「曽原獅子舞・かん子踊保存会」と改められた。
◆定例行事の開催状況
毎年八月十四日に開催する。夕方五時より、小学五年生(一番打)の踊り子たちが法性寺境内で三曲踊り、つぎに隣寺の西光寺境内へ移って三曲踊り、再び法性寺境内に戻り三曲踊って一番打ちは終わる。以降小学六年、中学生、高校生、大人の順で踊る。団扇踊りの小学生の女の子たちが、団扇を持って浴衣姿で踊り子の回りを踊る。
踊り唄は20曲あり、一曲三〇分から一時間くらいで交替し、翌日午前三時ごろまで踊り続ける。
◆後継者の育成と今後
子どもたちも喜んで積極的に参加している。
初参加の小学四年生を対象に、大太鼓の叩き方を先ず教える。五年生より三曲くらいづつ踊り方を教えてゆく。
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曽原かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
曽原かんこ踊りは今から約260年前、法性寺建立に当たって農民たちの要望で始まったとされる盂蘭盆(うらぼん)踊りといわれています。平成18年(2006)に一度中断しましたが翌年に復活して今日にいたっています。
現存する最古本に記載されている年号は享和元年(1801)で、28曲の歌が掲載されています。また大正時代の天白郷土教育資料では24曲、現在使用中音頭本には20曲が掲載されています。
平成10年に松阪市無形民俗文化財に指定されました。
踊り手は小学校5年生から50歳代くらいまでで、4人1組で10組40人が踊ります。踊り手の頭にはキジの羽を表すかぶりものを着け、紺木綿の衣装に脚絆を巻き、1番手は紺足袋にわらじ履きで、2番手以降は素足で踊ります。ここの踊りの特徴は胸の太鼓を鳴らしながら、ゆったりとした独特の足さばきを見せます。
午後5時に祭りがスタートし、まず1番手が法性寺で踊ったあと同町内の西光寺へ場所を移し、この寺の境内で踊ります。そして再び法性寺へ場所を移し、2番、3番と踊り手が変わり、15日の午前1時頃まで踊ります。
曽原かんこ踊り保存会の瀬古会長さんからいろいろな資料をいただきました。そのうちの1つ明治安田文化財団10周年記念誌に掲載された「風流 曽原かんこ踊り」の内容を原文のまま写します。三雲町が松阪市と合併する前の記事です。
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「風流 曽原かんこ踊り」
◆継承してきた行事と特色
三重県一志郡三雲町曽原に伝わっている「かんこ踊り」。風流の太鼓踊りで「盂蘭盆踊」とも呼ばれ、お盆に一年間に亡くなった人の初盆と祖先の供養のために踊られている。
紺色上下の衣装を身にまとい、頭に雉の羽でつくられた鳥毛甲をつけて(四人一組)、カンコと通称する締太鼓を胸に吊り下げ、供養、豊年、歴史などを表現した唄をもとに、音頭と笛に合わせて踊る。
◆起源と沿革
今から約二六〇年前に、真宗高田派本山専修寺(三重県津市一身田町)の末寺として、ここ三雲町曽原に法性寺が建立された。これを記念し、お盆の行事として死者の供養と村の安泰を祈って盂蘭盆踊(かんこ踊り)が始められたという。
踊りの内容は、盂蘭盆経のお経に説かれている、餓鬼道に堕ちて苦しんでいたお釈迦様の十大弟子の一人である日蓮尊者の亡き母親が、お念仏によって救われて極楽浄土に生まれさせていただいた縁起にあやかり、初盆を迎えた亡き人がお念仏によって救われていく喜びを、身も心も歓喜踊躍して、太鼓を打ち鳴らし、“仏法ひろまれ、世の中安泰なれ“と歌い踊りあげるもの。
◆継承活動の経緯と状況
当地には古くから伝わり現在も行われている行事として、八月十四日の法性寺「かんこ踊り」、八月十八日の西光寺「観音手踊」、正月元旦の天白神社「獅子舞」がある。江戸末期ごろから明治時代にかけては若者組という組織によって伝承されていたが、大正時代に「誠友会」と改名して存在が続けられていた。
今次大戦より昭和十六年(1941)から二十三年までの数年間、一時中断を余儀なくされていたが、昭和二十四年(1949)に復活した。その翌々年の二十六年に「盂蘭盆踊り保存会」が結成され、昭和五十三年(1978)からは会員減少対策として小学四年生より参加させるようにした。平成十年五月、『曽原かんこ踊』は三雲町無形文化財に指定され、保存会組織の名も「曽原獅子舞・かん子踊保存会」と改められた。
◆定例行事の開催状況
毎年八月十四日に開催する。夕方五時より、小学五年生(一番打)の踊り子たちが法性寺境内で三曲踊り、つぎに隣寺の西光寺境内へ移って三曲踊り、再び法性寺境内に戻り三曲踊って一番打ちは終わる。以降小学六年、中学生、高校生、大人の順で踊る。団扇踊りの小学生の女の子たちが、団扇を持って浴衣姿で踊り子の回りを踊る。
