川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

はにわ館冬季企画展「天花寺山の遺跡」始まる

2015-01-31 11:47:28 | 日記
 松阪市外五曲町の松阪市文化財センター/はにわ館で、今日1月31日から平成26年度 はにわ館冬季企画展「天花寺山の遺跡」が始まりました。天花寺山は雲出川と中村川にはさまれた標高40~50mのなだらかな丘陵地で、松阪市の中でも有数の重要遺跡が集中する地域です。

 天花寺山で発見された最も古いものは有茎尖頭器(ゆうけいせんとうき)と呼ばれる槍の先で縄文時代草創期(約1万2先年前)にまでさかのぼるということです。その後この山は集落やお墓、山城など、多種多様な用途に使われました。

 弥生時代(2世紀)頃には住居跡が見られ、古墳時代にはほぼ全域が古墳になります。7世紀から8世紀にかけて、山の麓に天花寺廃寺が造営され、山の上には役所とみられる施設があったと推定され、この頃の住居跡が確認されます。17世紀には近世天花寺が山の上に創建され、18世紀の境内からは礫石教塚も発見されています。
 この企画展は3月22日まで開催されます。
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第4回松阪茶グランプリ大会開催される

2015-01-25 21:41:19 | 日記
 松阪茶グランプリ大会が1月25日、松阪市嬉野町の松阪市嬉野中央研修センターで開催され、水谷議長と共に来賓として出席させていただきました。この催しは松阪市茶業組合(村瀬成郎組合長 市内20工場)と松阪市が主催して行われたもので、今年が4回目です。

 村瀬会長は挨拶の中で、お茶はガンや生活習慣病、虫歯などの予防に効果があり、「百薬の長」とも言われており、松阪市茶業組合は松阪市飯南町粥見の茶業伝承館を拠点としてお茶の淹れ方や手揉みの講習などを行い、深蒸し煎茶をおいしく飲んでもらうために活動をしているということです。
 また挨拶に立った、松阪市産業経済部農林水産担当理事は、市内には360haの茶畑があり、松阪市の深蒸し煎茶は関西茶業品評会でも毎年高い評価を受けていると述べました。

 近年、ペットボトルのお茶が普及し、本来の急須で入れるお茶が年々減少し、家に急須がない家庭も出てきているといわれています。この催しは子どもたちがお茶の知識やおいしいお茶の淹れ方を学び、地場産業や歴史への感心を高め、「茶育」の推進を図っていこうとするものです。

 この日会場には松阪市内の小学3年~6年生の親子60組120人が参加して、筆記テストやお茶の淹れ方テスト、利き茶テストなどを競いました。

 後日グランプリ結果の報告がありました。

 第4回松阪茶グランプリ結果

 1位 徳和小学校 6年生 鈴木 佑菜(すずき ゆな)

 2位 豊地小学校 4年生 今出  華(いまで はな)

 3位 豊地小学校 6年生 今出 優成(いまで ゆうせい)

 4位 松尾小学校 5年生 松本 笑美(まつもと えみ)

 5位 第五小学校 3年生 柳生 北斗(やぎゅう ほくと)
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歴史民俗資料館企画展「続藩札と羽書」始まる

2015-01-25 11:32:20 | 日記
 松阪市殿町の松阪公園内にある松阪市立歴史民俗資料館で企画展「続藩札と羽書」が、今日1月25日から始まりました。藩札は江戸時代に各藩が発行した地域紙幣で、本企画展では藩札の他に私札と呼ばれる個人が発行したものもあり、日本最古の紙幣といわれる「山田羽書」や和歌山藩札(松坂藩札)など貴重な資料が展示してあります。

 藩札1枚は1文に値し、64枚で1両にとなります。この地方の藩札には深野和紙が用いられました。
 この日歴史民俗資料館には、広島県から来たといわれる家族連れも、興味深く展示を見られていました。この企画展は3月8日まで(休館は休日を除く月曜日)開催されます。

  松阪市立歴史民俗資料館
   三重県松阪市殿町1539番地(松阪公園内)
   電話 0598-23-2381
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第20回西黒部町民凧揚げ大会開催される

