川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

日中児童作品展開催中

2009-01-31 12:37:03 | 日記
 松阪市文化財センターギャラリーで「松阪市&濱湖区 児童生徒合同絵画作品展」が開催されています。この催しは松阪市と中国無錫市濱湖区が友好都市提携を結んだのを契機として行われているもので、松阪市の小中学校児童生徒と濱湖区の児童生徒の応募作品が展示されています。主催は松阪市教育委員会学校支援課。

 松阪市と濱湖区の児童生徒の絵画がそれぞれ50点ずつ交互に展示してありますが、画風の違いがおもしろい。松阪市の児童生徒の作品は風景画を中心として「どっしり」した感じの作品が多いのに対して、濱湖区の児童生徒の作品は人物を織り交ぜた軽快なたっちの画風が多い。
 この作品展は2月4日まで開催されますが、3月ごろには濱湖区でも同じ作品が展示されます。
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男女共同参画が問いかけるもの

2009-01-29 18:09:43 | 日記
 1月28日、三重県地方自治労働文化センターで開催されました男女共同参画トップセミナーに参加して、京都大学大学院の伊藤公雄教授より「男女共同参画(ジェンダー平等)が問いかけるもの」というテーマで講演を聞きました。いろいろな話しを聞きましたが、わかりやすいところをまとめました。

◆男女共同参画
・「男女共同参画」という言葉は1990年代に政府が考え出した言葉。以前は男女平等と言っていた。また男女共同型とか男女共生などの案もあった。
◆男の存在
・戦後間もない頃は家庭の中でもお父さんの存在があった。しかしサラリーマン化してからは家庭から父親の存在がなくなった。
◆女性の地位
・昔の日本はヨーロッパに比べて結構女性の社会的地位が高かった。
・民主主義国家のイメージが高いスイスでも女性の参政権が認められたのは1971年。オランダでは1950年代まで女性は結婚したら働いては行けないとされていた。
◆女性の社会進出度
・OECD加盟の先進国トップ24ヶ国のうち日本の女性の労働力率は1970年代までは2位であったが、2000年代では20位前後まで下がった。他国の女性の労働力率が30~40%上がったのに対して、日本では5%しか上がっていない。
・2005年アジア13ヶ国地域女性の社会進出度日本は11位、現在は12位(13位はインド)
  1970年代の世界の男女共同参加の流れに日本は乗りきれなかった。
◆女性のマラソン
・今から40年前は女性は体力的にマラソンは無理だと思われていた。1966年のボストンマラソンでスタート地点の茂みの中にかくれていた女性市民ランナーが初めて完走した。
・オリンピックでは1984年から正式種目。
・高橋尚子が初めて2時間20分を切った。女性の方が耐久力があるので、男女混合の100㎞マラソンであればもしかすると女性が優勝するかもしれない。
◆女性の管理職
・大企業、地方自治体の女性管理職は現在3~5%、30%くらいにもっていければいい。
・小学校に教師の7割が女性だが、校長は2割くらい
・自治体の女性課長普通3%、多くて5%
・地方銀行、女性の営業は受け入れられにくい。
◆男性の自殺
・90年代までは男性の自殺は女性の1.8倍、98年代ごろから3倍
・定年離婚されると10年くらい寿命が短くなる。
・60代で妻に先立たれた男性の寿命は3年位。夫に先立たれた女性は長生きする。
◆女性の労働
・家庭にいる女性で働きたい女性は260万人いる。
・女性従業員が3~5割いる企業は業績がいい。企業が生き延びるためには女性の登用が必要
◆ジェンダー(社会的性別)とか、ジェンダーフリー、ジェンダー平等についてはよくわかりませんでした。 

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男女共同参画トップセミナーに参加

2009-01-28 19:02:11 | 日記
 今日1月28日、三重県地方自治労働文化センターで開催されました男女共同参画トップセミナーに参加しました。この催しは三重県地方自治研究センターが主催して行われたもので、京都大学大学院の伊藤公雄教授を講師として「男女共同参画(ジェンダー平等)が問いかけるもの」というテーマで講演を聞きました。

