川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

「北畠時代の松坂の展」開催中

2011-01-30 22:03:41 | 日記

 松阪市外五曲町の松阪市文化財センターはにわ館で「松坂の歴史文化風土を考える 北畠時代の松坂」展が1月22日より開催されています。この企画展は伊勢の国司としてこの地方で230年間にわたって君臨した北畠氏に関する文献や、同時代の城跡などから出土した土器や遺物など148点が展示されています。

 

北畠氏は62代村上天皇の流れをくむ、村上源氏の一族で、北畠4代目親房(ちかふさ)の子顕能(あきよし)が伊勢国司を任じられ、伊勢の北畠統治が始まった。北畠親房は建武3年(1336年)南北朝の対立が始まると、伊勢を戦略上重要な地と位置づけ南朝側の拠点として田丸城を築き、ここを中心として神山城など南伊勢にいくつかの城を築いていった。親房の三男顕能(生没年不詳)が延元3年(1338)7月に伊勢の国司を任じられると、一志郡多気に本拠を構え、国司家として南伊勢を支配していった。北畠が統治していたのは南勢五郡(一志郡、飯南郡、飯野郡、度会郡、多気郡)を本拠地とし、伊賀の半国(名張)、大和の宇陀郡、さらに志摩・熊野まで勢力を伸ばしていった。

その後南伊勢では北畠を中心として多くの戦いが行われた。延元4年(1339)以降の田丸城や神山城などにおける南北朝の戦い。応永22年(1415)の阿坂城(白米城)における足利幕府軍との戦い。そして永禄12(1569)、北畠具教が城主の大河内城や阿坂城における織田信長軍との戦いのあと、滅亡への道を歩むことになった。

 

 この企画展の展示物には、北畠氏の菩提寺でもあり、織田信長の阿坂城(白米城)攻めの時に戦火を受けた大阿坂町の淨眼寺が所有する貴重な文書や、津市美杉町にある北畠神社所有の文書、松阪市周辺の城跡などから出土した土器や遺物、また北畠氏の本拠地となった大河内城や同氏の出城であった阿坂城の模型などが展示してあります。

 この企画展は3月27日まで開催されています。

 

問い合わせ

 松阪市文化財センター ℡0598-26-7330

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まつさか交流物産館がオープン

2011-01-29 11:38:29 | 日記

 松阪市京町の松阪駅舎内に松阪市や南三重地域の物産品を販売する「まつさか交流物産館」が、1月29日(土)にオープンしました。同館は平成22年3月に松阪市が発表した「松阪まちなか再生プラン」の60項目のうちの1つで、松阪駅周辺のリニューアル事業の一環として、以前に手荷物預かり所となっていた一角、52.5㎡をJRから松阪市が借り受け改修したものです。

松阪市を訪れる観光客から、松阪市内にはみやげものを買う店がないという苦情がよくあると、観光ボランティアの方から聞きましたが、観光の拠点なればいいと思います。この施設は物産品の販売のほか、観光案内や観光客の休憩所としても利用していただけます。

 

 午前8時45分からのオープンセレモニーでは、山中市長のあいさつのあと、市長をはじめ、来賓として来ていただいた伊藤JR東海松阪駅長、田中松阪市議会議長、佐藤松阪観光協会会長、中井松阪商工会議所会頭、宮村松阪商店街連合会会長によるテープカットが行われ、9時に店がオープンしました。朝からたくさんの市民が来場して、思い思いの商品を買っていました。買い物をした先着300名の来場者には、ちゃちゃものマフラータオルがプレゼントされました。

この日はちゃちゃもが1日店長を務め、またうれっぴーやたけちゃん、もー太郎も駆けつけ子供たちの人気を集めていました。

 

 このまつさか交流物産館は松阪市がJRから月額3万円で借り受けるもので、556万円をかけて整備されました。営業は市観光協会に委託し、新たに雇用する2人のアルバイト職員の給料430万円や光熱費は松阪市が負担します。

この施設には松阪市からみやげものなど約170店の商品が、また南三重地区の尾鷲、熊野、大台、美浜からも約90店の商品が展示、販売されています。年末年始を除き、朝9時から午後6時まで年中無休で営業されます。

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前市議 林博己さん逝く

2011-01-28 13:49:27 | 日記

 前松阪市議会議員の林博己さんが病気のため1月24日に亡くなられました。通夜も葬儀もお参りできなかったので、今日28日に自宅に行ってお参りさせていただきました。林さんは飯高町会議員を3期、また松阪市議会議員を在任特例を含めて2期務められました。議員としては私の先輩であり、年は私の1つ下の63歳でした。