2015-01-24 19:16:40 | 日記
         
                      (よく上がった高須老人会の凧)

 青空が広がり、ほどよい風が吹く1月24日、第20回西黒部町民凧揚げ大会が、松阪市高須町の櫛田川河川敷のモーターグライダー滑空場で開催されました。
 この催しは西黒部公民館(小川祐治館長)を中心とする西黒部町民凧揚げ大会実行委員会(小薮助次右衛門委員長)が主催して開催されました。

 
     (挨拶する小薮助次右衛門委員長)            (西黒部小学校の連凧)

 開会セレモニーのあと、子ども達の凧揚げがあり、自分で作った凧を思い思いに上げていました。中には西黒部幼稚園や西黒部小学校の子どもたちが作った連凧や、買い物袋にひもをつけて上げている子もいました。審査はデザインと上がり具合で審査されました。

 
         (子どもたちの凧揚げ)             (中には買い物袋の凧もありました)
 
 子ども凧揚げの後、部門別に分かれての競技がスタートしました。凧はそれぞれの個人やチームが手塩にかけて作ったもので、よく揚がるようにいろいろな工夫がされており、審査は凧のデザインと飛行性で行われました。
 順調に揚がって凧もあれば、糸が絡まってなかなか揚げられない凧、ゆらゆら揺れるのもあれば、くるくる廻る凧もあり、詰めかけた来場者はハラハラしたり、拍手や歓声をあげながらみていました。

 この日会場には多くの市民が来場して、恒例の凧揚げ大会を満喫しました。また来場者には主催者側から豚汁やしるこが無料で振る舞われました。この大会のために準備をされた地元の皆さん、凧揚げに参加された皆さん、来場された皆さんご苦労さまでした。
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小阿坂かんこ踊り、御火試・御粥試開催される

2015-01-17 20:58:37 | 日記
         
                          (小阿坂かんこ踊り)

 松阪市小阿坂町に古くから伝わる「かんこ踊り」と「御火試(おんひだめし)・御粥試(おんかゆだめし)」が1月17日、阿射加神社(松本明宮司)で行われました。

 小阿坂町のかんこ踊りは、鼓踊りとか神楽踊りとも言われ、松阪市内の8地区に伝わるかんこ踊りの多くは初盆供養踊りですが、このかんこ踊りは豊年祈願や農耕への感謝のために神社に奉納してきた神事踊りです。
 戦前は秋祭りとして10月20日に踊られていましたが、冬のどんど火や御火試・御粥試と同じ日に開催されることに変わり、6年ほど前までは1月14日に行われていましたが、今は14日に近い土曜日に行われています。

 

 小阿坂のかんこ踊りのいつ頃から始まったかは定かでありませんが、松阪市史によると天明3年(1783)の唄本があり、それ以前から踊られていたことになり、唄の内容から江戸時代初期までさかのぼることができるとしています。

 唄の曲目は、勢子入り・悦び・世ノ中・花見・登牟田・牛若・忍ビ・松虫・小原妓・中入り勢子入り・和歌・長崎・じんやく・鐘巻・陣立・綾・鮎釣・鐘鋳・帷子・御寺の20曲あり、この日はこの中から3曲が踊られました。

 
      (御火試でその年の天候を占う)        (御粥試でその年の作物の出来ばえを占う)

 かんこ踊りが終わると、やぐら状に組んだどんど火に火がつけられ、庁屋の囲炉裏では神主により御火試・御粥試が行われました。
 御火試神事は月数を書いた樫の木の先端を囲炉裏で焼き、その燃え具合で月毎の天候を占ない、粥試神事は小豆粥釜に竹の筒を入れ、筒に入った小豆や米粒の入れ具合でその年の米の豊作を占うものです。御粥試で占う今年の御年試では、作物の出来は早生、中生及び晩生とも「大々豊作」という結果がでました。また来場者にはその粥が振る舞われ、私もいただきました。
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平成27年松阪市消防出初式開催される

2015-01-12 13:46:11 | 日記
                      (鈴の森公園での一斉放水)