踊り唄は20曲あり、一曲三〇分から一時間くらいで交替し、翌日午前三時ごろまで踊り続ける。
◆後継者の育成と今後
子どもたちも喜んで積極的に参加している。
初参加の小学四年生を対象に、大太鼓の叩き方を先ず教える。五年生より三曲くらいづつ踊り方を教えてゆく。
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曽原かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
「盆の供養と村の安全を祈る」松阪市笠松町に古くから伝わる「笠松かんこ踊り」が、同町内の松養寺、海雲寺及び町内一帯で、8月14日に行われました。笠松町は旧三雲町の伊勢湾の海岸線に近い農村地帯で、笠松かんこ踊りの起源は今から300年ほど前と言われています。戦中・戦後は長く中断していましたが、昭和54年に「笠松かんこ踊り保存会」結成され、踊りが復活しました。
午後5時踊りがスタートします。「赤四手(あかしで)」と呼ばれる約6mの孟宗竹の上に5色の紙を付けた竹棒を先頭に、1番組が太鼓をならしながら在所廻りをします。約1時間廻ったあと松養寺に入り境内で踊ります。音頭は地区の男衆が掛け合いながら歌います。午後8時頃場所を海雲寺に移し、ここで6番組まで踊ります。
踊りの最後には「シデミジャキ」と呼ばれる儀式が行われます。2本の赤四手が倒され、十字に組まれ、見学者は「白四手」と呼ばれる先に白色の幣を付けた細竹で赤四手を叩き、邪気を祓います。
笠松かんこ踊りは、現在松阪市内に残る8つのかんこ踊りの1つで、平成10年に松阪市の無形民俗文化財に指定されています。私は本郷のかんこ踊りを除く全てのかんこ踊りを見せていただきましたが、笠松のかんこ踊りはたくさんの地区の人々が来場し、盛大に行われていました。
取材に協力していただいた笠松かんこ踊り保存会の松井会長を始め、地区の皆さんありがとうございました。
笠松かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
午後5時踊りがスタートします。「赤四手(あかしで)」と呼ばれる約6mの孟宗竹の上に5色の紙を付けた竹棒を先頭に、1番組が太鼓をならしながら在所廻りをします。約1時間廻ったあと松養寺に入り境内で踊ります。音頭は地区の男衆が掛け合いながら歌います。午後8時頃場所を海雲寺に移し、ここで6番組まで踊ります。
踊りの最後には「シデミジャキ」と呼ばれる儀式が行われます。2本の赤四手が倒され、十字に組まれ、見学者は「白四手」と呼ばれる先に白色の幣を付けた細竹で赤四手を叩き、邪気を祓います。
笠松かんこ踊りは、現在松阪市内に残る8つのかんこ踊りの1つで、平成10年に松阪市の無形民俗文化財に指定されています。私は本郷のかんこ踊りを除く全てのかんこ踊りを見せていただきましたが、笠松のかんこ踊りはたくさんの地区の人々が来場し、盛大に行われていました。
取材に協力していただいた笠松かんこ踊り保存会の松井会長を始め、地区の皆さんありがとうございました。
笠松かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
松阪市西野町に古くから伝わる郷土芸能「西野子踊り」が平成29年8月12日(土)、西野公民館前広場で行われました。西野子踊りは西野夏祭りの第1部として行われるもので、西野夏祭り実行委員会が主催し、西野自治会(錦洋明会長)、西野子踊り保存会(川口保会長)が中心となって、毎年盆前の土曜日に行われます。
この日は踊りの主人公の子ども達など踊り子たちが次々と会場に集結し、踊りを見守る地域の人たち、親戚の人たち、一般市民の皆さん、市外からも見学者が訪れました。また多くの来賓の皆様も来ていただきました。
踊り子ははっぴにハチマキ、たすき姿に、采(ざい)持ちのお母さんたちは浴衣姿に着替え、踊りは午後4時から始まりました。途中2回の休憩を取りながら8曲踊りました。踊りの輪の一番外側で采(ざい)を持って踊る子ども会のお母さん方に、浴衣を揃えて、浴衣を着ていただきました。
この日は真夏の日差しが照り付ける暑い日でしたが、踊り子の皆さんは汗だくになりながら元気に踊りました。
(暑い中子どもたちも頑張りました)
西野の子踊りは「かんこ踊り」とも呼ばれ、和歌山県日高郡日高町にある安珍清姫悲恋物語で知られる道成寺の流れをくむ郷土芸能です。子踊りの「鐘巻踊」のうたの中にも安珍清姫悲恋物語が歌われています。
