川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

波留桜まつり開催される

2018-03-31 17:48:26 | 日記
                  (清流太鼓の幕あいを利用してジャンケン大会)

 松阪市飯南町向粥見の春谷寺境内にあるエドヒガンザクラの下、3月30日から4月1日まで第4回波留桜まつりが開催されています。この桜の木は推定樹齢400年の古木ですが、地域の宝として保存会の皆さんが中心となって保存活動をしています。この桜は松阪市の天然記念物に指定されています。また春谷寺の周辺には同じエドヒガンザクラが約50本植えられ、見頃を迎えています。

 
          (エドヒガンザクラ)                 (飯高清流太鼓の演奏会)

 この祭りは「波留桜まつり実行委員会(岡田好隆 委員長)」が主催して平成27年から行われているもので、岡田委員長や祭りに携わっている役員さんの話しでは「桜が咲く頃にはたくさんの見学者が来てくれるが、立ち話ではそれだけで終わってしまう。お茶を出したらもう少し話が続き、それが発展して祭りをしてはどうかということになった」ということです。

 周辺の模擬店ではぜんざい、綿菓子、ポップコーン、たいやきなどが販売されていました。31日には「飯南バンド ウインズ」の演奏会や「飯高清流太鼓」の演奏会があり、またじゃんけん大会や餅まきなどもありました。
 31日にこの祭りを初めて見せていただきましたが、気候もよく、天候もよく、山あいの地区のほのぼのとした祭りでした。
 この祭りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。

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伊勢本街道のひなまつり開催中

2018-03-28 05:11:51 | 日記
                    (飯南局舎「和み」のひな飾り)

 古くから大和と伊勢をつなぐ「伊勢本街道」沿いの松阪市飯南地区で第2回伊勢本街道のひなまつりが3月25日から開催されています。
 このひな祭りは、「伊勢本街道のひなまつり実行委員会(会員約10名 垣本和美 代表)」が主催して平成29年に始まったもので、横野地区の飯南局舎「和み」、柿野神社、松阪西部商工会前、飯南産業文化センターや民家に、また下仁柿地区の民家にひな人形が展示してあります。私も27日に「和み」で見せていただきました。

 
    (飯南産業文化センターのつるし雛)            (ふくろう案山子も見てね)

 代表の垣本さんは、「もっと飯南に多くの人が来てほしい。そして、飯南を散策して、素晴らしい地域を見てほしい」という思いから、この祭りを始めたということです。また「飯南地域の人にも、もっと実行委員会に加わってほしい」とも、おっしゃってみえました。

 私の好きな祭りの1つであった「宇気郷・山里のひなまつり」が昨年の開催をもって終わりました。伊勢本街道のひなまつりも、山あい地区のひな祭りです。まだまだ始まったばかりで、規模は小さいのですが、これからも地域に根ざし、広がっていくこと期待しています。この祭りは4月1日まで行われています。

 この祭りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載しました。

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てんてん(春季)開催される

2018-03-25 22:34:49 | 日記
                (太鼓の音に合わせて天狗が天上から降りてきます)

 七百年の伝統があると言われている神事「てんてん」が3月25日に松阪市飯南町粥見の粥見神社(向井庸明 宮司)で行われました。この神事は、里内の悪霊邪気を払い、無病息災や五穀豊穣を祈る祭りで、てんてん保存会(岡田久三会長)が主催して毎年3月の最終日曜日に行われます。この神事は春と秋の2回行われ、春季例祭には大人が、秋季大祭には子供たちが天狗や獅子などを演じます。

 てんてんの始まりはおよそ七百年前の鎌倉時代末期の西暦1310年頃ともいわれていますが、はっきりしたことは不明です。てんてんに使う太鼓内部の修理書きに「貞享(じょうきょう)」3年(1686)の記録があり、今から約330年前からこの太鼓が使われていたと思われます。
 この神事はもともと粥見神社近くの下郷地区と向粥見地区の2地区で運営されていましたが、2地区ではやっていけなくなって、平成17年(2005)ごろから上郷地区が加わり、3つの地区の輪番制で取り組むようになりました。

 
  (小学校6年生女児による浦安の舞の奉納)  (“はなかけ”に子どもたちが杉葉を投げつけます)

 てんてんの舞は神話の天孫降臨(てんそんこうりん)から演出したものとされており、太鼓のリズムが「てんてん」と打つことから付けられた名称であると言われています。
 天孫降臨とは天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、荒れる地上の国・葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)を治めるため、天上の国・高天原(たかまがはら)から日向国の高千穂峰に降り立ったことをいいます。祭では天狗が導きの神「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」を、雄獅子が瓊瓊杵尊を、雌獅子が瓊瓊杵尊の妻となる木花開(咲)耶姫(このはなさくやひめ)を表します。

 てんてんに登場する天狗、雄獅子、雌獅子、はなかけ(先駆け)を演じる舞手は3つの地区が交代で受け持ち、地区の氏子の若い衆の中から選ばれます。春の神事に出演する大人たちは1月から3月まで週2回練習をし、本日の朝には冷たい櫛田川でみそぎをして心身を清めます。

 午後1時から粥見神社の神殿で祭礼が行われ、巫女姿の地元の小学6年生の女児たちが神殿前と広場に設けられた舞台で浦安の舞を奉納します。
 
 
   (地上(境内)で天狗と獅子が舞います)      (天狗の鼻紙で頭を撫でてもいらいます)

 てんてんの神事では、はじめの「はなかけの舞」は天つ神の使いが葦原の中つ国に使わされたが平定できなかった場面で、ヒョットコやおたふくの面をつけた大神様の先がけとして地上の様子を見るために使わされた“はなかけ”に、地区の子供たちが扮する悪者が杉葉を投げつけて抵抗します。
 次ぎに天狗の猿田彦大神が天から降りてきて、荒ぶる者どもを鎮める様子を演じます。この神事では天狗が神殿の石段をゆっくり降りてきます。この天から降りる道中は長いので、途中で草履を履き替えたり、居眠りをしたりします。地上(境内)に降り立った天狗の手招きで雄獅子、雌獅子は石段を降りてきて境内まで降り立った時、天狗と一緒に舞を演じます。
 この後天狗が鼻をかんだ紙で頭を触れてもらうと、無病息災の御利益があると言われ、来場書は頭を紙で触れてもらいます。私も頭を撫でてもらいました。
 最後に舞を演じた人たちや神社の役員で餅まきが行われました。

 練習を重ねててんてんの舞を演じられた皆さん、祭の運営をされたてんてん保存会の皆さん、また神社関係者の皆様、ご苦労様でした。
 飯南地区には私の知人も多く、いろいろな方から声をかけていただきました。また皆さんからこの神事について教えていただき、ありがとうございました。
 
 この行事は私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
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松坂城跡と石垣

2018-03-15 04:15:36 | 日記
 松阪市の市街地の中心にある松坂城跡は松阪市の歴史・文化の象徴であり、観光や市民の憩いの場として大きな役割を果たしている。松坂城跡は平成18年(2006)4月に(財)日本城郭協会主催の日本100名城に選ばれ、同年10月に日本の歴史公園100選にも選ばれた。また平成23年2月には国史跡に指定された。
 松阪市では平成28年3月に「史跡松坂城跡整備基本計画書」を作成し、現在この計画書に沿って松坂城跡の整備が進められている。

✦松坂城の築城
 松坂城は、今から約430年前の天正16年(1588)に安土桃山時代の戦国武将蒲生氏郷が四五百森(よいほのもり)に築城した平山城である。松阪市内の城の中では阿坂城(白米城)、神山城、大河内城、松ヶ島城のように戦が行われた城がある中で、松坂城では戦は行われなかった。しかし松坂城が造られた時は、豊臣秀吉がほぼ天下を平定したとはいえ、まだ一部の地域で戦が行われており、いつ松坂城に飛び火するかもしれないという時代でもあった。このような時代背景から極めて短期間に築城する必要があり、石垣の石は自然の形のままのものを用いる野面積み工法が用いられたと考えられる。
 この松坂城跡の野面積みの石垣が、平成18年の日本100名城に選ばれたときに高く評価された。

✦城郭の構造
 城は我が国の歴史の中で政治や経済の中心として、大きな役割を果たしてきた。侍の時代が終わり、本来の役割を終えたあとも「城跡」として都市公園や、貴重な歴史的遺産として私たちの生活になじんできた。
 この城跡にはわずかに記録に残っている砦のような簡易なものから、市町や都道府県の文化財、国の史跡、国の重要文化財、国宝に指定されるものまで多種多様である。全国的に見ても各地に存在する城跡は定義にもよるが、2万5千ヵ所とも5万カ所ともいわれている。松阪市内だけでも約百カ所の城跡があるとみられる。
 