 私とは会派は違いましたが「たもちゃん たもちゃん」と呼んでもらい、仲良くしていただきました。いつも周囲を明るく、また楽しい雰囲気にさせる気さくな人でした。同じ委員会で視察にも一緒に行かせていただきました。私はその時委員長をさせていただいておりましたが、1期目の新人議員に対して大先輩である林議員が「委員長 委員長」と呼んで立てていただいたのを覚えています。

 

 温厚な性格の林議員でしたが、選挙管理委員会から松阪市の選挙の投票箇所を減らす案が出された時には、彼の地元の山間地では投票箇所を減らされたら高齢者の人が投票に行けなくなると、からだを張って反対をされたのが印象に残っています。

 市議会議員をやめられてからは一度もお会いしたことはありませんでしたが、同僚議員から林さんの病気のことは聞かされていました。一度退院されたと聞き、これから快方に向かわれるのかと思っていた矢先でした。

63歳。少し早すぎます。今でも「たもちゃん たもちゃん」という声が聞こえてきそうです。林さん安らかに。

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深野和紙について

2011-01-25 17:34:08 | 日記

(写真は松阪市飯南和紙和牛センター)

三重県松阪市飯南町深野でつくられた深野和紙は、慶長4年(1599)から約400年もの間続いた地場産業です。1月24日に紙すき体験を見学させていただいたおりに、いろいろな話しを聞かせたいただき、また資料をいただきました。ブログの記事としては少し長いのですがまとめました。

 

◆深野和紙の歴史

 紙は今から2100年前に中国で初めつくられ、1300年前に朝鮮を経て日本に入ってきました。この中国から渡ってきた紙を改良したのが和紙で、今の福井県で生まれました。

深野和紙は慶長9年(1599)北畠家の家臣で深野村の郷士であった野呂市兵衛俊光が、美濃から紙すき職人2人を招き、農閑期の副業として深野地内長野で紙すきが始められました。貞亨4年(1689)年頃には紙すき農家は250戸を超えましたが、亨保16年(1731)頃をピークにだんだんと衰退していきました。文政6年(1823)大庄屋職野呂一之進俊興、紀州藩に幣料紙(銀札)の製造許可を受け、この頃より深野和紙の声価が高まり、再び一大産業となりました。

大正11年(1922)には紙すきをする人が10名を切り、深野社(明治44年に結成された深野農協の全身)の組合長杉本槌三郎は深野和紙の復興のため高知県を視察し、簀編み(すあみ)の技術者を招き高品質の和紙の復興に努める。しかし学校の教科書が洋紙に変わり、和紙の需要が減っていき、昭和44年には最後まで残った紙すきの2軒も廃業して、約400年続いた深野の和紙の歴史が終わりました。昭和62年に深野和紙保存会が結成され、平成4年に現在の松阪市飯南和紙和牛センターが建設されました。深野和紙保存会(野呂修三会長 会員14名)は小学生などに紙すきを教え、紙すきの伝承に取り組んでいます。

 

◆深野和紙の主な原料

深野和紙の主な原料は、こうぞ(楮)、がんぴ(雁皮)、みつまた(三椏 三又)などです。

こうぞは日本に紙が伝わった頃(西暦610)からの一番多い原料ですが、紙の原料とされたのは日本が始まりです。1本の繊維が7㎜と長く一番強い紙の原料ですが、虫食いに弱い欠点があります。

 がんぴは鎌倉時代(西暦1200年頃)から使われましたが、栽培が難しく山取りがほとんどです。1本の繊維は5㎜で紙質もよく、虫に強いため文化財の補修に使われます。

 みつまたは200年前頃から使われ出した和紙の原料で、繊維の長さは3㎜と柔らかな紙で細かい印刷に向く紙です。昭和40年代の初めの頃までは1万円札や切手に使われていました。現在ではほとんど金箔の製造に使われます。

 この他、根っこの粘った液を紙の原料と一緒に用いるトロロアオイや、木の皮の部分から出したネリを用いるノリウツギなどが使われます。

 なお余談ですが、がんぴ(雁皮)は私の近くの山にもあり、高さが1m位までの小さな木です。子どもの頃にはみんなで山に入って雁皮を取り、皮を向いて干しておくと、買い取ってもらい、小遣い稼ぎをしました。

 

◆深野地区が和紙すきに最適な理由

 深野地区が紙すきに適する条件は次のようなものです。

1、水に鉄分を含んでいないこと

 繊維以外のタンニンが残っていた場合でも、金属イオンがないのでタンニン鉄の着色沈殿物がなく、紙の白さを増す。

2、年間を通じて水の冷たい所

 水は冷たいほど紙が白くなる、特に寒の水は良いとされる。また水が冷たい方が繊維素や糊料の変質が防げる。

3、水が豊富であること

 紙すきには大量の水を使います。1tの紙を作るのに2500~3000tの水が必要です。深野にはその水がふんだんにある。

4、南向きの斜面地であること

 紙すきは冬に行われるが、冬の日照時間の短い時に紙を乾燥させるには南向き斜面が適している。また水は汲み上げることをしなくても、斜面の上段から樋などで取り入れることができる。

5、原料が近くにあること

 江戸期までは田や畑で、米麦豆などの食料以外の作物を作ることが禁じられており、山間部の深野では畦や河原、山林などに紙の原料であるこうぞやみつまたを栽培することができた。

 

 深野の里には白猪山に源を発する風呂屋川があり、いにしえより良質の水が流れている。この水に目をつけた先人達が和紙の製造に携わってきました。紙すきに適した水と地形に恵まれ深野の里は近在の村々より栄えて人口も多くなり、紙を扱う深野商人も生まれました。紙すきが途絶えた後は、良質の水を利用して松坂牛の生産地に生まれ変わりました。

 

◆和紙と洋紙の違い

和紙と洋紙は原料から違います。楮や三椏の皮を用いる和紙に対して、洋紙は広葉樹や針葉樹の幹を使います。原料に対する歩留まりは、和紙が原木に対する製品の割合が4%、洋紙は70%位あります。製法も手漉きしかできない和紙は朝4時から夜8時までかかっても400枚が限度ですが、洋紙は機械漉きで短時間に多量の製品が作れます。しかし耐用年数では和紙の方がはるかに長く、日本では西暦700年頃の紙が1300経った現在でも変わらず残っています。一方洋紙では1800~1950年頃の本は変質が激しく貸し出せない状態です。現在紙の使用シェアは洋紙95.5%に対し和紙0.5%ということです。

 

◆松阪飯南和紙和牛センターについて

 この施設は深野和紙や松阪牛を紹介する資料館として平成4年に建設されました。

色紙版の紙すきも体験できます(11月上旬~3月下旬 要予約)。

 場  所 松阪市飯南町深野3231

開館時間 9:00~17:00(無人)

 休  日 土・日・祝・年末年始

 問合せ先 松阪市飯南振興局 0598-32-2513

 
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深野和紙すき体験を見学

2011-01-24 17:19:41 | 日記

1月24日、松阪市飯南町深野にある「松阪市飯南和紙和牛センター」で行われた、柿野小学校の児童による「紙すき」を見学させていただきました。和紙和牛センターについては以前、決算特別委員会の席上で質問させてもらったことがあり、一度紙すきを見たいと思っていましたがお声がけをいただき、今日見ることができました。

この日は柿野小学校の3年生の児童20名が、地元の深野和紙保存会(野呂修三会長 会員14名)の皆さんの指導のもと紙すきを体験しました。今日参加した柿野小学校と粥見小学校は毎年体験学習の一環として紙すきを実施しているもので、この日は色紙大の大きさの和紙を3枚ずつ作りました。このあと子供たちは保存会の方から、和紙の歴史や和紙と洋紙の違いなどの説明を受け、原料の楮(こうぞ)などから和紙ができるまでのビデオを見ました。

 

 深野和紙は慶長9年(1599)野呂市兵衛俊光という人が、美濃から紙すき職人2人を連れてきて、深野地内長野で紙すきを始めたものです。貞亨4年(1689)年頃には紙すき農家は250戸を超えましたが、亨保16年(1731)頃をピークにだんだんと衰退していきました。明治36年(1903)国指定の小学校の教科書が和紙から洋紙に変わり、和紙の需要が減っていき、昭和44年には最後まで残った紙すきの2軒も廃業して、約400年続いた深野の和紙の歴史が終わりました。昭和62年(1987)には深野和紙保存会が結成され、平成4年には和紙和牛センターができて、紙すきの伝承が行われています。飯高ふれあい祭りにも紙すき体験コーナーを設けて、紙すきの普及に努めています。

 

 この施設が和紙和牛センターと呼ぶように、深野は和紙の産地でもあり、また和牛の産地でもあります。全国的にみても和紙の産地では和牛が肥育されている所が多く、和紙の適地と、和牛の適地は一致するということです。

 以前は飯南地区だけで和牛の品評会も行われており、また松阪の品評会でも飯南の牛は最優秀(当時は優勝)の常連でした。しかし最近では和牛を飼育する農家も激減しています。