現在松阪市内では西野を含めて8つの地区でかんこ踊りが行われています。昔は多くの地区でかんこ踊りが行われていましたが、時代の流れと共に消えていき、現在8地区でしか残っていません。このため大変貴重な郷土芸能と言えます。8つの地区の内、猟師・松崎浦・曽原・笠松・新屋庄の5地区は初盆供養の仏事踊りです。西野と小阿坂、向粥見本郷(中断中)は雨乞いや豊年祈願の神事踊りです。
戦後間もない昭和20年代から中断し、約30年後の昭和54年8月に西野子踊り保存会(安濃田助生会長)が結成され、復活しました。この長期の中断が大きく、最近太鼓を踊れる人、歌を歌える人が少なくなってきました。
このため平成20年6月から「かんこ塾(錦洋明塾長)」を開設して大人を対象に太鼓の練習を行っています。また昨年のから歌の養成講座を開き歌の練習もしてきました。
かんこ塾は7月から練習を始め、子ども、大人を含めた総合練習は7月の末から8月にかけて行います。
(大学生・高校生・大人たちも頑張りました) (竹上市長や山本議長も踊っていただきました)
「子踊り」と呼ばれるように、踊りの中心は小学生を中心とした子ども達です。かつては家持ちの長男しか踊れなかったのですが、最近は子供の人数が少なくなってきたので、次男、三男や女の子も踊りの輪に加わり、また未就学の幼児、中学生や高校生、大学生、大人の人たちも多く踊りに加わっています。
踊りの輪の中央には大太鼓、その外側に大人の踊り子、さらにその外側に子ども達の踊り子が輪をつくります。踊り子は法被姿にはちまきをして、履物は雪駄。首から太鼓を下げ、バチで太鼓を打ちながら踊ります。一番外側には子ども達の母親や地区の大人たちが鳥追笠をかぶり、竹の先に紙の房のついた「采(ざい)」をもって踊ります。
歌に合わせて笛を吹き、かつては法螺貝が吹かれましたが、今はありません。
歌は「世古入」、「神楽踊」、「世ノ中踊」、「小原木踊」、「飛田踊」、「鐘鋳踊」、「鐘巻踊」、「綾踊」、「忍踊」、「長崎踊」、「神役踊」、「御寺踊」、「雉子突踊」、「陣立踊」、「鹿狩踊」、「唐人踊」、「花見踊」と全部で17あります。この内現在は「世古入」、「神楽踊」、「世ノ中踊」、「小原木踊」、「飛田踊」、「鐘鋳踊」、「陣立踊」、「花見踊」の8曲が踊られています。
(最後に集合写真)
開催時期は、旧来は8月20日でありましたが、現在は盆直前の土曜日に行われ、開催場所は、以前は町内の西林寺と宝福寺で交互に行われていましたが、現在は西野公民館前広場で行われます。
西野の場合「子踊り」と称しますが、鞨鼓を持って踊ることから他地区の「かんこ踊り」と変わりません。他地区では「かんこ踊り」と称しているのに、西野だけなぜ「子踊り」と称するのかは分かりません。
またこの踊りがいつ頃から始まったかは分かりません。歌の中に唯一出てくる年号が、鐘鋳踊の中の善光寺の鰐口に書かれた年号「元文四年五月三日」で、この元文4年(1739)は江戸時代(1603~1867)の丁度中頃になり、これ以降にこの歌が作られたことになります。
西野子踊りと小阿坂のかんこ踊りは共通するところが多く、西野17踊りに対して小阿坂20踊りであるが、多少文句は違っていても14踊りも共通の踊りがあり、節もよく似ています。和歌山県の道成寺の案内板に西野と小阿坂の踊りが記されていました。また曽原のかんこ踊りや笠松のかんこ踊りは初盆供養踊りでありますが、西野とよく似た歌があります。
この日来賓の方も多く来場していただきました。この日来ていただいた来賓の皆様は、
松阪市長 竹上真人 様
三重県議会議員 後藤健一 様
同 中瀬古初美様
松阪市議会議長 山本芳敬 様
松阪市議会議員 沖 和哉 様
同 橘 大介 様
松尾幼稚園園長 竹内茂夫 様
松阪警察署松尾警察官駐在所 畑 勝浩巡査部長様
小阿坂かんこ踊り保存会 会 長 小林千春 様
同 前会長 坂口秀夫(市議会議員)様
メッセージをいただいた方
衆議院議員 田村憲久 様
なお西野子踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
この日は踊りの主人公の子ども達など踊り子たちが次々と会場に集結し、踊りを見守る地域の人たち、親戚の人たち、一般市民の皆さん、市外からも見学者が訪れました。また多くの来賓の皆様も来ていただきました。
踊り子ははっぴにハチマキ、たすき姿に、采(ざい)持ちのお母さんたちは浴衣姿に着替え、踊りは午後4時から始まりました。途中2回の休憩を取りながら8曲踊りました。踊りの輪の一番外側で采(ざい)を持って踊る子ども会のお母さん方に、浴衣を揃えて、浴衣を着ていただきました。
この日は真夏の日差しが照り付ける暑い日でしたが、踊り子の皆さんは汗だくになりながら元気に踊りました。