 平成27年松阪市消防出初式が1月12日、松阪市外五曲町のクラギ文化ホールと鈴の森公園で開催されました。消防出初式は、消防団に永年在籍している団員の活躍に対して、表彰及び感謝状を授与する式典と、消防団の士気を高揚するため、車両観閲、分列行進、一斉放水を年頭に行うものです。

 クラギ文化ホールで行われた式典では、屋外で行われる様式で実施され、制服、制帽姿の消防団員・消防署員が凛々しく整列する中で、式は進められ、表彰授与では339名の団員が三重県消防協会長表彰、三重県消防協会松阪支部長表、松阪市長表彰、松阪市長感謝状を受けました
 今回来賓として出席したのは、消防関係者や国会議員秘書、県議会議員、そして私たち市議会議員も出席させていただきました。

 
 (未来の消防を担うちびっ子消防団員も行進)          (式典での表彰授与式)

 式典のあと、場所を鈴の森公園に移し、車輌観閲、分隊行進、一斉放水が行われました。今回の出初め式には、市内の消防団員529名、消防職員111、合計640名が出場し、来賓68名も参列しました。また消防団車両57台、消防車両10台、計67台が参加しました。
 各分団員の行進のあと、消防団小型ポンプによる一斉放水が行われました。
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飯南町深野の八幡神社で例大祭

2015-01-11 21:23:23 | 日記
                    (八幡神社で餅まきを楽しむ参加者)

 松阪市飯南町深野町神路山の御剣八幡神社と秋葉神社で1月11日に例大祭が行われました。この祭礼には毎年お参りをさせていただいています。神社としては大変小さい社ですが、地元の方の話しでは霊験新たなる神社で、願い事ななんでも聞いてくれると言われています。

 昔からある八幡神社に対し、この秋葉神社は昭和6年に鎮座しました。この地方に火事が多く発生したため、浜松の若宮様から御神をいただいて祀ってあります。こちらは8月15日に祭礼が行われます。
八幡神社の祭礼はもともと2月15日に行われていたものが、成人の日の1月15日行われるようになり、成人の日が日曜日の翌日になったため現在の1月第2日曜日に行われるようになりました。

 この日は地元神路山地区の人たちが集い、焚き火を焚いてお神酒を酌み交わします。柿野神社の常山和哲宮司により祭礼が行われました。このあと餅まきが行われ、子供たちを始め多くの人たちでにぎわいました。昭和55年の遷宮には1000人からの人たちがお参りをしたということでした。
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松尾神社でどんど火

2015-01-11 21:18:19 | 日記
 1月11日。この日は市内各地でどんど火が行われました。どんど火の由来はよく分かりませんが、古いしめ縄を焼いたり、餅を焼いて神さんに供え家族の健康を祈ったりします。
 私の地元の松阪市西野町林地区でも地元の神社でどんど火が行われ、入れ替わり訪れた地区の人たちが、しめ縄を焼いたり餅を焼きました。

 松尾神社に隣接する駐車場で、松尾神社崇敬奉賛会主催としては初めてのどんど火が行われました。この催しは地元の立野町上地区と共催で行われたもので、地元の人たちや奉賛会の人たちで賑わいました
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立野町の嫁入り神事行われる

2015-01-04 21:32:24 | 日記

 松阪市立野町下出地区に古くから伝わる「嫁入り神事」が1月4日に行われました。前日までは強風が吹いていましたが、この日は静かな絶好の日和となりました。
 
 この神事は男女一対の山の神碑を中心に行われ、男の神には雑木で作った男根を形どった三ツ股を、女の神には同じく雑木で作った女陰を形どった二股を供えます。また男の神には「米十分」女の神には「麦十分」と書かれた紙を供えます。

 
      (出来上がった男と女の藁人形)        (手分けして藁で人形やたいまつをつくる)

