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クスコ,インカ帝国の都は黄金の輝き

2011-10-08 16:20:00 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

旅の安全を祈って「アウサンガテ」と呟いた

ペルーの南東部,標高3,4003,600mにあるアンデスの懐に抱かれた街,クスコCusuco)。太陽を崇拝し,高度な文明を築いたインカ帝国の首都であった(1200年代から1532年まで)。「クスコ」とはケチュア語で「へそ」を意味する言葉で,インカの人々にとってクスコが世界の,文化の中心であったことを示し,インカ道も此処から各地に延びていた。インカ帝国の最盛期には,南はボリビア,チリ,アルゼンチンの北部まで,北はエクアドル全域,コロンビアの南部までその勢力を誇り,古代エジプト王国にも似て,1,200万人を超える人々が自活できるシステムが整えられていたという。

黄金の輝きは太陽の輝き,金は太陽の涙」と考えたインカの人々は,神殿や宮殿を黄金で華やかに彩った。16世紀,その豊富な黄金を狙ったスペインの征服者たちは(15331534年,最初のスペイン人がクスコに入る),インカの建造物を壊し,その巨大な礎石の上に教会や邸宅などスペインの街を作った。土着の寺院はカトリック教会に,宮殿は侵略者の住宅にされるが,建造物の構造は重厚な文化の融合された形となって残っている。クスコは暫くスペイン植民地とキリスト教布教の中心地であった(1542年リマに首都が移され,リマがスペイン植民地の中心となる)。

クスコ郊外にはインカの石組が今も昔のままにあり,「剃刀の刃1枚通さない精密な石組み」「灌漑用水路」など,当時の技術の高さを知ることができる。そしてまた,金や財宝を求めてやってきた征服者たちの術策にはまり,インカ帝国が滅び行く哀愁の物語も語り継がれている。

「インカ帝国は何故滅亡したのだろうか?」

「疫病が蔓延したという説があるね。ヨーロッパからもたらされた疫病が,特にパナマ以南に広がったと言われている。抵抗性をもたないインデイオの多くが死亡し,帝位継承などを巡る内紛が起き体制は弱体化して行った」

「スペイン軍との戦も熾烈だったでしょうね」

「勿論,戦での死傷者は多かったし,皇帝アタワルパを絞首刑にして体制が壊れたこともあるだろう。それ以降も,金銀などの鉱物搾取のため鉱山開発に多くの先住民を駆り出し,苦役の末100万人以上もの原住民が死亡したと言われている」

市内のサント・ドミンゴ教会,サクサイワマン遺跡など郊外の遺跡を巡る。ロレト通りの石組みが素晴らしい。

サント・ドミンゴ教会は,インカ帝国時代のコリカンチャと呼ばれる太陽神殿の上に建てられた教会。大地震で教会の建物は壊れたが,土台の石組だけは歪もなかったという話は有名。スペインの征服者たちはこの神殿に飾れていた金をすべて本国に持ち帰り,ヨーロッパでは金が大量に出回ったためインフレになったと語られている。

サクサイワマン遺跡は,クスコの北西にある堅固な要塞跡。巨石を3層に積み上げ,360mにわたって石垣が続く。スペインン人に対して反逆を企てたマンコ・インカが2万の兵士と共に陣取って戦った場所といわれる。広大な遺跡の中に入ると,すぐに広場の西側に連なる石壁が目に飛び込んでくる。

タンボ・マチャイは,小規模な谷の一方の斜面に石組みによって建設された沐浴場。聖なる泉と呼ばれる。名前のとおり絶えることなく清水が湧き出しているが,水源については未だ解明されていない。インカの人はサイフォンの原理を知っていて,これを利用してどこからか水を引いているという。

クスコへは空路リマから入るのが一般的であるが,私たちは前日チチカカ湖で遊び,プーノからバスで峠を越えてやって来た。アンデス山中の村に立ち寄りながら峠を越える。ランチ弁当を食べた街で,地元の小母さんにスペイン語で話しかけたが通じない。

峠で車を停めて外に出ると,凍り付いた雪が吹き付ける。右手遠方には雪を抱くオリエンタル山脈,カラバヤ山脈の北方に標高6,390mのアウサンガテ山が神々しく眺められる。アウサンガテ山は,ペルー南部に住む人々が昔から崇める霊峰で,動物を絞めるときや畑仕事を始めるときに「アウサンガテ」と唱えて山への祈りを捧げるのだという。

写真を撮り,旅の安全を祈って「アウサンガテ」と呟いた。 

 

 

 

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