川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

山の間伐行う

2019-02-28 07:09:01 | 日記
 今年に入ってから近くの山に植林されている木の間伐に入っています。この木は20数年前に父が晩年に植えたもので、直径が10~30cm位になっています。間伐は込み合っているところの木を伐採して残った木の成長を促すもので、野菜の小抜きのような作業です。

 私たちが子どものころは山や川、池などが遊び場で、山でチャンバラをしたり、キノコ採り、雁皮(がんぴ)採り、じん掘り、松ごみ採りなどしました。キノコは「すどおし」、「はったけ」「ねずみあし」などどこにでもあり、松茸も子供でも結構採れました。雁皮は高さ1mくらいの小さな木で、藤のように皮が長くむけます。その皮を剥いで干しておくと専門の人が買いにきます。雁皮は障子紙の柄や強度補強に使われます。じんは刈り取った松の木の根っこの芯で、掘り起し丹生寺町にあったじん工場に持っていくと買ってくれました。松ごみは松の木に寄生する細かい葉の植物で、高い松の木に登って採ります。松ごみの小さな実の中にゴム状のものが入っており、それを集めてチューインガムのように噛みました。

 最近は大人でもあまり山には入らないようです。少し前には山芋掘りに行った話をよく聞きましたが、最近あまり聞きません。まして山の間伐に入った話はこの付近では聞いたことがありませんでした。私もこれまで山に入るのは、墓の花(びしゃこ)や神様に供える榊を採りに行くくらいでした。
 山の木の収穫(伐採)ができるのは3代先と言われています。父が植え、子が手入れして孫が収穫するという気の長い話です。そして3代先に木の需要があるのかどうかもわかりません。

 松阪市では数年前から「森林活(もりかつ)プロジェクト」といって、間伐材を利用したバイオマス発電が行われています。手続きが必要ですが、間伐材を森林組合に持っていけば、6,000円/トンで買い取ってくれます。込み合っている木を伐採し、間切りして、車のところまで運び出し、森林組合まで搬送する。労働に対する対価はあまりよくはないのですが、森林浴が思い切り楽しめます。今は花粉症の季節ですが私は大丈夫です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

射止神事行われる

2019-02-17 19:16:29 | 日記
                (選ばれた射手が自治会長とともに的に矢を射ます)

 松阪市上七見町で、2月17日に弓を射て家内安全・五穀豊穣・子孫繁栄を祈る「射止め(いとめ)神事」が行われました。この行事は上七見町自治会(高畑敏彦自治会長 戸数約40戸)が主催して行われましたが、私も初めて見せていただきました。

 上七見地区には奈々美神社がありますが、この行事は同神社の神事ではなく、地区の行事として行われています。古くから行われていた行事ですが、戦後中断していました。ただこの時期に地区の成人を祝う行事として寺で会食だけが行われていました。昭和の後期にこの行事復活のしようとする動きがあり、多くの反対を受けながら昭和38年(1980)ごろに復活されたということです。復活に携わった山路邦夫さんのはなしでは、復活のとき一番のネックとなったのが竹の槍の先につける男性器と女性器を模した大根で作られたものでした。教育上よくないということで大反対にあったそうですが、何とか説得をして行事が復活されました。この男女性器の模型は子孫繁栄を願ってのことだそうです。

         
                 (的の裏に書かれた「鬼」を刀で突きさし退治します)

 奈々美神社の境内に竹で編んだ的が造られ、裏側には「鬼」と墨書きされた紙をはり、選ばれた射手が的に向かって矢を射ます。射手には20歳までの男子が努めますが、今年の射手には朝見小学校2年生の橋本貴稀君が選ばれました。紋付き袴姿の射手が弓矢を射て的に当たれば、的の裏側に回り、自治会長とともに鬼と書かれた紙を刀で刺しぬきます。

 
(「やっこらさ」と唱えながら里中を練り歩きます)        (大根で作られた模型)


 そのあと行列を組み「やっこらさ」と唱え、竹やりを突き上げながら里中を練り歩きます。松阪市史によると行列の本来の姿は、『射手となった若者が神刀と白扇を持ち、次に主に次男が裃袴を着用して露払いを勤め、二人の草履を持参する。そのあとに年長者1人、はさみ箱(竹行李)を持った中年二人が続き、最後にヤリモチの若衆が面を付け、男女の性器に似せた大根を青竹にさして持ち続く』ということですが、現在では省略されているところもあります。

 「射止神事」とインターネットで検索しても上七見地区のこの行事しか出てきません。日本で唯一の行事をいつまでも続けてほしいと思います。取材に協力していただいた、高畑自治会長さんをはじめ地区の皆さん、行事の復活に尽力され、話を聞かせていただいた山路邦夫さんありがとうございました。
 この行事は私のブログ「松阪市内の祭り100選」記載してあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅の花とエビ