 城には山の地形を利用して造られた山城(やまじろ)、平地にある山や丘陵地などに築城された平山城(ひらやまじろ)、平地に造られた平城(ひらじろ)などの種類があり松坂城は平山城に属する。

✦石垣の様式
 石垣の最大の役割は城攻めに対する防御の役目を果たすが、戦国時代が終わった江戸時代に築かれる城の石垣は、支配者の威厳を示す役割があると考えられる。城の石垣工法にはいくつかの種類があるが、戦国時代に造られる城は短期間に造る必要があるため、自然の石をそのまま用いる「野面積み(のづらづみ)」工法が、また戦国時代が終わったあとに造られた城の石垣は景観を重視するため、外側の表面を削り取って隙間なく積み上げる「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」工法が用いられる場合が多い。石垣の様式としては、もう1つ野面積みと切り込み接ぎの中間的な様式で、積み上げる石の外側の出っ張りを削り取る「打込み接ぎ(うちこみはぎ)」工法があり、松坂城には野面積みと打込み接ぎが用いられている。野面積みの石垣は「乱積み」ともいわれるように一見不安定にも見えるが、排水がよく、石と石の接点が石垣の外側から約10cm内側にあることから石垣を堅固にするとしている。

✦日本100名城の選定
 日本城郭協会が平成19年に財団法人設立40周年を迎える記念事業として「日本100名城」を選定し、平成18年4月6日の「城の日」に認定した(発表は同年2月13日)。この選定対称としては①立地(選地)、縄張、普請、作業が揃っており、これらの要素がよく保存・復元されていること、②城主や家臣にまつわる歴史的事件やドラマの舞台として語り継がれ、当時をしのぶことができる城、③城は弥生時代に誕生、古代・中世と変遷をとげ、織豊時代に美しい近世城郭を完成させ、幕末に終焉した。これらの時代の城郭発達史と地域的特色を代表する城、という城の三要素から総合的に選定された。全国から478城がリストアップされ、47都道府県から1城以上5城以内で選定された。

 平成18年6月24日に松阪公民館において、日本100名城の選定に携わった東京大学名誉教授 工学博士 新谷 洋二(にいたに ようじ)氏の「これからの松阪城跡に期待するもの」というテーマの講演があった。新谷教授は東京生まれであるが、たしか松阪市の飯南地区にゆかりがあるという、自己紹介をされたと記憶している。
 日本100名城には三重県から松坂城跡と伊賀上野城跡が選定されたが、松坂城跡が選定された理由として、①野面積みの石垣が素晴らしい、②縄張り(設計)が素晴らしい、③御城番屋敷が素晴らしい、④蒲生氏郷が造った城であること、⑤余計な建物などがないこと、を述べられたと記憶している。
 この中で特に⑤の「余計な建物などないこと」は大事なところである。

✦明治以降の城跡の運命
 廃藩置県後の城跡は無用の長物として、多かれ少なかれ数奇な運命をたどってきた。多くの城跡の堀は埋められ、建物は壊され、城跡内には軍の施設が置かれ、官公庁の施設や学校、病院などが建設された。また天守が民間に払い下げられ、壊される運命にもあった。
 あの国宝であり、世界遺産でもある天下の名城・姫路城でさえ、明治維新後天守閣は民間に払い下げられた。23円50銭、今のお金に換算して約10万円という信じられないほど安い落札で払い下げられた。その後、本来取り壊される運命にあった姫路城は奇跡的に残り、現在美しい姿を見せている。 

 市議会議員の時に委員会の視察で訪れた金沢城跡の中にも、かつて金沢大学のキャンバスがあった。金沢大学は平成7年(1995)に別な場所に移転し、今は元の城跡の姿に戻っている。そして金沢城跡は平成18年(2006)の日本100名城に認定され、平成20年には国の史跡に指定された。もし今も城跡内に金沢大学があったら、加賀百万石の前田家の居城が日本100名城や国史跡に選ばれなかったかも知れない。別の時に訪れた福井市の福井城跡も立派な堀と石垣がある城跡であるが、城跡の中央部に鉄筋コンクリート造りの福井県庁の建物が何棟もそびえ立つ異様な光景を目にした。