(暑い中子どもたちも頑張りました)
西野の子踊りは「かんこ踊り」とも呼ばれ、和歌山県日高郡日高町にある安珍清姫悲恋物語で知られる道成寺の流れをくむ郷土芸能です。子踊りの「鐘巻踊」のうたの中にも安珍清姫悲恋物語が歌われています。
現在松阪市内では西野を含めて8つの地区でかんこ踊りが行われています。昔は多くの地区でかんこ踊りが行われていましたが、時代の流れと共に消えていき、現在8地区でしか残っていません。このため大変貴重な郷土芸能と言えます。8つの地区の内、猟師・松崎浦・曽原・笠松・新屋庄の5地区は初盆供養の仏事踊りです。西野と小阿坂、向粥見本郷(中断中)は雨乞いや豊年祈願の神事踊りです。
戦後間もない昭和20年代から中断し、約30年後の昭和54年8月に西野子踊り保存会(安濃田助生会長)が結成され、復活しました。この長期の中断が大きく、最近太鼓を踊れる人、歌を歌える人が少なくなってきました。
このため平成20年6月から「かんこ塾(錦洋明塾長)」を開設して大人を対象に太鼓の練習を行っています。また昨年のから歌の養成講座を開き歌の練習もしてきました。
かんこ塾は7月から練習を始め、子ども、大人を含めた総合練習は7月の末から8月にかけて行います。
(大学生・高校生・大人たちも頑張りました) (竹上市長や山本議長も踊っていただきました)
「子踊り」と呼ばれるように、踊りの中心は小学生を中心とした子ども達です。かつては家持ちの長男しか踊れなかったのですが、最近は子供の人数が少なくなってきたので、次男、三男や女の子も踊りの輪に加わり、また未就学の幼児、中学生や高校生、大学生、大人の人たちも多く踊りに加わっています。
踊りの輪の中央には大太鼓、その外側に大人の踊り子、さらにその外側に子ども達の踊り子が輪をつくります。踊り子は法被姿にはちまきをして、履物は雪駄。首から太鼓を下げ、バチで太鼓を打ちながら踊ります。一番外側には子ども達の母親や地区の大人たちが鳥追笠をかぶり、竹の先に紙の房のついた「采(ざい)」をもって踊ります。
歌に合わせて笛を吹き、かつては法螺貝が吹かれましたが、今はありません。
歌は「世古入」、「神楽踊」、「世ノ中踊」、「小原木踊」、「飛田踊」、「鐘鋳踊」、「鐘巻踊」、「綾踊」、「忍踊」、「長崎踊」、「神役踊」、「御寺踊」、「雉子突踊」、「陣立踊」、「鹿狩踊」、「唐人踊」、「花見踊」と全部で17あります。この内現在は「世古入」、「神楽踊」、「世ノ中踊」、「小原木踊」、「飛田踊」、「鐘鋳踊」、「陣立踊」、「花見踊」の8曲が踊られています。
(最後に集合写真)
開催時期は、旧来は8月20日でありましたが、現在は盆直前の土曜日に行われ、開催場所は、以前は町内の西林寺と宝福寺で交互に行われていましたが、現在は西野公民館前広場で行われます。
西野の場合「子踊り」と称しますが、鞨鼓を持って踊ることから他地区の「かんこ踊り」と変わりません。他地区では「かんこ踊り」と称しているのに、西野だけなぜ「子踊り」と称するのかは分かりません。
またこの踊りがいつ頃から始まったかは分かりません。歌の中に唯一出てくる年号が、鐘鋳踊の中の善光寺の鰐口に書かれた年号「元文四年五月三日」で、この元文4年(1739)は江戸時代(1603~1867)の丁度中頃になり、これ以降にこの歌が作られたことになります。
西野子踊りと小阿坂のかんこ踊りは共通するところが多く、西野17踊りに対して小阿坂20踊りであるが、多少文句は違っていても14踊りも共通の踊りがあり、節もよく似ています。和歌山県の道成寺の案内板に西野と小阿坂の踊りが記されていました。また曽原のかんこ踊りや笠松のかんこ踊りは初盆供養踊りでありますが、西野とよく似た歌があります。
この日来賓の方も多く来場していただきました。この日来ていただいた来賓の皆様は、
松阪市長 竹上真人 様
三重県議会議員 後藤健一 様
同 中瀬古初美様
松阪市議会議長 山本芳敬 様
松阪市議会議員 沖 和哉 様
同 橘 大介 様
松尾幼稚園園長 竹内茂夫 様
松阪警察署松尾警察官駐在所 畑 勝浩巡査部長様
小阿坂かんこ踊り保存会 会 長 小林千春 様
同 前会長 坂口秀夫(市議会議員)様
メッセージをいただいた方
衆議院議員 田村憲久 様
なお西野子踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
8月9日から10日の早朝にかけて「岡寺さん」でおなじみの、松阪市中町の岡寺山継松寺で四萬六千日(しまんろくせんにち)が行われています。この日にお参りすると、四萬六千日分参拝したことと同じ功徳があると言われており、私も久しぶりにお参りしました。