 地区の人たちが集まって藁でたいまつと、男を形どった人形、女を形どった人形をつくります。広場には大火が焚かれ、藁を燃やして「寝床」を作ります。そしてたいまつと人形に火を付け、場を半周して最後には焚かれた大火にたいまつを投入し、女の藁人形を仰向けに続いて、男の藁人形を下向きに重ねるようにして大火に投入して燃やします。
 以前はおかゆを炊いて、その中に餅をいれ、その餅を神に供えましたが、今は大火を焚いて、そこで焼いた餅を神に供えます。

 大火の周囲に地区の人達が輪になって餅を焼きます。先の尖った竹に餅を刺して火にかざして焼くのですが、黒く焦げたり、餅が竹からはずれ火の中に落ちたり、ワアワア言いながら焼いていました。私も焼き餅をいただきました。

 
   (神さんに二股、三ツ股の木を供えます)    (たき火の中の寝床に女人形、男人形を重ねます)

 男の神に供える「米十分」、女の神には「麦十分」の意味はわからないのですが、米が十分取れるように、麦が十分取れるようにとの願いではないかと言われています。また男の藁人形と女の藁人形重ねるようにして大火に投入するのは、子孫繁栄を願ってのことではないかと言われています。

 この神事は以前7日に行われていましたが、最近はこの日に近い日曜日に行われています。また現在は地区の南側の八王子という山で行われていますが、中部台公園ができるまでは別なところにありました。中部台公園の建設で立ち退きにあい、現在の場所で行われるようになりました。
 この神事がいつ頃から始まったかは定かでありませんが、地区のお年寄りが子供のときにはすでに行われていたということで、かなり昔から行われていたことになります
 このような昔からの伝承神事はいつまでも続けていただきたいと思います。
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松阪史跡探訪(1)-神服織機殿神社・神麻続機殿神社

2015-01-01 08:22:23 | 日記
 松阪市内には名勝、名山、城跡、遺跡、古墳、神社、お寺、廃寺跡、街並み、公園、名木、祭り、神事、食、名産、郷土の偉人など、歴史的・文化的遺産がたくさんあります。それらの中には誰もが知っているものもあれば、その土地の人にだけにしか知られていないものもあります。
 これらの名所・旧跡をめぐっていく松阪史跡探訪会を平成25年に立ち上げ、10回100ヶ所を当面の目標としてスタートしました。これまでにも第1回の和歌山街道めぐり、第2回の嬉野方面めぐり、第3回の櫛田川流域めぐりを行っています。
 各見学地ではその地の詳しい方から説明を受けたり、資料をいただいています。これから得た知識と、他の資料を調べて、順次紹介していきたいと思います。第1回は神服織機殿神社・神麻続機殿神社です。

◆神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)(松阪市大垣内町)


                   (神服織機殿神社(左)と八尋殿(右)

 神服織機殿神社は伊勢神宮所管の神社で、地元の人々は親しみを込めて「下館(しもだち)さん」「下機殿(しもはたでん)」と呼びます。
 神服織機殿神社は伊勢神宮の神御衣(かんみそ-神さまの衣)の内、和妙(にぎたえ-絹のこと)を奉織する機殿(八尋殿 やひろどの)の守護神を祀っており、毎年5月と10月に伊勢神宮の神御衣祭に奉納する和妙を織る行事が行われます。
 この地方は古くから紡織業と関係が深く、神様に絹や麻を奉織する服部神部(はとりかんべ)という人が住んでいたといわれています。現在も下御糸、上御糸、中麻績(なかおみ)機殿、服部などの紡績に関する地名が残っています。

 
        (神服織機殿神社正門)               (境内を横切る農業用水路)
 
 同社の境内の林の中に農業用水路が横断している。この水路は飢饉続きで農民が苦しんでいる慶安3年(1650)5月20日、見るに見かねた代官福井文右衛門が、境内に農民に命じて1晩で掘らせたもので、次の日の朝、水が流れて農民たちが喜ぶとき、福井文右衛門は責任を取って切腹しました。それから毎年、5月21日の文右衛門の命日には、出間の人々は神福寺に集まり供養続けているということです。

◆神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)(松阪市井口中町)


                   (神麻続機殿神社(左)と八尋殿(右)