 男女共同参画社会基本法が成立してから、10年がたちます。しかし現実には男女平等社会の形成は難しく、国際的に見てもGEM(ジェンダー・エンパワーメント指数)は世界75カ国中42位(2006)しかありません。

 私たちが所属する松阪市議会議員においても、女性議員は1名だけです。また議会に出席する理事者側(市役員)にも1人の女性もおりません。まだまだ日本ではいろいろな組織において女性の進出は難しいようです。今日は男女共同参画の歴史や現状を聞きました。参加者は市議会議員や町議会議員など約70人で、半数近くは女性の受講者でした。

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松阪市長選挙を終えて

2009-01-27 14:01:57 | 日記
 1月25日に行われた松阪市長選は新人山中氏の圧勝、現職下村氏の完敗に終わった。「草の根選挙×組織選挙」とか「アリと象の戦い」とか評されたように、今回の選挙戦術は全く正反対であった。また候補者もはつらつとした30才代前半の派手な新人山中氏に対して、地味で堅実な60才代後半の現職下村氏と全く正反対のタイプであった。

 私はゆえあって下村陣営に身を置いていたが、「こんな官制の選挙で勝てるのかなあ」とか、「組織選挙で上滑りするのでは」と心配する声もあった。しかし下村陣営としてはあの戦法しかなかったのではないかとも思う。「自民、民主相乗りの選挙なんておかしい」「大方の市議会議員が現職に付くのはおかしい」そのような批判や、下村市政そのものに対する批判ある中での難しい選挙であった。

 山中陣営から聞こえてくる盛り上がりや、次々と打ちだしてくる戦法は「敵ながらあっぱれ」としか言いようがなく、県議会議員一期途中での転身で、かって県議選で彼を支えた仲間の多くが離れていく中での選挙にしては見事であった。

 今後は彼が掲げたマニフェストがどのように実施されていくかに注目が集まる。少し大風呂敷を広げすぎたのではないか。小学生以下の児童の医療費を無料にするための財源はどうするのだろう。まして現在1300億円ある市の借金を10年間で半減するという話しは、1年間に平均すると65億円もの借金を返済しなくてはならない。現在の松阪市で年間10億円の借金返済のため各部署が汲々としているのをみると、この金額は途方もない数字である。マニフェストに書かれた40項目もの施策が、市民や議会の同意を得ながらこの4年間でどのように実施されるのか注目される。

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松阪市長に新人山中氏が当選

2009-01-26 09:06:07 | 日記
松阪市長選挙確定得票

当 38,571 山中 光茂 無新
   30,742 下村   猛 無現 

 任期満了に伴う松阪市長選は25日投票、即日開票の結果、無所属新人の山中光茂氏(33)が、無所属現職の下村猛(68)氏を破って当選した。

 今回の市長選挙は新松阪市では初めての、旧の松阪市から数えても約9年ぶりの選挙戦となった。現職の下村氏はホスピスの随意契約の問題、駅西再開発の問題など市民からの批判を受けての出馬、一方の山中氏は県議会議員一期途中での転身への批判の中での選挙戦となった。その結果市民は変革を掲げる山中氏を選んだ。

 今回の選挙は双方ともマニフェストを掲げてのマニフェスト選挙となった。マニフェストは市民との「契約」であり。マニフェストに書かれたことは全て一期4年の任期中に実現しなければならない。山中氏が当選したことで今後はマニフェストの政策が、どういうかたちで実施されていくか、市民の注目するところである。

(マニフェストについては1月14日付け「マニフェスト松阪市長選」に詳しく示しました)
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梅一輪 一輪ほどの あたたかさ

2009-01-25 10:07:34 | 日記
梅一輪 一輪ほどの あたたかさ  服部嵐雪

我が家に5本の梅の木があります。
その内の1本の木が、今朝(25日)3つの花を咲かせました。

桜の花のような派手さはなく、
極寒のなかでひっそり咲く梅の花は、けなげな気がします。

やがてネコヤナギが芽を吹き、ふきのとうが顔をだし、
季節はゆっくり冬から春に向かって行きます。

冬の寒さの中で耐えてきた、
森羅万象。私たち人間も含めた自然界の全てのものが、
躍動する春が近づいてまいります。 
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まつさか史跡めぐり(3)