 

 次回は深野和紙の歴史や和紙と洋紙の違いなどをまとめます。

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第4回蒲生氏郷講座開催される

2011-01-23 22:09:20 | 日記

蒲生氏郷公顕彰会(高島信彦会長)の第4回蒲生氏郷講座が1月23日、松阪市本町の松阪市産業振興センターの3階ホールで開催されました。この会は松阪開府の祖である蒲生氏郷公の足跡の探求・顕彰さらには市民の郷土意識の高揚と地域のとの友好・交流を通じて、まちづくりに資することを目的として、平成21年4月に設立されました。

 

この日は松阪市文化財センター主幹の大野木和之氏を講師に招いて『発掘から見た松坂城跡』というテーマで話しを聞きました。大野木講師は県教育委員会で発掘調査などに携わり、松坂城跡の関係の発掘調査にも加わっています。

これまでの講座は文献に基づいて行われていましたが、今回は平成元~3年に行われた松坂城跡の発掘調査でわかったことや、講師が実際に発掘した体験に基づいて行われました。この日会場には約60名の会員などが参加して、興味深く話しを聞いていました。

 

最近、城が注目されて、新しい「城ブーム」が起きてきています。「歴女」や「城ガール」なる言葉も表れてきました。松坂城跡も日本100名城に選ばれてからスタンプを求める来場者も増えてきています。名古屋城、金沢城、熊本城など日本各地で城郭建築の復元が行われていますが、これらは史実に基づいて保護・整備がなされています。松坂城跡は江戸初期の資料でも「松坂古城」と表現されており、城郭建築に関する資料は残念ながらありません。

 

平成元~3年に行われた松坂城跡の天守の発掘調査では、建物の基礎部分に厚さ90㎝のぐり石がびっしりと敷きつめられていました。天守の大きさは北側が17m、南側が17.4m、東側が15.4m、西側が16mと少しいびつになっています。天守のすぐ下の兵部屋敷があった所は、以前松阪市の水道の配水池があったところで、基礎石の大部分は壊されていますが、金箔瓦や天目茶碗、六葉金具、釘・かすがい等が出土しています。金箔瓦は、信長時代のものは凹部に金箔が、秀吉時代のものは凸部に金箔が貼られており、松坂城跡の瓦には凹部に金箔が張られています。兵部屋敷は氏郷時代に造られたものか、古田時代に造られたものかは分からないということです。

 

 昨年11月19日、国の文化審議会が松坂城跡を国の史跡指定にすることを文部科学大臣に申請しました。この日の話しでは、今年度中に認定される見込みであるということです。国の史跡指定がなされたら、改めて市民みんなで松坂城跡をどのように生かしていくかを考えなくてはならないということです。

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第16回西黒部町民凧揚げ大会開催される

2011-01-22 18:06:55 | 日記

平成22年度西黒部町民凧揚げ大会が平成23年1月22日、松阪市高須町の櫛田川河川敷のモーターグライダー滑空場で開催されました。この催しは西黒部公民館を中心とする西黒部町民凧揚げ大会実行委員会が主催して毎年行われ、今年が16回目となります。この日は空が青く晴れ渡り、風もあり、絶好の凧あげ日和でした。開会セレモニーのあと、部門別に分かれて競技がスタートしました。

 

この日参加したのは、幼稚園・小学生の部に10チーム、個人・団体の部に13チーム、町対抗の部に3チーム、合わせて26チームでした。凧はそれぞれの個人やチームが手塩にかけて作ったもので、よく揚がるようにいろいろな工夫がされており、審査は凧のデザインと飛行性で行われました。先ずデザインの審査が行われたあと、チーム一丸となって凧が揚げられました。順調に揚がって凧もあれば、ゆらゆら揺れて見ている人たちをハラハラさせながら揚がっていく凧もあり、詰めかけた来場者から拍手や歓声が湧き上がりました。

 

全ての凧揚げが終わって、表彰式が行われ次の個人やチームが入賞して表彰されました。

幼稚園・小学生の部

  金賞  三宅恭平君

  銀賞  中辻藍都君

  銅賞  中井麻陽さん

 

個人・団体の部

  金賞  西黒部小学校PTAチーム

  銀賞  高須老人会チーム

  銅賞  はまぼうクラブチーム

 

町対抗の部

  金賞  西黒部町チーム

  銀賞  松名瀬町チーム

  銅賞  高須町チーム

 

この日会場には山中市長や、県議会議員、市議会議員、市関係者を始め、多くの市民が訪れ、凧揚げ大会を満喫しました。また来場者には主催者側から豚汁やしるこが無料で振る舞われました。この大会のために準備をされた地元の皆さん、凧揚げに参加された皆さん、来場された皆さんご苦労さまでした。

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小津安二郎と映画評論家岸松雄

2011-01-20 21:11:22 | 日記

(小津安二郎が表紙絵・題字を書いた岸松雄の映画評論本)

 小津安二郎。松阪ゆかりの名映画監督です。

 1月20日、松阪市丹生寺町の松尾地区市民センターで、松尾公民館のふれあい学級が開催されました。この学級は高齢者の人たちを中心として、健康に関する話しや、外国の暮らしの話しなど、毎回講師を招いて講座が開催されています。今月は映画鑑賞会が行われ、小津安二郎監督の『東京物語』が上映されました。私は残念ながら公務が入っていたので映画を見ることはできませんでしたが、講師である松阪小津組の矢野隆登志さんにお会いさせていただきました。

矢野さんは小津安二郎の研究家で、各地区を廻ったり、また松阪ケーブルテレビなどでも講演をしてみえます。矢野さんと私は20代の青年時代からの友人で、松阪市青年協議会で一緒でした。

 

日本を代表する映画監督・小津安二郎(19031963)は多感な青年期を松阪で過ごしました。安二郎は家の近くにあった「神楽座」という映画館に通い続けたことが彼の生涯を決定づけました。

小津と同時代に活躍した映画評論家に岸松雄(19061985年 本名 阿字周一郎(あじしゅういちろう))がいます。同世代の2人は映画監督と映画評論家と立場は違いますが、映画という同じジャンルの中で親交を深めていくのでした。岸松雄の映画評論の本の表紙絵や題字を小津安二郎が書いたことをみても、2人の親密度がわかります。そして2人は、かたや日本を代表する映画監督として、かたや日本を代表する映画評論家として上りつめていくのでした。

 

実はこの岸松雄の父の実家が松阪市西野町にあります。私の地元です。数年前に矢野さんから岸の話しを聞きたいので案内してほしいということで、二人で岸の実家の安濃田勘五郎さん宅に行き、話しを聞いたことがありました。残念ながら安濃田さんはそれから約半年後亡くなられました。

岸松雄の子ども時代の周一郎少年は、よく父の実家の松阪に遊びに来ていたそうです。その時彼は、西野から松阪の町まで歩いて往復したそうです。岡寺さんも彼の家と親戚にあたり、岡寺さんにもよく遊びにいったそうです。

後に日本の映画界で活躍する小津と岸の二人が、少年期に同じ松阪にいたことになります。小津はよく祗園祭を見に行ったということですが、もしかしたらその時は、お互いの存在を知らない二人が同じ祇園祭を見ていたかも知れないのです。

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松阪の地名を訪ねて(4)~川に関係する地名~

2011-01-18 21:59:27 | 日記

松阪市内には櫛田川、阪内川、三渡川、中村川、雲出川などが流れ、この川の近くには川の影響を受けた地名がたくさんみられます。今回は川に由来する地名の探訪です。

 

◆川の合流点につく地名

川の合流点につく地名には川合、落合、河内などがあります。大台町の川合は宮川と大内山川の合流点です。松阪市内では『大河内町』がこれにあたり、阪内川と矢津川の合流点です。

 

◆川の中州につく地名

川の中州につく地名としては、武田信玄と上杉謙信の戦のあった川中島が有名です。川中島は千曲川と犀川の中州です。

 松阪市内では松名瀬町の『中村』が櫛田川の中州にあり、この名前がついたと思われます。また『川島町』や井口中町の『中川原』は地名から、かつてここが中州であったことが考えられます。

 

◆湧水地点につく地名

 湧水地点につく地名としては『清水町』があり、近くに山がないことから、櫛田川の伏流水が湧水したと考えられます。また新屋庄町の『清水』も雲出川の影響を受けた湧水地点と思われます。

 

◆久保は荒廃地につく地名

久保は大洪水や地すべり跡の土地の荒廃した様子を表す地名です。もともとは窪地を示す「窪」という字であったのが、「久保」の字を用いられるようになったもので、高知県の窪川のように元の「窪」の字を用いている所もあります。 

 

◆松阪市内の久保

松阪市内で久保のつく町名は、『久保町』、『久保田町』、『東久保町』があります。 この内、久保は金剛川、久保田は坂内川、また東久保は櫛田川の近くであるところから、これらの河川の影響によるものと考えます。