 神麻続機殿神社は伊勢神宮所管の神社で、地元の人々は親しみを込めて「上館(かみだち)さん」「上機殿(かみはたでん)」と呼びます。
 神麻続機殿神社は神御衣の内、荒妙(あらたえ 麻のこと)を織って伊勢神宮に奉納します。毎年5月と10月に伊勢神宮の神御衣祭に奉納する荒妙を織る行事が行われます。
 この地方も古代から紡績業が盛んで、同社は荒妙を奉織した麻績氏の祖神・天八坂彦(あめのやさかひこ)命を祀ったと伝えられています。


       (神麻続機殿神社の森)                (神麻続機殿神社の正門)

 神服織機殿神社及び神麻続機殿神社の 御衣奉織行事とは、毎年5月1日~13日と10月1日~13日の間、上機殿と下機殿の八尋殿(やひろでん)に入って、伊勢神宮に奉納する布を織る行事のことをいいます。
 布は、巾0.3m、長さ12.5mで、織子(織り手2人と見習い2人)が手と足で操作する機織機を使って織り上げます。上機殿では「荒妙(あらたえ)」と呼ばれる麻の布、下機殿では「和妙(にぎたえ)」と呼ばれる絹の布が織られます。
 織子は斎館(社務所)行って風呂で身を清め、白衣と白袴に着替え、禰宜さんのお祓いを受け、八尋殿に入って機を織ります。織られた布は翌日の14日に行われる内宮の神御衣祭(かんみそさい)に奉納されます。

参考資料
 ・松阪市史第6巻・第8巻 (発行 松阪市)
 ・神宮広報シリーズ(四)「神宮の和妙と荒妙」(発行 神宮司廳)
 ・祝部からいただいた資料

―――――――――――――――――――○―――――――――――――――――――

 次に示すは史跡めぐりの時に、神服織機殿神社・神麻続機殿神社の祝部(はふりべ)の中川慶次郎さんにいただいた機殿村の起源、御衣奉織(おんぞほうしょく)行事について、そして神麻続機殿神社の境内を横切る農業用水路の由来についての資料をそのまま掲載したものです。

1)機殿の起源
位置
 櫛田川、祓川の三角州のほぼ中央部に位置している。東は祓川を隔て、明和町大字志貴、佐田、前野、中海。南は松阪市高木町。西は櫛田川を経て同市清水、管生、上七見、下七見、新屋敷、古井、西黒部の各町。北は同市松名瀬、東黒部、乙部、蓮花寺、大垣内の各町に接続している平坦地である。

地名の由来
 古来からこの地方は「井手郷」といわれて麻績(かみ)氏一族の住む所であった。大化2年(646)の改新で井手郷は「多気郡」の一郷になった。白雉(はくち)15年(665)多気郡から分離した「飯野郡」の一郷である。
 伊勢皇太神宮が、五十鈴川のほとりに鎮座すると、神宮に関する役目を担当する人が周辺に集まって住んだ。織物を担当する役として当地方に麻績氏が住んで、「神麻績機殿神社」通称(上館、または上機殿)で「荒妙(あらたえ)」を織って皇太神宮に奉納奉仕していた。織物が普及するにつれてこの地方一帯は御糸郷とも呼ばれている。
 明治32年(1889)市町村制施行によって、井手郷八か村が合併した。村名についてはいろいろの提案があったので議論を重ねた結果「上機殿」にちなみ「機殿村」になったといわれている。