2009-01-24 22:20:04 | 日記
 ブログの合間合間に松阪市内の史跡を紹介します。今回は大河内城跡です。大河内城は北畠の居城として、また難攻不落の城としてひときは輝いた城でした。

大河内城跡
◆あらまし
 大河内城跡は松阪市大河内町の阪内川と矢津川に挟まれた丘陵地の先端部にある。城は応永年間に伊勢国司北畠満雅により築城され、満雅の弟顕雅(あきまさ)が入城した。

◆大河内城の築城
 南北朝時代の1420年頃(応永年間頃)南朝側の小倉宮良親王の意により伊勢国司の北畠三代目満雅が北朝の足利幕府を見すえ、南朝側の挙兵の拠点に築城し、弟の顕雅(あきまさ)を城主として住まわせた。
 戦国時代には北畠三大将の居城で大河内御所と呼ばれていた。兵力は馬上の侍百騎を含む600人とそれに足軽、雑兵が400人合わせて1000人であった。

◆城の構造
 城の南側と北側は深い谷が巡っており、自然の要塞を呈している。城の縄張りは本丸を中心とし、北を大手口、南を搦手口とし、西に西ノ丸、東に二ノ丸・御納・馬場などを配し、随所に堀切りや台状地が残る。

◆織田信長軍の来襲
 織田信長は永禄12年(1569)5万の兵をもって北伊勢の城を傘下に収めながら南下し、8月に大河内城の北畠具教(とものり)軍に迫った。信長来襲の備え精鋭を集めた迎え打つ北畠軍は1万6千、それも8つの城に分散しており、兵の数では圧倒的に不利であった。
 大河内に入った織田軍は火を放って町々を焼き払い、桂瀬山に本陣を構えた。この軍勢の中に後の歴史に名を残す柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、稲葉一徹、池田信輝、前田利家、佐久間信盛、佐々成政たちがいた。そして後の松阪城主となる14才の蒲生氏郷がこのとき初陣を飾っていた。また後の豊臣秀吉の木下藤吉郎は白米城(阿坂城)を攻めていた。

◆広坂口の戦い
 大河内城を包囲した織田軍は、まず城の正面の広坂口から攻撃を開始した。北畠軍は一団となって応戦し、逆に信長の本陣に攻め入った。この時織田側は隠れていた信長自慢の鉄砲隊、長槍隊で応戦すると、武者ぞろいの北畠勢も犠牲者が増すばかりで攻撃を一旦中止せざるをえなった。また織田側も敵が強敵であることから、戦略を練り直さなくなり、この戦いは長引くことになった。

◆まむし谷の攻防
 大河内城の搦手(裏側)にまむし谷と呼ばれる城の中に入りくんだ谷がある。城攻めをする側にとってはこの袋小路のような地形から攻め込むことは左右と前方から攻撃をうけることから大変不利な地形である。
 城攻めに手こずっていた織田の陣所に10月になると滝川一益が到着し、一益はあえてこのまむし谷からの攻撃を信長に進言した。当初地形的に不利という理由から反対していた信長も、一益の「命にかえても」という力説にまむし谷からの攻撃を認めることとなった。一益軍3千はまむし谷から総攻撃をかけた。城を守る側は「城が危ない」と本丸の女子・子供にいたるまで必死で泣きさけびながら応戦した。城からは鉄砲や矢ばかりではなく、竹槍、石、木材等まで投げられ、滝川一益軍は討たれたり、谷底に落下したりして総崩れとなった。また開門して出てきた北畠三勇士の服部孫三郎、潮田長助(おさすけ)、船木左馬助などの縦横無尽の活躍もあり、一益軍は壊滅し、撤退を余儀なくされた。戦いのあと倒れた兵士から流れ出た血が川のように流れたといわれている。この戦いは後に「まむし谷の血決戦」と呼ばれている。
 
