川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

三重海軍用地の石柱集積碑お披露目会開催される

2018-12-23 17:16:15 | 日記
                        (関係者による除幕式)

 現在の松阪市岡山町付近に72ヘクタールとうい広大な三重海軍航空隊練習場がありました。この航空隊は終戦と同時に撤退しましたが、この時の「海軍用地」と書かれた石柱が当地にいくつか残っており、歴史を後世に伝えるため、この石柱を集めた集積碑が岡山町集会所前に建立されました。そのお披露目会を兼ねた竣工式が、今日平成30年12月23に同集会所で開催されました。

 一志郡香良洲町(現津市)に駐在した三重海軍航空隊(昭和17年から終戦までの3年間に38,000人が入隊)の飛行予科練生の隊員が、終戦間近い昭和20年2月に岡山の訓練場に配置され、半地下式のカマボコ型の兵舎を建てました。配置されたのは20歳前後の若い補習生で近くの民家などに民泊しました。古市仁前公民館長の話では前館長の家にも泊まりに来て、彼らは土間にむしろを敷いて寝たそうです。
 終戦後はこの用地は開拓団により開墾され、現在の農地になっています。

 
      (出来上がった石柱碑と案内板)           (私も感謝状をいただきました)

 三重海軍航空隊の分遣隊が残していった「海軍用地」と書かれた石柱(境界杭)が6基残っており、松尾まちづくり協議会では松阪市の元気応援事業で石柱碑を作り、今日のお披露目会となりました。
 石柱碑の除幕式のあとの竣工式では村田善清会長のあいさつ、竹上真人市長の祝辞などがあり、感謝状が授与されました。私も石柱碑の石積みを手伝ったことから感謝状をいただきました。
 竣工式のあと懇談会があり、昔を偲んで「すいとん」や「雑炊」をいただきました。
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岡本の火祭り開催される

2018-12-15 21:20:39 | 日記
              (松明が大火の周囲を廻ると祭りはクライマックスを迎える)

 昔、村に出没した大蛇を、松明を焚いて退治したとうい言い伝えから続けられている「岡本の火祭り」が、平成30年12月15日に松阪市岡本町の明神社跡の山の山頂で行われました。この祭りは岡本町自治会(伊藤良幸 自治会長)が主催して行われるもので、今年は土曜日ということもあってか、いつもより多い約200人の人が地元から、また市内から訪れました。いつも寒い日が多いのですが、この日は風がなく、大火の火の粉が真上に上がる絶好の火祭り日和でした。


 松尾郷土誌百話(松阪市立松尾公民館 発行)によると、岡本は昔堀坂山から山続きになっており、堀坂山に住みついていた大蛇が尾根伝いに岡本に現れて村人を呑んだり、危害を加えたりしていた。このとき村人の老人の夢枕に神のお告げがあり「大蛇を退治するには村人全員が松明作って、真夜中(丑の刻)に集まり、その松明を大蛇にめがけて一斉に投げつければ、大蛇は間違いなく退治できる」と告げられた。老人はこのことを村人に伝え、村人全員で実行したところ大蛇を退治できた。そこで村人は大蛇を退治できた陰暦11月1日(現在では太陽暦12月15日)に火祭が行われるようになったということです。市内にある多くの祭りや神事が、地区の人が出やすい休日に開催されるように変わってきましたが、この祭りは、同じ日に開催されています。

  
    (広場の中央に大火が焚かれます)      (煎餅餅が円盤のように来場者に撒かれます)

 午後7時ごろ山頂の広場の中央に積まれた薪に火がつけられ、神前にお神酒と各家から持ち寄った煎餅餅(薄くのばし直径20~30cm位もある餅)を供えます。みんなでお神酒を酌み交わし、この餅が来場者に撒かれます。
 祭りの最後は「むかしのしんまい たーつがしんまい おーとこやーまの みーねがとやまの すーりはやーし すーりはやーし(昔のしんまい たつがしんまい 男山の峰がとやまの すりはやし)」「ドンドコドン(太鼓)ドンドコドン(太鼓)」という音頭とともに太鼓が鳴らされ、火のついた松明をもった地区の人たちが広場の周囲を三回廻り、最後は大蛇に見立てた中央の大火に松明が投げ込まれます。
 この祭りは戦時中昼間行われたことはあっても中断されることなく続けられてきましたが、明治41年の合祀の際に一度中断された年がありました。するとこの年に岡本で火災が発生し、「これは家を焼いて火祭りの代わりにされたのだ」と恐れ、火祭りを再開することになり、その後は中断されることなく続けられています。岡本町ではその後この火事以外の火事は記録がないと言われています。