岡寺山継松寺は3月に行われる初午大祭のお寺としても有名です。当寺の歴史がHPには次のように書かれています。
当山に伝わる『継松寺儀軌』によると、聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建しています。聖武天皇42歳の厄年の際に、ここのご本尊如意輪観世音菩薩を宮中にお奉りし祈願した後、再び当山に安置したことから厄除け観音としてこの地域の厄年の参拝者が多く訪れます。後に洪水によりお堂は流失しますがその際に海中よりご本尊を拾い上げた二見の漁師であった三津五郎右衛門正信が弁財天のお告げを聞いて出家し継松法師となりお寺を再建したことから継松寺と名付けられるようになりました。
また弘法大師空海が当山に逗留した折に本尊の両脇に不動尊と毘沙門天を造り安置したと伝えられています。
元は石津にありましたが、慶長17年(1612年)松阪城主古田重治により現在地に移されています。』
(境内で行われたあかりコンサート) (ミスなでしこ姫ゆかた選考会)
「四萬六千日」の行事は全国各地で行われている観世音菩薩の縁日のことで、「四万六千日」、「四萬六千日参り」とも表され、東京浅草・浅草寺の「あさがお市」や「ほうづき市」が有名です。
四萬六千という数字の由来は不明ですが、一升の米粒が四萬六千粒あるとされ、これを人間の一生にかけていると言われています。46000日を年数になおすと、約126年になり、この位無病息災で過ごせるようにと願った数字と伝えられています。
この日継松寺の山門前には竹灯ろうが並べられ、幻想的な雰囲気がかもし出されます。地元の友人の話しでは、この縁日は昔からあり、子どもの頃には多くの出店も出ていたという事です。寺の境内ではミズ・ネットワーク松阪(東村佳子代表)主催のあかりコンサートや浴衣ショーなどがあり、また継松寺の柏木文雄住職の講話もありました。
岡寺山継松寺
〒515-0083三重県松阪市中町1952
TEL 0598-21-0965
岡寺山継松寺は3月に行われる初午大祭のお寺としても有名です。当寺の歴史がHPには次のように書かれています。
当山に伝わる『継松寺儀軌』によると、聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建しています。聖武天皇42歳の厄年の際に、ここのご本尊如意輪観世音菩薩を宮中にお奉りし祈願した後、再び当山に安置したことから厄除け観音としてこの地域の厄年の参拝者が多く訪れます。後に洪水によりお堂は流失しますがその際に海中よりご本尊を拾い上げた二見の漁師であった三津五郎右衛門正信が弁財天のお告げを聞いて出家し継松法師となりお寺を再建したことから継松寺と名付けられるようになりました。
また弘法大師空海が当山に逗留した折に本尊の両脇に不動尊と毘沙門天を造り安置したと伝えられています。
元は石津にありましたが、慶長17年(1612年)松阪城主古田重治により現在地に移されています。』
(境内で行われたあかりコンサート) (ミスなでしこ姫ゆかた選考会)
「四萬六千日」の行事は全国各地で行われている観世音菩薩の縁日のことで、「四万六千日」、「四萬六千日参り」とも表され、東京浅草・浅草寺の「あさがお市」や「ほうづき市」が有名です。
四萬六千という数字の由来は不明ですが、一升の米粒が四萬六千粒あるとされ、これを人間の一生にかけていると言われています。46000日を年数になおすと、約126年になり、この位無病息災で過ごせるようにと願った数字と伝えられています。
この日継松寺の山門前には竹灯ろうが並べられ、幻想的な雰囲気がかもし出されます。地元の友人の話しでは、この縁日は昔からあり、子どもの頃には多くの出店も出ていたという事です。寺の境内ではミズ・ネットワーク松阪(東村佳子代表)主催のあかりコンサートや浴衣ショーなどがあり、また継松寺の柏木文雄住職の講話もありました。
岡寺山継松寺
〒515-0083三重県松阪市中町1952
TEL 0598-21-0965
2017年8月7日、松阪市星合町の波氐(はて)神社と鵲橋(かささぎばし)を中心として「鵲七夕まつり」が行われました。この祭りは松阪市立鵲小学校管内の小舟江町、笠松町、星合町、五主町地区で行われるもので、以前は鵲地区福祉会まつり実行委員会が主催していましたが、今は鵲地区七夕まつり実行委員会(福田孝志実行委員長)が主催して行っています。