◆戦の終結
 破竹の勢いで伊勢を南下してきた信長軍であったが、大河内城攻めでは北畠軍の頑丈な防戦にあい城は陥落する気配はなかった。信長はついに謀略をつかうことにし、城内の北畠の武士に内応を取り付けようとしたが、応じたのは野呂左近将監ただ一人で、その野呂も城中で切り捨てられ、内応作戦は失敗した。
 いらだちを募らせる信長は家来を本陣の大木に登らせ、具教の子具房に対し「大腹御所(具房)の餅食い」など罵倒を浴びせかけた。これに激怒した北畠側では、北畠の重臣秋山右近の家来で弓の名手の諸木野弥三郎が敵味方の見守る中放った矢が、4~5町(約500m)先にいる木の上の織田の家来のからだを射抜いた。信長はこれに大いに驚き、また感激して諸木野の放った矢を引出物とともに城中に返したといわれている。      
 この罵倒作戦は信長のひとつの賭であり、この出来事によりこれ以上のこの城攻めは無理だと判断し、和睦に持ち込んだといわれている。織田軍と北畠具教軍との激しい戦闘は50日に及ぶが、北畠軍は8千の兵で織田軍の猛攻に耐え、さすがの信長も城攻めをあきらめざるを得なかった。 この一大攻防の結果、大河内城は難攻不落の堅城と絶賛された。

◆織田との和睦
 武力による大河内城の攻略が無理と知った信長は北畠側に和睦を提示し、13才の次男信雄(のぶかつ)(幼名茶筅丸)を養子として北畠側に差し出すことになり、北畠具教の五女千代前(雪姫)と結婚させた。北畠側からみれば信雄は人質の形となるはずであったが、信雄とともに信長側近の足助十郎兵衛、天野佐左衛門尉、林豊後守、小崎新四郎、安井将監その他屈強な武将も送り込まれ、北畠側は信雄に対して指一本触れることができなかった。

◆大河内城の解体と北畠の滅亡
 大河内城の戦いにおいて、信長の大軍に一歩も引けをとらなかった北畠氏も、信長の謀略に対抗する実力は全く無かった。大河内城に入った織田側により北畠潰し、そして織田による北畠の領土支配が着実に進んでいった。
 信長は北畠の諸城を破却するように命令した。そして天正3年(1575)には北畠の主城であった大河内城の城郭を壊して田丸城に移して建て、新装の田丸城には信雄が入った。これにより150年続いた大河内城は終焉を迎えたのである。

 多気郡大台町(旧)の三瀬の館に移り、大御所と呼ば れていた具教は、北畠の土地や支配権が織田側に移ることを残念に思い、ひそかに甲斐の武田信玄と通じていた。これを知った信長は怒り北畠一族を滅ぼす暴挙にでた。また信雄の小姓が北畠方の屋敷で小鳥を取 ろうとして見つかり、打ち叩かれたことを信長に告げされ、信長は北畠一族の殺害を命じた。
 天正4年(1576)11月25日、信長の働きかけで織田に寝返った北畠の旧臣の長野左京進と藤方刑部の家臣の加留左京が三瀬館を訪れ、具教に面会したが、対面中突然槍で突きかかった。具教は武道の達人、とっさに槍を避け太刀を抜こうとしたが、織田に寝返った家臣により太刀がさやから抜けないように細工がしてあった。具教は三歳の徳松丸と一歳の亀松丸の子とともに殺害をされたのである。時に具教49才であった。
 この日、田丸城下にいた北畠13人衆も全て殺害され、夫人幼児家人までこの時殺害された。また具教の娘で信雄の妻である千代御前まで殺害され、一人残った具房も天正8年(15800年)1月に死去し、これにより村上天皇の流れをくむ名門伊勢北畠一族は滅亡した。本能寺の変で織田信長が亡くなる7年前のことである。

◆現在の大河内城
 現在の大河内城跡は静かな木立の中に昔の面影を偲ばせている。本丸跡、西ノ丸跡、馬場跡などを示す石柱が立てられて城の構造がわかる。また激戦が行われたまむし谷は木が茂っており、全体的な地形はわからないが、城を守る北畠軍と本丸に迫ってくる織田軍との戦いの喧噪を偲ぶことができる。城跡は地元老人会などが清掃作業をされており、バスで来る団体の見学者もある。

◆所在地
  ・松阪市大河内町城山・マムシ谷他
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自治創造塾研修に参加(2)

2009-01-23 10:12:50 | 日記
 1月21日、津市栄町の三重地方自治労働文化センターで「自治創造塾研修」が開催され、受講しました。この催しは三重県自治会館組合が主催して行われたもので、三重県の各自治体から市議会議員、町議会議員、市町職員、県職員60余名が参加していました。

 研修の内容をうまくまとまりませんが、前日に続き示します。

基調講演2 梅原デザイン事務所 主宰 梅原真氏
テーマ「デザインで地域の元気をつくるには」

○高知県四万十町の取り組み
・「水」というテーマで著名人に原稿を依頼したが、原稿料は四万十川で取った鮎数匹。50人に依頼して18人から原稿を送ってもらった。
・桧の端板を10センチ角に切って「四万十のひのき風呂」という焼き判を押して売り出したところ銀行などの粗品に申込が殺到して、1億円の売り上げがあった。
・「エコバック」ならぬ「古新聞で包んじゃおう」ということで、地元の古新聞でバックを作ったところ、これが村の一つの産業になって、ニューヨークやロンドンからもオファーがあり、世界戦略を考えている。

○高知県大方町の取り組み
「砂浜美術館」
・私たちの町には美術館がありません、美しい砂浜が美術館です。
 天然のものしか使わないゼロエミッション美術館。BGMは波の音。
・全国からTシャツのデザインを募集して砂浜に綱を張ってひらひらさせた。
・らっきょうの産地であるが、らっきょうの花をラベンダーに見立てて注目した。
・海岸の漂着物の作品として、漂着物にテーマをつけて展示した。

○高知県赤岡町の取り組み
日本で一番小さい町
・路上観察学会を結成して、町のなかで面白い写真を集めた。
 「追放の家」のコワーイ看板の写真、実は前の「飲酒運転」が消えていたのでした。
 「赤」の字が青い色で書かれている写真。実は青い色で書かれた「赤岡町○○」の「赤」だけ撮った写真でした。
・1升の酒を何秒で飲むかの競技。
・バラック作りの商店街。夜、街灯や電灯を消してローソクの灯にしたら、客が5倍増えた。

○埼玉県皆野町の取り組み
・柿がなっても取る人がいなくて、取られずに落ちてしまう。
 そこで柿を取るボランテァグループ「渋柿隊」を結成した。
・ 飲む柿酢や男の柿渋石けんを売り出した。

○高知県土佐佐賀町の取り組み
・カツオの1本釣りが採算が合わなく、何とかしてほしいと窮状を訴えた。
・そこでカツオのたたきは藁で焼くという原点に戻って、「猟師が釣って猟師が焼いた」というフレーズとともに「1本釣り・藁焼きたたき」で売りだしたところ、年商約20億円の産業となった。

ローカルが豊でないとその国は豊でない。
ローカルが豊であってその国は豊である。
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自治創造塾研修に参加(1)

2009-01-22 09:04:26 | 日記
 1月21日、津市栄町の三重地方自治労働文化センターで「自治創造塾研修」が開催され、受講しました。この催しは三重県自治会館組合が主催して行われたもので、三重県の各自治体から市議会議員、町議会議員、市町職員、県職員60余名が参加していました。松阪市からは私のほか山本芳敬議員が受講していました。また他市町からも知り合いの議員が参加していました。