 昭和初期の頃は花火が打ち上げられおり、また煎餅餅も戦前には各戸24枚ずつ持ち寄りましたが、太平洋戦争勃発後、花火が中止になり、餅も12枚になり今日に至っています
 松阪市内のいろいろな祭りを見学していますが、火渡りや、どんど焼きなど大火を焚く祭りは多くありますが、「火祭り」と名の付く祭りは、この祭りしか知りません。いつまでも続けてほしい祭りです。
 この祭りは私のブログ「松阪市の祭り100選」に掲載してあります。
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猟師地区で山の神

2018-12-09 19:30:54 | 日記
              (子ども達は八柱神社で竹内宮司からお祓いを受けます)

 松阪市猟師地区(猟師町、町平尾町、新松ヶ島町)(鳥羽谷時男連合自治会長 子ども約90人))で12月9日「山の神」が行われ、私も初めて見せていただきました。例年は12月の第1日曜日に行われますが、今年はその日が他の行事と重なったため、この日になりました。
 猟師町の八柱神社(竹内一将宮司)に各自治会長が集まり、大火が焚かれ、子ども達が来るのを待機します。

 午前10時頃になると子どもたちやその保護者達が神社にやって来ます。猟師地区は10の小字(①東中町、②旭町1、③旭町2、④新町、⑤高須、⑥浜町1⑦浜町3、⑧北浜1.2、⑨北浜3、⑩北浜4)に分かれており、各小字毎竹内宮司からお祓いを受けます。お祓いが終わると、各字の番屋の家に場所を移し、お菓子を食べながら懇談します。

 山の神は子ども達を中心とした行事ですが、多くの地区でなくなってしまいました。猟師地区でも以前はもっと盛大に行われていたが、だんだんと簡素化してきているとのこと。それでも昔から続いている行事が行われるは素晴らしいことです。
 なお、大人たちは3つの班に分かれて、場所を料理屋に移して懇親会がもたれるということです。

 
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西野向林地区で山の神行われる

2018-12-05 19:24:50 | 日記
 我が西野町向林地区(11戸)で平成30年12月2日、毎年恒例の「山の神」が行われました。詳しい由来や、いつ頃から始まったのかは分かりませんが、昔から「子供の神」と言われるように、子供のための行事であります。これまでは各家持ち回りで番屋をしていましたが、今年は同町の観音寺で行いました。

  
                 (地元の宮さんにお参りして、お神酒で乾杯)    
 
 この行事は、昔は各地区で行われていましたが、多くの地区で廃止され、残っているところは少なくなりました。我が地区でも数年前に廃止の話しも出ましたが、何とか今まで続けています。昔の開催日は12月7日と決まっていましたが、今は12月の第一日曜日に行われています。

 我が地区では、以前は朝から晩まで食事がありました。朝早くから女性の人達が番屋に寄ってきて、ごはんを焚いたり、おかずを作ったりします。そして山の神の名物「ぼた餅」をつくり、各戸に配って用意ができたことを知らせます。そうすると各家から子どもから年寄りまで家族中が集まってきました。
しかし準備する女性軍が大変だと言うことで昼と晩だけになり、そして昼だけになりました。そして2年前からはパック料理になりました。山の神と言うと「ぼたもち」がつきものでしたが、今はそれもなくなりました。
                             
  
             (お寺で食事、1才の幼児から高齢の人まで、全住民が対象です)

 一時期、我が地区から子どもが1人もいなくなったこともありましたが、今は子どもが増えてきて、にぎやかな山の神となりました。
 この日午前11時から地元の宮さんにお参りしたあと、各家の赤ちゃんからお年寄りまで家族中がお寺に寄ってきて、みんなで談笑をしながら食事をしました。
冬の山の神は、春の焼肉パーティーと並び、我が地区の人達が一堂に会する行事なので、いつまでも続けていきたいものです。
 
                          
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