この七夕祭りは、もともと星合地区(46戸)で昔から行われていました。文政年間(1818~1830)の群馬県の旅人の紀行文に、この鵲地区の七夕祭りを見たとの記述があるということから、百数十年以上の歴史がある事がわかります。平成16年までは星合地区だけで行われていましたが、同地区の子供たちが少なくなってきて祭りの存続が難しくなってきたため、平成17年から鵲地区全体の祭りとかたちを変えました。また平成18年からみこしが登場しました。
この祭りは、以前は午前中に行われていましたが、七夕だから夕方がよいのではということで、7年前(平成22年)から夕方行われることになりました。
波氐神社に集合した子供たちは、みこしの出発地点である東西の神社に分かれます。東は五主の綿積神社を出発し、途中岡田の菅原神社を経由します。また西は小舟江の八雲神社を出発し、笠松の八雲神社を経由して鵲橋にむかいます。
祭りの主人公の織姫、彦星は鵲小学校の6年生から選ばれます。今年の織姫は杉森琴春さん、彦星は磯部唯斗君です。波氐神社でお払いを受けた織姫は綿積神社から、彦星は八雲神社からみこしと共に出発します。そして夕暮れが近づく午後7時頃、みこしは星合町と笠松町の間を流れる夜泣川に架かる鵲橋に到着します。橋の両側に立った織姫と彦星は、川を渡れず途方にくれます。そこに鵲が飛んできて、橋を架け二人は再会することができたという話しです。鵲の織姫と彦星もめでたく鵲橋の上で会うことができました。
織姫の杉森琴春さん、彦星の磯部唯斗君は学校で、じゃんけんで決めたということです。織姫と彦星に扮した二人は鵲橋の上で少し照れ気味に再会すると、祭りはクライマックスを迎え、多くのカメラマンが盛んにシャッターを押していました。
この鵲橋のたもとの石碑に大伴家持の歌が書かれています。
『鵲の王多せ類はし耳おく霜乃志ろき越みれ盤夜曽更丹希流』
(鵲の わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける)
古くから伝わる祭りに、新しい形を織り込んで、地区を上げての祭りにされました。今日は地区内の多くの人たちがこの祭りに参加されていました。
私もこの祭りを8年前から見せていただいていますが、多くの人たちからいろいろな話しを聞かせていただきました。
話題になったのはこの地がなぜ「鵲」なのかと言うことです。私が仕事で韓国に行ったとき鵲をよく見ました。日本のカラスくらいの大きさの鳥で、いたるところで見かけました。日本ではカラスは縁起の悪い鳥ですが、鵲は羽根を広げると黒い羽根の中に扇の様に白い羽根が見え、韓国では大変縁起のよい鳥です。日本では九州の方にいるということです。
何も文献はありませんが、中国あるいは朝鮮から渡来した技能集団の人たちが、住みついたところではないかという説を、言われた方もみえました。
この祭りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
この七夕祭りは、もともと星合地区(46戸)で昔から行われていました。文政年間(1818~1830)の群馬県の旅人の紀行文に、この鵲地区の七夕祭りを見たとの記述があるということから、百数十年以上の歴史がある事がわかります。平成16年までは星合地区だけで行われていましたが、同地区の子供たちが少なくなってきて祭りの存続が難しくなってきたため、平成17年から鵲地区全体の祭りとかたちを変えました。また平成18年からみこしが登場しました。
この祭りは、以前は午前中に行われていましたが、七夕だから夕方がよいのではということで、7年前(平成22年)から夕方行われることになりました。
波氐神社に集合した子供たちは、みこしの出発地点である東西の神社に分かれます。東は五主の綿積神社を出発し、途中岡田の菅原神社を経由します。また西は小舟江の八雲神社を出発し、笠松の八雲神社を経由して鵲橋にむかいます。
祭りの主人公の織姫、彦星は鵲小学校の6年生から選ばれます。今年の織姫は杉森琴春さん、彦星は磯部唯斗君です。波氐神社でお払いを受けた織姫は綿積神社から、彦星は八雲神社からみこしと共に出発します。そして夕暮れが近づく午後7時頃、みこしは星合町と笠松町の間を流れる夜泣川に架かる鵲橋に到着します。橋の両側に立った織姫と彦星は、川を渡れず途方にくれます。そこに鵲が飛んできて、橋を架け二人は再会することができたという話しです。鵲の織姫と彦星もめでたく鵲橋の上で会うことができました。
織姫の杉森琴春さん、彦星の磯部唯斗君は学校で、じゃんけんで決めたということです。織姫と彦星に扮した二人は鵲橋の上で少し照れ気味に再会すると、祭りはクライマックスを迎え、多くのカメラマンが盛んにシャッターを押していました。
この鵲橋のたもとの石碑に大伴家持の歌が書かれています。
『鵲の王多せ類はし耳おく霜乃志ろき越みれ盤夜曽更丹希流』
(鵲の わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける)
古くから伝わる祭りに、新しい形を織り込んで、地区を上げての祭りにされました。今日は地区内の多くの人たちがこの祭りに参加されていました。
私もこの祭りを8年前から見せていただいていますが、多くの人たちからいろいろな話しを聞かせていただきました。
話題になったのはこの地がなぜ「鵲」なのかと言うことです。私が仕事で韓国に行ったとき鵲をよく見ました。日本のカラスくらいの大きさの鳥で、いたるところで見かけました。日本ではカラスは縁起の悪い鳥ですが、鵲は羽根を広げると黒い羽根の中に扇の様に白い羽根が見え、韓国では大変縁起のよい鳥です。日本では九州の方にいるということです。
何も文献はありませんが、中国あるいは朝鮮から渡来した技能集団の人たちが、住みついたところではないかという説を、言われた方もみえました。
この祭りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
最近大きな記録更新が続いている。
将棋界では期待の新人・中学生で14歳の藤井聡太四段が、神谷広志八段が30年前に記録した28連勝を抜いて29連勝を達成した。将棋という地味なジャンルに注目を集め、一大将棋ブームを起こした功績は大きい。
大相撲界では横綱白鵬が7月の名古屋場所で、これまで元大関魁皇が持っていた通算勝利数の1047を上回る1048勝を挙げ歴代単独1位となった。白鵬は今後どれだけ記録を伸ばしていけるか注目される。
そして昨日8月6日に東京ドームで行われた中日×巨人戦で、我が中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手が登板し、元近鉄の米田哲也氏の通算登板数を抜く950登板を果し、歴代単独トップとなった。ここ2年間はパットせず、もう岩瀬の時代は終わったと思っていたが、今年見事に甦ってこの記録を達成した。
米田氏を始め登板数上位の投手は先発完投型で、救援専門の岩瀬とは比べにくいところもあるが、いつ出番がきてもよいように、毎試合準備するのも大変だと思う。一見頼りなさそうな顔であるが、これだけの記録を積み重ねたのはすごい。
中日では新人京田選手の新人のヒット数の記録にも期待される。
将棋界では期待の新人・中学生で14歳の藤井聡太四段が、神谷広志八段が30年前に記録した28連勝を抜いて29連勝を達成した。将棋という地味なジャンルに注目を集め、一大将棋ブームを起こした功績は大きい。
大相撲界では横綱白鵬が7月の名古屋場所で、これまで元大関魁皇が持っていた通算勝利数の1047を上回る1048勝を挙げ歴代単独1位となった。白鵬は今後どれだけ記録を伸ばしていけるか注目される。
そして昨日8月6日に東京ドームで行われた中日×巨人戦で、我が中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手が登板し、元近鉄の米田哲也氏の通算登板数を抜く950登板を果し、歴代単独トップとなった。ここ2年間はパットせず、もう岩瀬の時代は終わったと思っていたが、今年見事に甦ってこの記録を達成した。
米田氏を始め登板数上位の投手は先発完投型で、救援専門の岩瀬とは比べにくいところもあるが、いつ出番がきてもよいように、毎試合準備するのも大変だと思う。一見頼りなさそうな顔であるが、これだけの記録を積み重ねたのはすごい。
中日では新人京田選手の新人のヒット数の記録にも期待される。
「笑顔にあえるこのまちで」をテーマとして、「第23回 嬉野おおきん祭り」が2017年8月5日に松阪市嬉野町の嬉野グランド前駐車場で開催されました。この催しは嬉野おおきん祭り実行委員会が主催し、松阪市・市教委・三重テレビが後援をして毎年この時期に開催されるもので、この日は心配された雨もなく絶好の祭り日和となりました。
この祭りは嬉野地区最大の祭りで、来場者は昨年の1万3千人を上回る1万5千人(主催者の推定)がつめかけました。
(祭り会場には大勢の市民が詰めかけました)
祭り会場や近隣のふるさと会館では子ども向けの、子どもシネマ「ペット」の上映や、お面で変身コーナー、ドリームメイトと遊ぼうなどのプログラムや、屋台ではふれあい動物園や木工教室がありました。
午後5時過ぎには子ども神輿が繰り出し、仮設のスペシャルステージではダンスやギターの弾き語り、ポケットピエロの演技がありました。
開場内には多くの屋台が並び、人気の店には長い列ができていました。また松阪北部商工会主催の抽選会も人気がありました。
午後8時からは盆踊り、午後9時からは花火があり、祭りのフィナーレを飾りました。