2)御衣奉織(おんぞほうしょく)行事について
 ◆神麻續機殿神社 
(「上館さん」、「上機殿」と呼ばれている)
    松阪市井口中町井出の里

◆神服織機殿神社 
(「下館さん」、「下機殿」と呼ばれている)
    松阪市大垣内町

 御衣奉織行事とは、毎年5月1日~13日と10月1日~13日の間、上機殿と下機殿の八尋殿(やひろでん)に入って、伊勢神宮に奉納する布を織る行事のことをいいます。
 布は、巾0.3m、長さ12.5mで、織子(織り手2人と見習い2人)が手と足で操作する機織機を使って織り上げます。上機殿では「荒妙(あらたえ)」と呼ばれる麻の布、下機殿では「和妙(にぎたえ)」と呼ばれる絹の布が織られていることと、織子が上機殿が男の人、下機殿が女の人である以外はその様子は変わりません。
 織子は斎館(社務所)行って風呂で身を清め、白衣と白袴に着替え、禰宜さんのお祓いを受け、八尋殿に入って機を織ります。織られた布は翌日の14日に行われる内宮の神御衣祭(かんみそさい)に奉納されます。
 上機殿の織子は、井口中町の家が順番で当たっています。サラリーマンにとって2週間近い休みを取るのは大変ですが、自治会の証明書をもって休みの許可をもらっています。どうしても休みが取れない場合は、変わりの人を出すことにしているそうです。
 また、下機殿では、以前は大垣内の女の人が織子をしていましたが、戸数が少ない大垣内では、後を継ぐ人がなく、現在は東黒部の女の人が織子をしています。
 古い伝統行事を受け継いでいくことは大変なことです。第一に人手不足の問題があります。古くから続いた行事です。これからも末長く織り続けてほしいものです。

◆機織りの里
 日本書紀の雄略(ゆうりゃく)天皇14年(470)の条に呉の国から、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)ら紡績の技術を持った帰化人が渡来したことや、飛鳥と伊勢の衣縫の祖先が漢織・呉織であることが書かれています。
 この記述を信じるならば、伊勢の機織の歴史は、5世紀後半に始まるのです。承平年間(931~937)につくられた我が国最初の百科事典である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、「麻續郷(おみのさと)」・「呉部郷(くれべのさと)」(現在の黒部は、呉部がかわったと考えられている)として、この地方にも名が出ています。伊勢神宮の御衣(おんぞ)を受け持つことに始まった伊勢の衣縫たちは、松阪市東部から明和町北東部にかけて、紡績の中心地をつくりあげていったのでした。
 こうして古代から延々と続いた機織りの技術は、近世に始まった綿の栽培と結びついて、機織物の生産を容易にしたのです。江戸時代、西黒部・東黒部・機殿・下御糸・上御糸は、「御糸五郷(ごいとごきょう)」と呼ばれ、松坂木綿の生産地として有名でした。櫛田川下流のこの地方は、まさに古代から機織りの里であったわけです。
 毎年5月と10月の1日から、神麻續機殿神社では荒妙(麻)、神服織機殿神社では和妙(絹)が織られ、14日に神宮に織あがった反物(御衣)を奉納する御衣奉織神事は古代のなごりを今にとどめています。

◆福井文右衛門
《福井文右衛門が代官として保津の代官所にやってきたころのこと》
 寛永(1624~1643)の終わりころ、日本は全国的な凶作にみまわれました。当時の農民の税金は年貢といって米で納められていました。年貢は坪刈りといって、秋に適当な田の一部分の稲を刈り取り、その年の出来高を調べ、取れ高のどれだけを年貢として納めるかを決定したのです。次のグラフはその年の収穫量に対する年貢の量を表したものです。
 
 寛永12年--44.8
 寛永13年--不明
 寛永14年--6.4
 寛永15年--31.2
 寛永16年--32.8
 寛永17年--12.0
 寛永13年--32.8
 寛永13年--0.16
 寛永13年--30.4
 平年作の年--67

 特別な不作の年でない限り収穫量を100とすると、52~67を年貢として納めさせていました。このグラフに見るように寛永19年の飢饉は年貢がとれないほどひどいものでした。
江戸時代、機殿地区は津の藤堂藩により治められていました。寛永後半に入っての飢餓は年号が変わった慶安に入っても続き、藤堂藩では慶安3年・4年と不作が続き、農民は苦しんでおりました。
文右衛門が代官として保津にきたのは、全国的に大飢饉となっていた慶安1年(1648)、文右衛門52才のときでした。

