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伊豆の人-2,「三余塾」,奥伊豆生まれの碩学土屋宗三郎(三余)

2011-10-29 10:46:02 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

依田佐二平や依田勉三らが幼少の頃大きな影響を受けたのが,碩学の漢学者土屋三余(幼名宗三郎)であったと,前回述べた。

ところで,この人物はどんな人だったのか?

 

萩原実著「北海道十勝開拓史話」,松崎町役場HP,松本春雄HPなどからその一端を知ることができる。

 

土屋宗三郎は,文化12年(1815)伊豆国那賀郡中村(現,松崎町)に生まれ,6歳で父の伊兵衛安信を失い,8歳の時には母冬子にも死別したため,母の実家である道部村(現,岩科)の斎藤弥左衛門宅に引き取られ,そこから松崎の淨感寺に通い,住職本田正観から経書を学んだ。

 

天保217歳の時,江戸に出て高名な儒学者東条一堂の門に入り漢学を修め,また大沢赤城から国学,算術,剣法に励み,赤城塾では勝海舟とも机を並べたと伝えられている。江戸における土屋宗三郎の名声は次第に高まったが,天保1025歳のとき伊豆に帰郷し,依田善兵衛の娘みよ(勉三の父の姉)を娶って塾を開く(最初竹裡塾と称したが,三余塾と改める)。門弟は総計七百余名,その名声を聞きつけ,東は仙台・江戸から西は熊本にまで及んだという。

 

三余とは,魏の薫遇が詠んだ「読書当以三余,冬者才之余,夜者日之余,雨者時之余」に因む。いわゆる「晴耕雨読」で,農業のできない冬の間や,夜間または雨降りを利用して,学問することだという意味で,「士農の差別をなくすには,業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要」との信念に基づく。

 

萩原実著「北海道十勝開拓史話」に,三余自作の五言絶句の漢詩「姑息吟」「莫懶歌」(塾の校歌)が紹介されている。塾生はこれを吟唱しながら作業や家事にいそしんだというが,三余塾の情景が垣間見えて面白い。郷土史家足立鍬太郎の訳が付いているので引用する。

 

姑息吟

六歳(むつ)で学問本気にならにゃ年をとっても役立たぬ,

十二学問本気にやらにゃ六歳(むつ)の子供に負けましょう, 

十四学問本気になれず僅か十五でやめる馬鹿, 

とかく学問本気にやらにゃ末は後悔臍をかむ

 

莫懶歌

寝床片付ケ顔ヲバ洗イ懶(なま)ケズ懶ケズ部屋ノ掃除ヲソレ急ゲ作法ノ始メハココカラジャ, 

掃除スンダラ道具ヲシマイ懶ケズ懶ケズ声ヲソロエテ本ヲ読メ民ノ勤メハ国ノ本(もと)・・・

 

三余は勤皇の志に篤く,広く天下の志士と交わり大義を唱え,天誅組十津川事件の志士松本奎堂と親交が深かったという。伊豆の僻地にあって,当時の若者たちに与えた三余の教化は大きく,後の晩成社結成・十勝開拓にあたり,依田一門はじめ郷里の有志が多数参画したのも,三余精神の発露であったのだろう。三余は慶応元年,痔疾のため塾を閉じて江戸に下り,勤王の同志や勝海舟と交わって倒幕運動に奔走,慶応2年幕臣の凶刃に倒れた。

 

なお,門下生には,依田善六(晩成社初代社長),依田佐二平(晩成社二代目社長,大沢小学校・私立中学豆陽学校設立など教育振興,県会議員,衆議院議員,養蚕業および海運業振興),依田勉三(十勝開拓),大野恒也(豆陽中学校長兼賀茂郡長),石田房吉(遠洋漁業の先駆者で元国鉄総裁石田礼助の父)など郷土の逸材が多い。

 

伊豆人気質という言葉がある(人国記による)。いわゆる「一本気」。三余や依田兄弟の行動を見るにつけ,言いえて妙である。かくいう私も奥伊豆の生まれ,なぜか納得している。

 

 

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