 久保は小字名にも多くついていて松阪市内にも東ヶ久保、部田久保、久保出、小久保、大久保、上久保、向久保などがあり、久保だけの小字名もいたる所にあります。

 

◆その他の地名

川に関する地名で、河口を示す川尻(明和町)や川口があります。また矢の川(やのこ)峠(尾鷲市)の矢川は勢いよく流れる川を表したものと考えられます。。

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阿久根市の出直し市長選竹原氏敗れる

2011-01-17 23:52:32 | 日記

議会を開かずに重要な案件を専決処分で決めるなど、強引な市政運営に対するリコールが成立した鹿児島県阿久根市の出直し市長選挙は1月16日に行われ、新人の西平良将氏が前市長の竹原信一氏を破り当選した。

 

竹原市長は就任以来、市職員の給与明細を公開したり、ブログで不人気議員アンケートを実施したりして、特異な行動で注目を集めてきたが、昨年の3月議会では嫌いなマスコミがいるとして議会を欠席したり、また6月議会も開催されなかった。この間に予算や市職員の賞与半減、議員の報酬の日当制、副市長の選任など重要案件を、議会での議論や承認なしの専決処分で決めてしまった。

 

 市長(首長)が議会と対立することは必ずしも悪いことではないが、議会を開かずに重要案件を独断で決めてしまう手法は、行政のルールも議会のルールの無視した滅茶苦茶なやり方である。閉会中の議会の開催権は市長にあるため、議員側から市議会開けないことが問題となった。議会の開催権は議長に持たすべきだという議論もわき起こった。今回の市長選では、さすがの阿久根市民も目覚めたのだろう。

 竹原氏には、鹿児島県の人口2万人余りの小さな町を全国区に押し上げた功績は残ったが。

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松阪シティーマラソン開催される

2011-01-16 13:58:34 | 日記

 第6回松阪シティーマラソンが1月16日、松阪市立野町の中部台運動公園市民芝生広場をメイン会場として開催されました。今回の大会には全国20の都府県から約2500名の選手が参加しました。3年前の大会の参加者が約800名であったので、3年で3倍に増えたことになります。

 午前8時30分から芝生広場メインステージで開会式が行われ、市体育協会会長の開会宣言、、山中大会会長のあいさつなどがあり、今回のゲストランナーの森脇健児さんの紹介がありました。中部台公園で行われたのは2㎞ペアジョギング、3㎞の部、5㎞の部、10㎞の部の4種目で、コース別にスタートしました。

 この日出場した選手の中には、10㎞に出場された浜口議員、5㎞に出場された海住議員、3㎞に出場された中瀬古議員の姿もありました。選手の皆さんには毎年恒例のうきさとむらから「うきさと鍋」がふるまわれました。また閉会式のあと森脇健児さんのトークショーやお楽しみ抽選会などもありました。

 

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いい加減に生きる

2011-01-14 21:35:11 | 日記

松阪市老人クラブ連合会(松老連)の文化講演会が1月14日、松阪市嬉野権現前町の嬉野ふるさと会館で開催されました。飛騨千光寺の大下大圓住職の講師で「いい加減に生きる-ヘルシーエイジングのすすめ-」というテーマで話しされました。大下住職は「いのちの勉強会」を主宰して病院などでボランティア活動をされており、これまでにテレビでも紹介されています。

松老連(馬場英一郎会長 会員約12000名)の文化講演会は毎年1回行われており、今回が3回目です。この日、座席数700の会場が満杯になるように多くの会員が参加して、ユーモアあふれた話しを楽しみました。

 

「いい加減に生きる」とはお釈迦さんの言葉で、「どうでもいい」という意味の方ではなく、「ちょうどいい加減」の方の意味で、宗教家らしく仏教の話しをわかりやすく、話しをされました。また、あなたは今何の不満もありませんか、死に対して恐いと思いますか、自分がガンの場合告知をしてほしいですか、死後の世界があると思いますか、人が死んだ場合霊魂は残ると思いますか、等参加者に質問をされました。

死に対しての恐怖は60年前では、ほとんどの人が恐くなかったが、今は恐いと思う人が55%を占める。

 

日本では仏さんと神さんを同じ家の中に祀っているが、他の宗教ではこのようなことはあり得ない。日本ではこのようなことが1200年続いていて、これは日本人が他のものを認めるという寛大さの表れということだそうです。

師はこのあとブータンに行かれるそうですが、世界の国の中で国民の幸福度はブータンが一番だそうです。テレビもなく貧しい国であるが、国民の90%以上が幸福と感じている。ちなみに日本人は70%。

 