この日の日程は
基調講演1 農産物流通コンサルタント 山本謙治氏
テーマ「日本の農林水産物は安すぎる」

基調講演2 梅原デザイン事務所 主宰 梅原真氏
テーマ「デザインで地域の元気をつくるには」

パネルディスカッション
テーマ「第一次産業で地域の元気をつくるには」
パネラー:山本謙治氏・梅原真氏
コーディネーター:福井隆氏 東京農工大客員教授

 基調講演の内容を2回に分けてまとめます。いっぱいいろいろな話しを聞きましたが、まとめられるのは次のことです。

基調講演1のまとめ
・今まではスーパーなどのバイヤーは農家から野菜などを安く買い叩いていたが、これからは礼を尽くさないと買えなくなる。いい物を買うには地域のために尽くさないといけない。
・今の農業人口のピークは60~80才であり、もう10年もすると農業従事者がいなくなる。
・米の収入は少ない。2㏊に「あきたこまち」をつくっても240万円の売り上げ、150万円位の収入にしかならない。
・一部、二部上場企業が農業に参入しても8年位は赤字を覚悟しなければならない。
・温暖化で全国的に産地が北上している。ぶどうは山梨から山形へ、サクランボは山形から北海道へ。宮崎産米1等米7~8割あったが、今は1割しかない。温暖化で病虫害の発生が多くなってきた。
・オーストラリアは4年連続の大干ばつで収量が半減。食糧危機はこの10年の間に何度か起きる。
・これからの企業はエシカル(倫理的な)・ソーシング(調達)が根付く。
・食のコストは高くて当たり前。日本の食文化は欧米とは比較にならない。
・これからの日本の食の消費
高齢化、世帯数の減少、東京では世帯数の半数以上が独身、単独。関東では白菜の一個売りは売れない。4カットが中心。
・平成になってお菓子のロングセラーがでていない。好みが細分化している。
・専業農家は忙しいので朝食の7割はパン食。コンビニの利用率が高い。
・飼料に玄米57%を混ぜた卵一個100円。 飼料米1反で15俵位取れる。
 青森県の減反の2000㏊の田に飼料米を作ったとすると、日本の食糧自給率を1%上げることができる。
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文化財センター 松阪多気バイパス展

2009-01-21 08:28:01 | 日記
 松阪市文化財センターはにわ館で「松阪多気バイパス展」という企画展が開催されており1月20日に見学しました。この企画展は平成元年から始まった一般国道42号松阪多気バイパス建設に伴う埋蔵文化財の発掘調査が本年度をもって完了することになり、調査で出土した土器などの出土品が展示されています。

主な展示品は
 ・縄文土器、石器(松阪市・鴻ノ木(こうのぎ)遺跡、多気町・新徳寺遺跡)
 ・弥生土器、石器(松阪市・堀町遺跡、松阪市・村竹コノ遺跡)
 ・須恵器(多気町・明気窯跡群(みょうげかまあとぐん))

などで写真や解説がつけられています。この展示は2月22日まで開催されています。第二展示室の写真撮影は展示内容によりできない場合もありますが、今回はできました。
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「松阪」と「松坂」、「まつさか」と「まつざか」

2009-01-20 09:46:28 | 日記
 松阪市は正式には「こざとへん」の「松阪」を用い、「まつさかし」と濁らずに発音する。しかし「つちへん」の「松坂」もよく見かけるし、「まつざか」という濁った呼び方も日常的に使われている。

◆松阪と松坂
 この地に松阪という名が初めて付けられたのは、天正12年(1584)、蒲生氏郷が四五百(よいお)の森に新城を築城した。この時、蒲生家にとって吉祥の字である「松」と、秀吉の居城大坂城から「坂」の一字を拝領して「松坂城」と命名した。
 この時地名も松坂とされ、当時は「つちへん」の「松坂」が使われていたが、明治22年の市制、町村制の施行によって、「こざとへん」の「松阪」に変えられた。

 しかし現在でも「つちへん」の「松坂」が結構多く使われており、他市から松阪に進出した企業のインターネットの表記などに、つちへんの「松坂」がよく見受けられる。このほど中国ですでに商標登録してあった松阪肉も、やはりつちへんの「松坂肉」であった。他市、他国の人には「松坂」のイメージが強いのではないかと思うが、正式な文書には「松阪」を使ってもらいたい。

◆「まつさか」と「まつざか」
 松阪市の正式な呼び名は「まつさかし」ですが、松阪市民においても「まつさか」と呼んだり「まつざか」呼んだり、また「まっつぁか」と呼んだりする。話し言葉では自然と呼びやすいように訛ってくるが、「まつざか」や「まっつぁか」は「まつさか」が訛ったものと思われる。仮名をふるときは「まつさか」と正式にふっても呼び方は少々訛ってもいいのではないかと思う。