《ある日・・・・・・・》
 文右衛門は、村人の様子を知ることが第一と、村々の視察に余念がありませんでした。ある日の午後、文右衛門が保津を出て、志貴・養川(よかわ)・中村をまわり、出間へやってきたときには、日は西の山にしずみ、あたりはうす暗くなっていました。家々からは明かりがもれ、どの家も夕食を食べている様子でした。
 しかし、家の中はひっそりとしていて、子ども達のはしゃぐ声も聞こえてきません。不思議に思った文右衛門が家の中をのぞいてみると、どうしたことでしょう、茶碗に真っ白な銀飯(白米のごはん)が山のように盛られているではありませんか、他の家はどうかとのぞいてみたが、どの家の茶碗にも銀飯が盛られているではありませんか。
 「皆が飢饉で苦しんでいるのに、出間の者たちは銀飯を食べている。いったいこれはどういうことだ。」翌日文右衛門は出間の庄屋を代官所によび、きびしくたずねました。「代官様、あれは銀飯などではございません。おから(とうふを作った後のしぼりかす)でございます。わたしどもの村では、このように日照りが続こうものなら、田に水をひこうとしても思うように水がなく、米を作ることができないのでございます。」当時の出間は用水の便が悪く、そのため、水田は耕地の3分の1で、他は畑といった状態でした。庄屋が涙ながらに語る出間の村人の様子を聞いて、文右衛門はある決心をしました。
 慶安3年(1650)5月20日、日が西に傾く頃、代官から出間の村人に男女を問わず、働けるものは皆出るようにとの御触れが出されました。文右衛門は、集まった村人を前に、きびしい口調で言いました。「これ村の者、今から機殿神社の境内の東側に、今晩一晩にて南北の水路をほるのじゃ。いいか、夜明けまでにほるのじゃぞ」「お代官様、そんなことをすれば、きっと神宮からきついおとがめがございましょう。いかにお代官様のご命令とは申せ、そればかりはお許しください。」
 文右衛門はしりごみする村人たちに言いました。「神宮へは、この私が話しをつけてきた、お前たちは、私の命にしたがって、今夜の内に水路を掘って水を渡せ。よいか、わかったか。」村人たちは代官のすさまじい気迫におどろきました。「わしらの田んぼに水がひけるぞ。こんなうれしいことはない。お代官様の命令じゃ。」

 村人達は、一生けんめいに、夜をてっしての作業に取りかかりました。そして夜明け前には、はば1m、長さ220m、深さ90㎝の水路が完成しました。勢いよく流れる水を見ながら、村人達は、肩をだきあって喜び合いました。喜びが一段落して、ふと気が付くと、先ほどまで先頭に立って指揮をしておられたお代官様の姿がありません。村人達の胸に不安がよぎりました。「お代官様、お代官様」村人達が代官所におしかけたとき、文右衛門は、すでに切腹し、帰らぬ人となっていました。そして遺体のそばには、一通の遺書が残されていました。それには、「出間の百姓を救うためとはいえ、神罰を恐れず、神域をけがした罪は重く、この責めは、私一人にあります。どうか百姓たちをお許しください。」という意味のことが書かれてありました。
 それから毎年、5月21日の文右衛門の命日には、出間の人々は神福寺に集まり供養続けてきました。(現在は毎年自治会で供養の日が決められる)
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2015年明けましておめでとうございます

2015-01-01 08:22:23 | 日記
(写真は松尾神社から見た初日の出)


風が少し強いが、晴れ渡った正月を迎えました。
2015年、平成27年元旦。
皆様明けましておめでとうございます。
皆様ご健勝で新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
本年もよろしくお願いします。

 朝5時から本居神社で行われた「朝起会の元朝式」に出席させていただきました。大勢の会員の皆様、来賓の皆様とともに新年を祝いました。

 今年の初日の出は、松尾神社の本殿に登る400段の階段の9合目付近で拝みました。数日前岡村宮司の依頼で、初日の出がよく見えるようにと、日の出の方向にある雑木や枝を伐採しました。この日は岡村宮司や十数人の参拝者とともにそのスポットから初日の出を拝みました。午前7時10分ごろ少しかかった雲の上から新しい年を照らす日の出が昇りました。

 このあと10時から行われた松尾神社の元旦祭に出席します。

                       松阪市議会議員 川口 保
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