 我が松坂城跡もかつては本丸跡に、市の水道の配水池が置かれていた。この配水池は城の建物跡地に造られたが、工事では貴重な礎石が調査もされず撤去されてしまった。その時代、その時代の城跡に対する位置づけや考え方が違ってきているので、仕方がないところもあるが、今思えば大変残念なところである。
 ずっと以前から松坂城跡に天守閣を建てようとする運動が起こっては立ち消えになっている。松坂城跡に天守閣ができれば観光的の目玉となり素晴らしいことである。私も建物や天守閣のあるいくつかの城跡を見ているが、なんともうらやましい限りである。しかし松坂城跡に天守閣が建てられないのはお金の問題もあるが、なにより当時の図面などの記録が何もない。松坂城の天守は建設されたあと約70年後に大風で倒壊して、その後再建されていない。どこかの倉の中から松坂城の絵図など出てくれば別であるが、現時点でいい加減な天守を造れば、⑤の「余計な建物など」となる。今の松坂城跡は石垣だけでも立派な城跡である。

✦石垣の変状
 土木工学などのない時代の城造りは、経験を頼りに造られた。また築城されてから長い年月が経っていることもあり、どこの城または城跡でも石垣に変形が生じてくるのはやむを得ない。
 城及び城跡における石垣の変状には、局所的な積み石の割れ、石の風化、石の抜け落ちなどがあげられ、降雨や地震、樹木の根などが起因する。また構造的な変形としてははらみだし、前倒れ、沈下などがあり、原因として地山の強度不足や浸透水による影響、基礎地盤の脆弱化があげられる。

 このため、どこの城でも、また城跡となった後でも改修工事がなされている場合が多く、松坂城及び松坂城跡でも改修工事が行われている。
 平成28年11月5日に松阪市文化財センターで行われた、三重県教育委員会の竹田憲治氏による「松坂城跡解体新書」という講演では、松坂城跡の石垣の全ての面(212面)に番号をつけて調査した結果が報告された。
 これによると松坂城(跡)の石垣は①1期(天正末~文禄)、②2期(慶長前半)、③3期(慶長後半)、④4期(江戸前期後半~中期)、⑤5期(江戸後期~明治)、⑥6期(明治~大正)、⑦7期(昭和~平成)の7期に分類される。この時代別の石垣の工事は、縄張り(設計)の変更と、これまでの積まれていた石垣の改修工事によるものがあると思われる。全ての石垣が蒲生氏郷の時代に造られたものであると思われる場合が多いが、絶えず動いていることが分かる。

✦現代における石垣の改修
 平成29年9月18日、松阪市本町の松阪市産業振興センターで、「みんなで学ぼう石垣修理」をテーマに「平成29年度 第1回松阪歴史文化塾事業 松坂城跡シンポジウム」が開催された。この催しは松阪市が主催して行われたもので、国史跡でもあり、都市公園でもある松坂城跡の整備を文化的価値の保全と、利用する市民や観光客の安全性の確保という両面からどのように取り組んでいけばよいかを探っていくものであった。
 
 基調講演では(協)関西地盤環境研究センター顧問で関西大学名誉教授の西形達明氏が『城郭石垣を災害から護り伝えるために』というテーマで、土木工学の立場から石垣の変形のメカニズムについて話をされた。また奈良大学教授の千田嘉博氏をコーディネーターとするパネルディスカッションも行われた。

 城跡の石垣の保全改修については、現代の土木技術や材料を用いれば簡単なことであるが、文化財としての価値を保ちつつ、これまでのやり方で保全改修し、安全を確保するのが難しい。外から見えない内面の栗石の幅なども元のままに直すべきであると言われ、貴重な史跡をいかにして元のまま後世に伝えるか、全国の城跡の管理者の最大のテーマでもある。

✦樹木による石垣への影響
 城跡の石垣の変形のメカニズムは、いろいろな要素が重なり合い難しいが、原因がはっきり見えるのが、樹木による石垣への影響である。私も以前に議会の一般質問でこの問題を取り上げたことがあるが、石垣近くに植えられた樹木が石垣を押しているところが数十箇所あった。
 松阪市では整備基本計画にそって松坂城跡の石垣に影響を与えている樹木や、景観を害している樹木の伐採を始めており、その状況を説明する「松阪城跡史跡整備現地説明会」が平成29年3月19日に現地であった。松坂城跡において石垣の保全管理のため本格的に樹木の伐採が行われるのは、今回が初めてではないかと思われる。