嬉野おおきん祭りは私のブログ「松阪市の祭り」に記載してあります。
この祭りは嬉野地区最大の祭りで、来場者は昨年の1万3千人を上回る1万5千人(主催者の推定)がつめかけました。
(祭り会場には大勢の市民が詰めかけました)
祭り会場や近隣のふるさと会館では子ども向けの、子どもシネマ「ペット」の上映や、お面で変身コーナー、ドリームメイトと遊ぼうなどのプログラムや、屋台ではふれあい動物園や木工教室がありました。
午後5時過ぎには子ども神輿が繰り出し、仮設のスペシャルステージではダンスやギターの弾き語り、ポケットピエロの演技がありました。
開場内には多くの屋台が並び、人気の店には長い列ができていました。また松阪北部商工会主催の抽選会も人気がありました。
午後8時からは盆踊り、午後9時からは花火があり、祭りのフィナーレを飾りました。
嬉野おおきん祭りは私のブログ「松阪市の祭り」に記載してあります。
松尾納涼大会が8月5日、松尾小学校体育館前の広場で行われました。この催しは松尾まちづくり協議会(村田善清会長)が主催して毎年この時期に行われているもので、大勢の来場者で賑わいました。
いつもは松尾小学校の運動場で行われますが、この日は天候が心配されたため、体育館前に場所を移して行われました。レコード踊りや、しょんがい踊りには子供たちも加わって盛大な踊りの輪ができました。
最後の抽選会では大きな歓声が上がっていました。
いつもは松尾小学校の運動場で行われますが、この日は天候が心配されたため、体育館前に場所を移して行われました。レコード踊りや、しょんがい踊りには子供たちも加わって盛大な踊りの輪ができました。
最後の抽選会では大きな歓声が上がっていました。
西野子踊りの総合練習が8月2日から始まりました。西野子踊りは「かんこ踊り」とも呼ばれ、松阪市内に残る数少ないかんこ踊りの1つです。毎年盆前の土曜日に行われ、今年は8月12日(土)に開催されます。
練習は7月には「かんこ塾(錦洋明 塾長)」として、大人の太鼓の練習があり、8月に入ってからは、踊りの主人公である子ども達を中心として、子ども達のお母さん・お父さん、また大人の踊り子のも加わった総合練習があります。
練習は8月2日から1日おきに10日まで、午後7時30分~9時まで行われます。
西野子踊りは西野夏祭りの中で次の日程で行われます。
西野納涼夏祭り
開催日 平成28年8月12日(土)
雨天の場合は管内で実施、台風の場合は中止
場 所 西野公民館前広場(松阪市西野町847)
日 程 子踊り 午後4時00分~午後6時00分
(途中2回休憩)
盆踊り 午後7時00分~午後8時00分
菓子まき(子供のみ) 午後8時00分~
抽選会 午後8時30分~
(抽選券は当日盆踊り終了後に全員に配布します)
主 催 西野夏祭り実行委員会
協 力 西野自治会、実行組合長、消防団、老人会、子供会
西野子踊り保存会
問合せ 子踊り等に関する問い合わせは川口保まで(090-8738-7959)
練習は7月には「かんこ塾(錦洋明 塾長)」として、大人の太鼓の練習があり、8月に入ってからは、踊りの主人公である子ども達を中心として、子ども達のお母さん・お父さん、また大人の踊り子のも加わった総合練習があります。
練習は8月2日から1日おきに10日まで、午後7時30分~9時まで行われます。
西野子踊りは西野夏祭りの中で次の日程で行われます。
西野納涼夏祭り
開催日 平成28年8月12日(土)
雨天の場合は管内で実施、台風の場合は中止
場 所 西野公民館前広場(松阪市西野町847)
日 程 子踊り 午後4時00分~午後6時00分
(途中2回休憩)
盆踊り 午後7時00分~午後8時00分
菓子まき(子供のみ) 午後8時00分~
抽選会 午後8時30分~
(抽選券は当日盆踊り終了後に全員に配布します)
主 催 西野夏祭り実行委員会
協 力 西野自治会、実行組合長、消防団、老人会、子供会
西野子踊り保存会
問合せ 子踊り等に関する問い合わせは川口保まで(090-8738-7959)
「市議会議員」という肩の荷を下し、少し気楽になった身分でこのブログを続けていきたいと思います。
これまでの私のブログは少し硬いこともあったかと思いますが、少し柔らかく、「遊び心」を大事にしながら、時には馬鹿馬鹿しいことも交えて書いていきたいと思います。
また竹上市政や、市議会議員さんの活躍を外から眺めていきたいと思います。
これまでの私のブログは少し硬いこともあったかと思いますが、少し柔らかく、「遊び心」を大事にしながら、時には馬鹿馬鹿しいことも交えて書いていきたいと思います。
また竹上市政や、市議会議員さんの活躍を外から眺めていきたいと思います。