早くガンになって死にたい人は

①毎日 人の悪口を言うこと

②毎日 怒りを表す

③毎日 愚痴を言いふらす

怒りは3万個のガン細胞を発生させる

笑いは5万個のガン細胞をやっつける

 

私も一応老人会の会員として名前を連ねています。今日の講演会の講師の大下住職は語り口調が柔らかく、ユーモアあふれた講演で楽しく聴かせていただきました。

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松阪の地名を訪ねて(3)~「津」の付く地名~

2011-01-13 20:54:41 | 日記

◆「津」は港に付く地名

 松阪市内の地名の由来を訪ねています。今回は「津」の付く地名です。日本で「津」の付く地名は木更津、沼津、焼津、直江津、泉大津、唐津などがあり、海辺の町に多く付いています。津はもともと港や船着き場に付く地名であり、これらの地名は海の港です。また滋賀県の大津は琵琶湖の港です。

 

◆三重県内の津の付く地名

三重県内では津、伊倉津、雲出(元は雲津)などがあります。これらの地名は海岸近くにあり、海の港です。

 三重県の津の付く地名のうち、旧美杉村(現在津市)の雲出川沿いに比津や奥津がありますが、今この付近には海も湖もありません。昔この付近が海であったとき付いた地名であるという説もあります。たしかに昔には伊勢湾と瀬戸内海がつながっており、今の三重県の南半分が島状になっていた時代がありました。津市榊原の貝石山のように三重県の内陸部から貝の化石が多く出土するのはこのためです。しかしこれは日本語のルーツよりはるか昔のことと思われます。以前に、この奥津は雲出川から材木を筏として流した場所だという話しを聞いたことがあります。今の雲出川は水は少ないが、昔は水がもっと多くて、船着き場として付いた地名である方が、説得力があるような気がします。

 

◆松阪市内の津の付く町名

松阪市内で「津」の付く町名は石津、大津、郷津、小津、矢津、勢津、保津の7つの町です。このうち『小津』は三渡川の河口付近にあり、『石津(元は市津)』、『郷津(元は江津)』、『保津』は比較的海岸線に近いことから、以前の海岸線がこの付近にあった時の港であると考えられます。

 

◆郷津は江津

この内、郷津については『町内の歴史民俗の物語 郷津は江津であった』(油利木萬明著 平成10年2月発行)の冊子に地名の由来が次のように示されています。

郷津は昔大口の海が入り込んだ「江津浦」と呼ばれる海岸の村で、江津、石津、船江が海岸でつながっていたと考えられる。郷津(ごうづ)の由来ははっきりしないが、郷津の前が江津、その前が「国津」と書かれ、「こくづ」が訛って「ごうづ」になったという説と、この里は河副(かわぞい)にあり「かわぞい」が訛って「ごうづ」になったという説があるということです。なお江津から郷津には明治以降に変わりました。また近くの『高町』は海抜0m地帯を埋め立ててでき村で、せめて地名だけでも高いようにと名付けられたということです。

 

◆大津は櫛田川の船着き場?海岸の港?

『大津』は現在の海岸線よりかなり内陸に入っています。櫛田川は昔「上川」と呼ばれ、もう少し市街地よりを流れていた時代がありました。今のように堅固な堤防などがない時代、川は大水が出る毎に勝手気ままに流れを変え、現在の大津付近を流れていた時代もあったと考えられます。大津の地名の由来としては、この時の上川の渡し船の船着き場ではなかったかという仮説を立てました。

大津町の渡辺喜代造氏が昭和63年11月に書かれた『大津の歴史』という冊子があります。これによると大津地内では地中4・5m位掘ると貝殻片がたくさん出るところがあり、また「湧早崎」、幸生の「浜田の浜」、「前沢の沢」など海岸を表す地名があり、弥生時代(約2000年前)は、この付近まで海がきていたのではないかとしています。大津はこの時の海の港ではないかという方が正しいのではないかと思います。

 

◆矢津、勢津は

『矢津』や『勢津』の付近には大きな川が無く、船着き場としての地名ではないようです。山間地の湿地を表す言葉に谷津(やつ)があり、矢津はこれが語源と思われます。勢津はもともと矢津と同じ村内でしたが分離して勢津という地名が付けられましたが、なぜ勢津となったのかはよく分かりません。今後研究していきたいと思います。

 なお湊町は伊勢の大湊から移ってきた人たちが住んだ所です。  

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松阪の地名を訪ねて(2)~「塚」の付く地名~

2011-01-11 16:44:29 | 日記

                (マームの一番南側の駐車場にある「塚」) 

 