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森本哲生後援会 御園座観劇の集い

2009-01-19 20:31:11 | 日記
 今日1月19日、名古屋の御園座において「森本哲生を励ます会と観劇の集い」があり、私も参加しました。この催しは毎年行われるもので、御園座のワンステージを後援会が貸し切ります。
 この日は津市、松阪市などの後援会の人たちがバス32台に分乗して御園座に入り、松平健の芸能生活35周年記念公演を楽しんだ。

 この日の出し物はかって勝新太郎の代表作として人気のあった「座頭市」を松平健が演じた。特別出演に勝新の奥さんの中村玉緒が出て笑いを振りまいていました。芝居のあと「唄う絵草紙」ということで華やかな唄と踊り歌謡ショーがあり、参加した人たちは舞台を堪能しました。
 
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松阪市長選挙スタート

2009-01-18 15:26:59 | 日記
 松阪市長選立候補者
   下村  猛(68)
   山中 光茂(33)
     (届け出順)

 任期満了に伴う松阪市長選挙は今日1月17日告示され、予想通り現職の下村猛氏(68)と、新人の山中光茂氏(33)が立候補しました。立候補の届け出は午後5時まで受け付けられます。

 新松阪市になって初めて、旧の松阪市から数えて9年ぶりの選挙戦となりました。今回両候補者ともマニフェストを作成して、市長としての政策を市民に示し、各種集会などに出席しての前哨戦が行われていましたが、本格的な選挙戦がスタートしたことになります。投票は25日(日)に行われます。
 選挙人名簿登録者数は、136,784人(1/17現在)
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JR東海 在来線ホーム全面禁煙へ

2009-01-17 08:08:10 | 日記
 世の中で分煙や禁煙が進んで、たばこの煙や臭いが嫌いな私にはありがたい。議員の行政視察などの場合、会派では4人ともたばこを吸わないのでいいのですが、委員会の場合、たばこを吸う人もあれば吸わない人もいて、食事のとき席を分けたりもします。

 私は喉が弱くて、狭い部屋でたばこを吸われると、喉をやられて風邪をひくこともあり、また受動喫煙の被害も心配です。

 JR東海では3月14日から在来線全駅のホームで全面禁煙にすることを発表しました。現在はホームの端に喫煙コーナーが設けられていますが、通勤・通学客で混雑する時間帯では、このコーナー付近まで乗客が接近し、全面禁煙が要望されていたそうです。

 行政視察などのときに、愛煙家の同僚議員たちは、駅で喫煙場所を探すのにいつも苦労していますが、今後さらに厳しくなりそうです。非喫煙者と分離しなければなりませんが、各駅に喫煙場所はあってもいいのではないかと思います。人ごとながら愛煙家が気の毒な気がします。 
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ある業績が傾いてきた会社のはなし

2009-01-16 19:11:21 | 日記
 私の家は松阪市中町にある真宗高田派常念寺の檀家です。お寺の世話人の一人になっていますが、このところ議会などが重なって世話人会への欠席が続いていましたが、今日1月16日久しぶりに出席しました。

 お寺の本堂にいつも「はらから」という仏教に関する文書が置いてあり、いつも楽しく読ませていただいています。はらから№269の「広角」というコーナーに素敵な記事が載っていたので紹介します。原文のまま引用させていただきました。

『ある会社の業績が傾いてきた。幹部は部下を集め、資料を示し対策を講じる。しかし、その会議は、部下を一方的に叱責するような様相になってきた。会議は深夜に及んだが何の進展も無い。その日はそのまま打ち切ることになり、幹部はまだ怒り冷めやらぬままに会議室のドアを乱暴に閉め、電気を消そうとしたその時、不意に背後から声がした。「遅うまでご苦労さんどしたな」。見ると掃除係のおばさんがゴム手袋に清掃道具を持って立っている。暖房もない凍えるような廊下で、会議が終わるのを何時間も一人で待っていたのだ。その時その幹部は、心の底からこう思ったという。「もし私だったらこんな言葉がかけられただろうか」。
 翌朝、ゆうべ乱雑なまま出た会議室が、いつもの通り整理整頓されているのを見て、幹部は思わず誰もいない部屋に向かって深々と頭を下げたという。』
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