 私が主宰する「松阪史跡めぐり」で玉城町の田丸城跡を訪れたとき、石垣のすぐ間近に新しい植樹がしてあった。今は細くて何ともないが、何十年後、何百年後には必ず石垣に影響を及ぼすであろうと思われ、心配している。

✦まとめ
 天正16年(1588)に松坂城を築城した蒲生氏郷は、わずか2年後の天正18年(1590)に秀吉により会津に移封された。奥州の伊達政宗を抑えるための配置であった。しかし氏郷にしてみれば松坂に新しい城を築き、町並みを整備し、さあこれからという時に会津への移封はさぞかし無念であったと思われる。領地の石高が武将の格を表す時代、松坂の12石から会津の42万石(後の検地・加増により91万石)は大出世であったが、会津は京から遠く離れていることもあり、松坂への思いを募っていたという。松ヶ島城に入ってからわずか6年間松坂に居ただけであったが、現代にまで通じる町づくりをしていった功績は大きい。

 これだけ立派な歴史と城郭をもった松坂城跡は松阪市の宝であり、国の宝でもある。この貴重な遺産の文化的価値を保ちつつ、松阪のまちの歴史・文化も併せて何十年後、何百年後の後世に残して行くのが、現在を生きる私たちに課せられた使命である。
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笠松の河津桜まもなく見頃

2018-03-12 18:03:39 | 日記
 2018年3月12日、松阪市笠松町の笠松町水路沿いに植えられた河津桜を見に行きました。木によって“個人差„があり、1分~7分咲きで平均して4~5分咲きといったところです。地元の人の話では「ここ2~3日が見頃」と言われたが、次の土日でも十分楽しめると思います。

 この河津桜は笠松環境保全協議会を中心に平成19年(2009)から植えられてきたもので、約1.5㎞の水路沿いが「笠松河津ロード」として市民に親しまれています。河津桜は早咲きで、2月の初旬から咲き始め3月中旬には満開になります。

 松阪市笠松町、曽原町、五主町付近を流れ伊勢湾に注ぐ碧川の周辺には、ハマボウの群生地や黄紅葉が自生しており、また日本でも有数の野鳥の飛来地としても有名です。これまで何気なく見過ごされてきた碧川の風景を今一度見直し、自然環境を地域の宝として保全し、地域づくり、人づくりに取り組んでいこうと、平成21年9月に、地区の有志により「碧川周辺地域の自然と環境を守る会」が結成されました。

 碧川周辺整備の一環としてこの河津桜の植生や、また近くの農村公園の整備もなされました。農村公園は地域の人々の要望を受け、松阪市が平成23年度から平成25年度にかけて、約1000万円の費用でトイレや駐車場の設置、スロープやフェンスも設置などの整備がなされました。
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つくし顔を出す

2018-03-12 05:12:49 | 日記
早朝ウォーキングの途中に草の中につくしをみつけました。

大分前から出ていた様です。

毎朝、夜明けを待ちかねてウォーキングに出かけます。

夜明けが最も遅い時期は、午前6時45分ごろ。

今は少し早くなり、出発は午前6時ごろです。

寒さが少しは和らいだとはいえ、まだまだ早朝は冷たい。

防寒具に身を包んで出かけます。

途中、ウォーキングの常連さんや犬の散歩をする人たちと挨拶を交わしながら。
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初午まつり開催中

2018-03-03 16:53:34 | 日記
                    (岡寺山継松寺へ厄落としの参拝者)

 松阪市の3大祭りの1つ初午大祭が、平成30年3月2日から始まっています。松阪市中町の厄除け観音で有名な岡寺山継松寺には、厄年の人などたくさんの人がお参りしています。
 この祭りは松阪市観光協会と岡寺山継松寺が主催して3月の最初の午の日に行われ、今年は3日が本日ですので、3月2日が宵宮、3月4日が余福祭となります。本日の今日3日には厄年の女性を乗せて町中を練り歩く「松阪厄まいり宝恵駕篭道中行列」が行われました。
 今年は宵宮も本日も穏やかな日で街は大変賑わいました。

 岡寺山継松寺は聖武天皇の勅使によって創建されたとされる日本最古の霊場で、同寺の初午祭は県内の仏教寺院の例祭としては最大級の祭りであるということです。
 厄年の男女が参拝して、ハンカチなどを落とし厄除けします。また出店では「厄をはじき去る」という縁起物「猿はじき」や、「ねじりおこし」が販売されています。
 初午大祭は私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります

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                       (まちなかの賑わい)
 
初午大祭について

 松阪の初午大祭は祇園祭り、氏郷まつりと並ぶ松阪3大祭りの1つで、3月の最初の午の日の前後3日間(宵宮、本日、余福祭)に渡って行われます。この祭りでは厄年の男女などが松阪市中町の岡寺山継松寺に厄落としのお参りします。

◆岡寺山継松寺の由来
 岡寺山継松寺は、地元の人には「岡寺さん」と呼ばれ、天平15年(743)聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したとされる日本最初の厄除け観音の霊場で、ここで行われる初午祭は県内の仏教寺院の祭礼としては最大です。
 ご本尊の如意輪観世音菩薩は奈良時代に大洪水で海に流出したことがあり、二見浦三津の猟師が網で引き上げたとされています。この三津の猟師は後に継松法師となり、石津に大伽藍を建立しましたが、この継松法師の名前をとって継松寺と名付けられたとされています。
 また弘仁(810~823)の昔、寺が炎上したとき、本尊の如意輪観音はみずから飛んで境内の杉の木に隠れたといい、住職も杉の木を握って火災を叩き伏せたという謂われがあります。
 継松寺はもともと石津(現 松阪市石津町)にあったものを慶長17年(1612)松阪城主古田重治により現在の場所(松阪市中町)に移転されています。

◆厄落としのお参り
 岡寺さんにお参りするのは、女性では19歳、33歳。男性は25歳、42歳、61歳で、この内男性の42歳は“男の本厄”、女性の33歳は“女の本厄”といいます。
 またお参りするときは厄年の同年のものどうしでは一緒に行かない、お参りした後うしろを振り返ってはいけない、寄り道をしてはいけない、途中買い物もしない。岡寺で遊ぶ場合はいったん家に帰って出直をするということです。またハンカチや櫛、小銭いれ・財布など日常身に付けているものを故意に落として“厄落とし”とすることも行われています。

                   
                    (松阪厄まいり宝恵駕篭道中行列)

◆宝恵駕篭
 花街が盛んであった戦前には、川井町や愛宕町から厄年の芸者衆や女郎衆が着飾って宝恵駕篭(ほえかご)に乗って厄落としのお参りをしました。この駕篭を担ぐ法被姿のダテ男が息杖をついて歌をうたいながら岡寺に乗り込んだということです。
 この宝恵駕篭は、戦後は行われていなかったが、平成21年に60年ぶりに「厄まいり宝恵かご道中行列」として復活しました。着物の袖を振り「厄を払い」、袖を振って「幸せを招き入れる」との謂われがあり、厄年の女性を中心に、家族も一緒にお参りする道中行列です。

◆猿はじき
 初午祭の界隈を歩くといくつかの店で目につくのが「猿はじき」です。この玩具は江戸時代に始まったといわれ、「厄をはじきさる」という縁起ものです。猿はじきによく似た玩具で「弾き猿-はじきざる」というのがありますが、「猿はじき」は松阪独特の呼び方です。
 私の古い友人で、岡寺さんの近くで中野時計店を経営する中野良一さん宅では前年の10月から11月に孟宗竹を取ってきて、年明けから家族総出で猿はじきを作ります。同時計店では年中猿はじきを買うことができます。

◆ねじりおこし
 初午のみやげものとして、猿はじきとともに人気のあるのが「ねじりおこし」です。牛馬に引かせた鋤で田を起こすと、土が反転し、「ねじりおこし」と全く形になることから、春の農耕が始まる前に牛馬の厄を落とす縁起物になったといわれています。
 東京の庶民に親しまれている「雷おこし」は松阪出身の人がねじりおこしをヒントに開発したといわれています。

◆見世物小屋や露商の賑わい
 私たちが子どもの頃には、岡寺境内には見世物小屋が建ち並び、拡声器による呼び込みが行われていました。私は見世物小屋に入ったことはありませんが、興味あるものでした。
 明治12年の伊勢新聞の記事には、「継松寺の観音へ近郷近村から老若男女が群集し、門前には実に錐のたつるの余地も無き程なれば・・・・」と混雑する境内の様子が書かれています。
 露天商は時代の流れとともに売るものは変化してきますが、参拝する人々の祭りへの昂ぶりを演出してくれます。
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