松阪市内の地名の中で町名を中心として、付けられた由来を探っていきたい。

 

「塚」の付く地名

「塚」を辞書で引くと①土を小高く盛り上げられたところ②土を盛った墓とあります。 塚の付く地名でよく知られているのが貝塚です。かつて女子バレーで名を馳せたニチボー貝塚のあった大阪府の貝塚市はよく知られています。この貝塚は先史時代人が貝を食料にしたあとの残滓(貝殻)を捨てたところです。

 志摩市の船越には人塚と呼ばれる地名があります。昔の大津波で亡くなった人を一度に埋葬したところで、今でも人骨が出てくるそうです。松阪市内で町名以外に「塚」と呼ばれる場所がいくつかあります。矢津町の「黄金塚」や安楽町の「車塚」、中万町の「鬼塚」、美濃田町の「獅子塚」などが伝説とともに「松阪市史」に示されています。

 

 松阪市内で塚の付く町名は『大塚町』、『塚本町』、『宝塚町』があります。

 このうち大塚町はショッピングセンターマームの南側に位置し、塚本町はマームの西側に位置します。この2つの町は隣接し、同じ塚から付いた地名と思われますが、マームの屋上から周囲を見渡しても、現在この付近には大塚と呼ばれるような大きな盛り土は見あたりません。加世智神社(大平尾町)所有の「伊勢国飯高郡大塚村地誌」には「聖武天皇の勅を奉じて開基したお寺が、後年焼失し、その瓦石を田圃の傍らに埋め、焦土塚のように堆積したため大塚の字を用いた」というような意味のことが書かれており、この焦土塚から大塚と呼ばれるようになったと思われます。地元の人の話しでは大塚付近の水田の中にはいくつかの塚が今も残っているということです。その1つがマームの駐車場の中にあります。(写真)この塚を始め、水田の中に残っているのは、ほとんど平坦に近く、この塚群が焦土塚かどうかは分かりません。

 塚本町については、市内に「塚本古墳」と呼ばれる古墳はありますが、別な場所で、大塚の近くであることから塚本と付いたのではないかと思われます。

 

松阪市内のもう一つの塚の付く地名は、宝塚古墳で知られる宝塚町です。宝塚と呼ばれる古墳は日本各地にあり、主なものは①島根県出雲市、②奈良県河合町、③茨木県茨木町などです。また宝塚歌劇でおなじみの兵庫県宝塚市にも古墳があり、「この塚のそばで物を拾う者は必ず幸せあり」というところから宝塚の名が付いたといわれています。宝塚という地名から、この塚には宝があるということが知られており、どこの宝塚においても盗掘が行われているものと思われます。

 松阪市の宝塚古墳は昭和3年の鈴木敏雄氏の調査では、ほぼ1㎞四方の丘陵地に確かな古墳が26基、不確なものをふくめると88基が確認されており、当時は「花岡古墳群」と呼ばれていました。しかし団地造成によりほとんどの古墳が壊され、残っているのは公園として整備された1号墳、2号墳などわずかです。

 

 平成十二年松阪市の宝塚古墳から国内最大級の舟形埴輪が出土しました。松阪市にとってまさに宝の塚でありました。公園として整備された1号墳、2号墳は発掘調査が行われましたが、中央部は発掘せずに、残してあり、古代のロマンが昔のまま眠っています。

 

この記事に対するご意見ご希望をお寄せ下さい。

 また地名の解説については自説を交えて行っています。歴史上おかしいところがあればご指摘下さい。歓迎します。

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平成23年松阪市消防出初式開催される

2011-01-10 12:40:53 | 日記

松阪市消防の出初め式が1月10日、松阪市民文化会館で開催されました。式典は室内で行われましたが、屋外で行われる様式で実施されました。制服、制帽姿の消防団員・消防署員が凛々しく整列する中で、式は進められ、表彰授与では三重県消防協会長表彰、三重県消防協会松阪支部長表彰、松阪市長表彰、松阪市長感謝状などが消防団員に贈呈されました。この中で山岳救助に功績のあった飯高方面団に市長から飯高山岳救助功績表彰がなされました。

来賓として出席された森本・田村両代議士、竹上・笹井。後藤県議、田中議長を始め多くの市議会議員とともに来賓として私も出席させていただきました。

 

式のあと、場所をベルファームに移し、消防団分列行進・車輌観覧が行われ、そのあと鬼ヶ窪池で一斉放水がおこなわれました。昨年までは鈴の森駐車場で車輌観覧が行われましたが、今年から会場をベルファームに変更し、多くの市民が見てみえました。

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