2019-02-14 05:07:44 | 日記
 我が家には梅の木が何本かあり、白梅が2本、紅梅が2本、しだれ梅が1本、そして最近植えた南高梅が1本、少し前から咲き始めています。

 昨日、その中の白梅の枝に3cm位のエビが刺してあるのが見つかりました。我が家では節分に鰯の頭を柊(ひいらぎ)にさして玄関に飾り、厄除けにする習慣があるので、家内に「エビも刺したの?」聞いたが、家内ではないようです。

 どうやら鳥の仕業ではないかと思います。鳥はとらえたトカゲなど枝に刺しておいて、保存しておくと聞いたことがあります。しかし人間でも硬い殻のエビを枝に刺すのは難しいそうですが、うまく刺してありました。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾神社例大祭開催される

2019-02-12 04:30:58 | 日記
                 (松尾小学校女児による華麗な浦安の舞の奉納)

 松阪市立野町の松尾神社(岡村行通 宮司)で平成31年2月11日、同神社最大の行事例大祭が行われました。この例大祭の行われる日は例年寒い日が多いのですが、この日は曇っていましたが、風も少なく、この時期にしては比較的暖かい日となりました。祭礼は約400段の階段を登った山頂の本殿でおこなわれました。

 今年の祭礼には、来賓として県議、市議、地元松尾各町の自治会長、松尾まちづくり協議会代表、氏子総代、敬神婦人会代表、同神社崇敬奉賛会の代表、鳥居奉納者などが参列しました。竹上市長は祭礼前に来てあいさつと餅まきをしていただきました。
 本殿前で行われた舞姫による「浦安の舞」の奉納では、松尾小学校6年生錦俐衣奈さん、5年生福田和花さん、宇田一葉さん、川口温花さん、青田理湖さん、岡村心愛さんの6人の舞姫が、練習の成果を発揮して華麗な舞を披露しました。

 
    
           (2回行われた餅まきには多くの来場者が歓声を上げていました)

 ふもとの広場では獅子舞の奉納やカラオケ大会、また松尾神社専属(?)歌手による「三川ゆり歌謡ショー」などがあり、来場者には甘酒が振る舞われました。また午後0時ごろからと午後4時ごろから行われた2回の餅まきには、多くの来場者が歓声をあげながら餅を拾っていました。

◆松尾神社のあらまし 
 松尾神社は松阪市立野町の標高113mの山の頂上にあり、本殿まで400段の階段が続きます。頂上付近になると急な階段が120段続き、ようやく本殿に到達します。本殿のある山頂からは中部国際空港などが眺められ、また伊勢神宮、熱田神宮、橿原神宮、明治神宮、靖国神社の礼拝所も設置されています。
 
 松尾神社はもともと立野神社または立野明神と呼ばれ、神社がある立野は、平安時代の930年代に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に飯高郡に属する郷としてあげられています。その立野郷の産土紙(うぶすながみ)(生まれた土地を守護する神)として大山咋命(おおやまくいのみこと)を祭ったのが立野神社であり、康保4年(967)に施工された「延喜式」(法律の施行細則)神名帳にも記載されています。
 北畠の家臣水谷刑部がこの立野に砦を構えたとき神領を寄進し、徳川宗貞も享保9年(1724)来松の節、社領四石七斗六合を免除しています。

 明治時代に1村1社を原則に神社合祀が進められ、明治40年・41年当時の松尾村村内の神社を立野神社に合祀し、名前を立野神社から松尾神社に改称されました。祭ってあるのは大山咋命を主神に29柱の神です。
 昔は京都の松尾神社と同様に酒造の神と崇められたということから、酒を醸造する人たちが信仰する神社でもあり、また歯の神様でもあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のろし実験行われる-白米城から

2019-02-07 10:43:25 | 日記
                    (白米城から上がる狼煙(写真の中央))

 松阪山城会が2019年2月7日午前9時に、阿坂城(白米城)跡から狼煙(のろし)実験を行いました。
 松阪山城会(松本薫会長 会員34人)は平成28年5月に結成された会で、松阪の山城を後世に残す活動をしています。松阪地区でもいくつかの山城を新しく発見しています。
 阿坂城は北畠氏の重要な出城の1つで、この実験は中世における情報伝達の手段であるのろしがどの範囲まで見えるか、また北畠氏の拠点である大河内城に伝達できるかなどをさぐるものです。
 今回私は山城会から依頼を受けて松阪市西野町の白山城跡(西野工業団地ののり面の上)から確認しました。肉眼ではかすかに見える程度でしたが、写真にははっきり写っていました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする