恵み野市街の北東(住所表記は恵庭市南島松)に「恵庭開拓記念公園」がある。この公園は,昭和46年(1971)廃校になった松園小学校の跡地を開拓記念公園として整備したもので,松園小学校門柱が残され,松園校跡地記念碑,復元した二宮尊徳像,天野先生之碑,富山県人開拓の碑,恵庭開拓記念像「拓望」などがある。また,「恵庭市郷土資料館」が公園に隣接している。
◆竹中敏洋作品「拓望」
恵庭に初めて開拓の鍬が入ったのは,明治19年(1886)山口県岩国地方からの集団入植者であった。その前年(明治18),入植地の現地調査に入った島田勘助と田中梅太郎の二人は,馬追山に連なる高台から恵庭平野を眺望しこの地を入植地に定めたとされる。この記念像は,その時の姿をモチーフにして製作された。衣装や持ち物に綿密な時代考証がなされ,開拓に入らんとする男の逞しさと気概が伝わってくる。
建立時の碑には,恵庭市長浜垣実の筆で,郷土の先達の労苦を称える言葉が刻まれている。そして今,立像が見つめる先には人口6万9千人の豊かな恵庭市街が広がっているのだ。昭和54年(1979)8月建立。作者は彫刻家,造形作家として名高い竹中敏洋である。
なお,この像のミニチュアが姉妹都市の山口県和木町に贈られた。
作者「竹中敏洋」は,昭和6年(1931)大分県生まれ。3歳の時父に伴われて満州へ渡り,少年期を満州蒙古で過ごす。大陸で過ごした少年期の体験が竹中芸術の原風景と言われる。昭和18年(1943)大分に戻った竹中少年は,昭和20年(1945)の爆撃で焼きだされ,苦学しながら大分大学教育学部を卒業。昭和29年(1949)大陸での夢を北海道に託すべく来道して,鷹栖中学,千歳中学で美術教師を勤める。しかし,情熱を燃焼させる場所を其処に見だせず3年で教師を辞める。その後,廃品回収や道路工夫で糧を得ながら自分の芸術を追い求め続けた。この青春の武者修行時代に出会ったのが,夫人となる幸子であった。製材所の店員であった彼女が台座の丸太を届けた折に,食うや食わずの生活をしながら創作に打ち込む竹中の生きざまに感激したことによると言う。
妻・幸子さんがトラック運転手をするなどして創作活動を支えた逸話が,テレビドラマ「ダンプかあちゃん」(北海道放送製作TBS系列放送,昭和44年(1969)から2年間4回シリーズ,第一作は緒形拳,長山藍子ら)として放映されたので,ご覧になった方も居られるだろう。
昭和49年(1974)恵庭市盤尻にアトリエを建て制作活動を続けた。さらに,恵庭に移り住んでからは漁川で造形樹氷の実験を重ね,竹中ファンタジーの世界を作り上げた。この氷と光の芸術は,層雲峡氷瀑まつり,支笏湖氷濤まつり等に発展し,国内(日光,富士山麓,田沢湖,北軽井沢など)及び海外(ニューヨーク,アラスカ)でも公開し,国際的な広がりを見せている。また,後年は液体硬化(樹脂の化学変化を活かした造形)による新鮮な造形技法を創作し,造形作家としても名を残した。
シャクシャインの像(静内町真歌公園),永遠の像(月寒公園),THE SKY(札幌アステイ45外壁),希望の像(札幌第一高校),青年の像躍進(大雪青少年交流の家),希み(簾舞中学校),北辺開拓の礎(静内御殿山),あけぼの(江別小学校),市民の像(千歳),拓魂碑(深川)など多数の作品を残した。平成14年(2002)盤尻の自宅で逝去。(参照:国府田稔「竹中芸術の世界」百年100話,恵庭昭和史研究会ほか)
なお,恵庭にあるもう一つの竹中作品(恵庭市総合体育館壁画彫刻)については,別項で紹介する。
また,恵庭開拓公園に二口大然作品「二宮金次郎像(復元)」があるが,次回に紹介しよう。