アルゼンチンのひと-1
明治の末にアルゼンチンへ渡り,南部パンパの地(ブエノス・アイレス州ボリーバル市)で牧場主となり,アルゼンチンの人々からドン・セイソウと慕われた男がいた(Seizoの「zo」はスペイン語で「ソ」と発音する)。伊藤清蔵博士である。
博士は,1875年(明治8)山形県河北町生まれ,旧制山形中学から1892年(明治)札幌農学校予科に転入,1900年(明治33)札幌農学校を卒業後,恩師佐藤昌介教授(のち初代北海道大学長)のもとで助教授,新渡戸稲造教授の勧めでドイツ・ボン大学へ留学,帰国後は盛岡高等農林学校(現,岩手大学)教授として農業経営学を講じた。
札幌同窓会員名簿によると,博士は明治33年7月農業経済学科を卒業しており第6期生である。学生時代,米独留学から帰国したばかりの新渡戸稲造教授から大きな影響を受けたとされる。博士がその後ずっと持ち続ける「学問は実行なり」とする考えは,この頃培われ,ドイツ留学を経て信念となったものであろう。
1910年(明治43)アルゼンチンに移住,35才であった。博士をアルゼンチンに呼び寄せたのは「一人の男と一人の女と一冊の本」である,と著書(南米に農牧30年)の中で述べている。一人の男とは,アルゼンチンの牧場主で富豪のカルロス・デイアス・ベレス氏(オルガが娘の家庭教師をしていた),一人の女とはドイツ人の婚約者オルガ・デイシュ,一冊の本とは農学者カール・カエゲールの「スペイン植民地とアメリカの農業」であった。
入植したのは,首都ブエノス・アイレスから南西方向直線にして約300km,サン・カルロス・デ・ボリーバル市の郊外であった。資金が十分でなかった博士は,夫人の預金と夫人の伯母からの借金を元手に,他の牧場の牛を預かる方法で牧場を始めた。15年後の1925年(大正14)には「富士牧場」所有地4,000ha,借地4,000ha,家畜1万2千頭に達していたという。博士は同国農業や牧畜への技術指導にも熱心であった。博士の考えは,1938年(昭和13)ブエノス・アイレス大学農学部での講演によく表現されている。
①投機的な冒険で農場・牧場経営は行わない。
②土地の酷使は避けなければならない。
③経営はできるかぎり,農業と牧畜の混合経営で行うこと。
④天災は避けられない。適切な措置をとれば被害の軽減は可能。
⑤農牧業生産者は農牧場に居住すべきである。(Manuel Urdangarin,ウルグアイ・フィールド科学センター,2002による)。
すなわち,「牧場主たる者は自ら汗を流して働き,如何にしたら利益が上がるか計量しながら経営する堅実性,併せて時代の動きに対し大胆な選択をも試みる冒険性が重要」と説く。
働かせてくれと訪れる日本の若者達は多かったが,博士は首都近郊の花栽培や野菜作りを勧めたという。牧場での生活の苦労,広大な自然の中でのガウチョ(牧童)生活は日本の若者には無理であると考えたようである。その中で,ただ1人の例外となった人物が札幌生まれの宇野悟郎青年であった。彼は博士の牧場でガウチョ生活4年間を体験し,後に共同経営者となった(彼の活躍については別項で紹介する)。
博士は,日本が太平洋戦争に突入しようとする1941年11月(昭和16),狭心症で急逝。牧場のオンブ-の大木が同じ年に倒れたと,語り継がれている。その後,オルガ婦人は30年続いた牧場を処分し全財産を修道院に寄付,孤児院を開設した。この孤児院はボリーバル市で現在も「イトー女子孤児院」として活動している。
夫妻の墓はボリーバル市にあり,当時住宅であった建物も残されている。在ア山形県人会は博士夫妻の顕彰碑を建て,ボリーバル市民と共にその偉業を称えた。
博士は「アルゼンチン移民の先駆者」「草の根技術協力のパイオニア」と評されるが,パンパの土と帰した博士は「日本とアルゼンチンの架け橋」として生涯を捧げたといえるだろう。「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカ留学した新渡戸稲造の心は,伊藤清蔵にとってもこの地で結実した。
ところで,「学問は実学なり」の思想は,今も北の学徒に受け継がれているだろうか? 札幌の北大構内を歩きながら考える。
アルゼンチンの穀倉地帯といえば,ブエノス・アイレス州北部,サンタフェ州,コルドバ州など湿潤パンパを指す。湿潤パンパ地帯は,現在世界の穀倉として大豆,とうもろこし,小麦の産地であるが,一方パンパ南部は雨が少なく広大な牧野が広がる地帯である。
1978~1980年にかけて私がアルゼンチンで暮らしたのは,湿潤パンパの中央部に位置するコルドバ州マルコス・フアレス市であった。首都から北に450kmの場所にあったため,ブエノス・アイレス州南部を訪れることは滅多になかった。ただ一度だけ,1979年(昭和54)であったろうか,バルカルセ北方にあるINTAボルデナーベ農業試験場(ボリーバル市はこの市とブエノス・アイレスの中間)を現地調査のため訪問した記憶がある。この農業試験場の周りには牧場が広がり,エスタンシア(大農場)の住宅であった建物を庁舎に使っていた。玄関につながる並木が大きく日陰をつくり,その景色は印象的であった。町は乾燥して砂埃が舞っていたが,試験場は砂漠のオアシスのようにみえた。
何年かたった頃(2003年?),齋藤正隆氏からオイスカ・ウルグアイ総局出版の冊子を頂いた。大先輩の伊藤清蔵博士がアルゼンチンで訪れたことのある地で牧場を経営していたこと,この地に眠っていることを知った。当時,博士のことを知っていたなら,ボリーバル市の牧場跡を訪れる機会もあったのにと思う。あの頃,博士の足跡に触れることができなかったのは至極残念だ。
参照:1) アルゼンチンの大牧場主―草の根技術協力のパイオニア伊藤清蔵博士(オイスカ・ウルグアイ総局,2002),2)海妻矩彦「伊藤清蔵の生涯」(岩手県立博物館だよりNo.105, 2005.6),3)河北町役場HP「河北町の偉人」