松阪市西野町で古くから伝わる郷土芸能「子踊り」が8月13日行われました。西野地区の夏祭りは、この子踊り(かんこ踊り)と手踊りが行われますが、夏の太陽がまだ高い午後4時から辻伸久西野夏祭り実行委員長のあいさつ、渡辺勝美自治会長のあいさつのあと、子踊りの「世古入り」から始まりました。
この日は来賓としてお招きした森本、田村両衆議院議員、竹上、笹井、後藤県議会議員を始め多くの方々が来場していただき、中には踊りの輪の中にも入っていただきました。また山中市長も駆けつけていただき、記念写真に入っていただきました。
西野の子踊りは「かんこ踊り」とも呼ばれ、和歌山県川部町にある安珍清姫悲恋物語で知られる道成寺の流れをくむ郷土芸能です。子踊りの「鐘巻踊」のうたの中にも安珍清姫悲恋物語が歌われています。
現在松阪市内では西野を含めて7つの地区でかんこ踊りが行われています。昔は多くの地区でかんこ踊りが行われていましたが、時代の流れと共に消えていき、現在7地区でしか残っていません。このため大変貴重な郷土芸能と言えます。7つの地区の内、猟師・松崎浦・曽原・笠松・新屋庄の5地区は初盆供養の仏事踊りです。西野と小阿坂は雨乞いや豊年祈願の神事踊りです。
西野の子踊りは中央に大太鼓、その周囲に大人の太鼓の踊り手、その外側に大きく円を描いて子どもの太鼓の踊り手、一番外側には子どものお母さん方や大人衆が采(ざい)を持って踊る。太鼓の衣装は、法被に鉢巻き、たすきをかけ、履物は雪駄。
戦後間もない昭和27、28年ごろから中断し、約27年後の昭和54年に復活して今日に至っています。練習は毎年8月に合同練習を行いますが、最近太鼓を踊れる人、歌を歌える人が少なくなってきたので、平成20年6月から「かんこ塾(錦洋明塾長)」を開設して6月ごろから大人を対象に練習を行います。
西野子踊りの資料の中に次のようなものがありましたので写します。中断後復活してから書かれたものです。一部疑問に思われるところもありますが、そのまま写します。
『西野の子踊
起源
不明である。然し阿坂のカンコ踊りが18種類あり、その内13種類が西野の子踊りの目録と同一であること、それに加えて松ヶ崎のカンコ踊りも21種類中の4つの踊りが同じ踊り名がついている。これらがどうも関係がありそう。
また阿坂の歌本の一番古い物が天明3年(江戸初期)だから約215年前のもの。
松ヶ崎の踊りはもう一つ古く蒲生氏郷が松ヶ島城を松阪城に移された天正16年、その時の石挽きにはこの歌が唄われたという。歴史的な記述があるから丁度今から410年前となる。
猟師の踊りも天正年間と言われているから、松ヶ崎と同じ頃から踊りつがれているのでは・・・・と思う。これらを総合すると最低でも200年前、もっともっと古くから踊りつがれてきたのではないか・・・・、400年も前から・・・・(※)。
然し海浜部の花笠踊系の念仏踊と、山間部の太鼓踊りを同一視することに疑念を抱かざるを得ないのではあるが・・・・。
(※ 西野村誌によると秀吉の検地帳の記述あり、又松阪城吉田重勝の領域だった記述も・・・・ある)
其の後の経緯
先人の方々の言いつたへによると少なくとも太平洋戦争勃発(昭16)までは連綿と踊りつがれてきた。終戦後(昭和20年)から昭和27、28年頃までは一旦復活したが、昭和30年頃から又途切れ、昭和47、48年頃から松尾地区体育祭参加という意味で、小学校運動会で一踊り披露したが、それがきっかけで復活の機運が高まり、昭和56年歌本を印刷、西野中配布することとなり、それ以来毎年踊りつがれ、今日に至っているのである。
子踊りの由来と目録
踊りの「曰く」については一口では説明し難い。子踊りは勢子入りから花見まで17種類の踊りで構成されている。敢えて分類すれば
1)神踊り畏れ(おそれ)尊び感謝しそして豊年万作を祈念するもの
世古入、神楽、世の中
2)農業をいとなむ生活(生きざま)を喜び、楽しみ、子どもも大人も一緒になって、情緒豊かに且体一ぱいで踊る
小原木、飛田、綾、忍、神役、お寺、雉子突、鹿狩り、唐人、花見
3)伝説、物語りを伝承する
鐘鋳(かねい)、長崎、鐘巻、陣立』
今年のかんこ踊りでは2才、3才くらいの小さい子から中学3年生のまで踊ってくれました。また笛も中学生が吹いてくれました。この子踊りを始めとする西野夏祭りが、西野地区の小さい子どもからお年寄りまで一同に会して楽しめる祭りとして続けていきたいと思います。
大変お忙しい中お越しいただきました来賓の皆様方、地域及び周辺地域の皆様、親戚や知人の皆様ありがとうございました。また暑い中約2時間踊っていただいた踊り子の皆さん御苦労さまでした。
西野子踊り保存会会長 川口 保