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伊豆の人-1,「依田勉三」 奥伊豆の里から何故「北海道十勝開拓」だったのか?

2011-10-26 18:05:24 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

奥伊豆は,今でこそ電車が走り東京からも3時間弱で行くことができる気候温暖な土地であるが,江戸末期の当時は峻険な天城峠に阻まれた交通不便な地であった。江戸幕府がアメリカとの和親条約を結ぶにあたり,江戸から遠い下田を選定したことでも窺い知れる。

ところで,このような片田舎から,北海道開拓に夢を描いた依田勉三のような人間が何故生まれたのだろうか?

 

そんな疑問を抱えたまま,2010年久々にこの地を訪れた。依田勉三が生まれた依田家は那賀郡大沢村(現,松崎町大沢)にある。私の生家から直線距離にすれば16km程と近いが,谷間を走る国道は山を迂回して進み峠を越えなければならない。娑羅峠の九十九折りを下りると,那賀川のほとりに道の駅「花の三聖苑」があり,三聖会堂,大沢学舎などから昔を偲ぶことができる。

 

資料には,依田家は当地の名主であり豪農と記されているが,江戸から離れた奥伊豆辺境の地が豊かであったとは考えにくい。伊豆の里は農地が狭く,いわゆる寒村の地であった。江戸に出て碩学の誉れ高かった土屋宗三郎(三余)が,伊豆に戻り私塾(竹裡塾,後に三余塾)を開いたのは,「この辺りは遠州掛川藩の領地で江名陣屋の役人が横暴を極め,善良な農民達が苦しめられていたのを見ながら育った。士農の身分差別をなくすためには農家の青少年を教育し,知徳を磨くことによって武士と対抗させることが大切だとの信念をもった」ことによるという(松崎町HP)。また,依田家11代の佐二平が,三余塾に学んだ後,「大沢塾」「謹申学舎」「私立豆陽学校」の開設など教育に心血を注ぎ,養蚕業や海運業の発展に尽力して,地域の経済振興に心を砕いていたことでも伺い知れる。

 

この地で生まれた若者たちの純粋な心に,貧しさに耐え抜いた強靱な意志が芽生え,其処に,江戸を往来する「風待ち船」から多くの新鮮な情報が入ってきたことが,彼らの心に大きな影響を及ぼしたことだろう。時代は幕末から明治へ移る変動の時で,嘉永7年にはアメリカ艦隊が下田に入港している。

 

1. 三余塾に学ぶ

三余とは,魏の薫遇が詠んだ「読書当以三余,冬者才之余,夜者日之余,雨者時之余」に因む。いわゆる晴耕雨読で,農業のできない冬の間や,夜間または雨降りを利用して,学問することだという意味に因んでいる。浄感寺住職本田正観から経書を学び,江戸に出て東条一堂のもとで漢学を修め,碩学の誉れ高かった土屋宗三郎(三余)は,この地に戻り塾を開く。門弟は,その名声を聞きつけ,東は仙台・江戸から西は熊本にまで及んだという。

 

三余が修学の信条としたのは,「人の天分には上下の差異がない。したがって士が貴く農が賤しい理のないこと」「人には天分を完うするために職業を持たねばならない。自分のためには,家のためにも国のためにも働くことである」「士農の境界を撤去するには,業間の三余をもって農家の子弟を教育し,その器を大成せしめて士に対抗させることである」の三つであった。

 

三余は,常に塾生と起居寝食をともにし,塾生の名も“さん”づけで呼び,塾生の人格を疑い損なうような言動もせず,品性の陶冶に心を砕いた。質素謹直清廉を専らとし,入門に際しても束修金1分を受けるだけで,その後は1文も謝礼を受けなかったという。依田佐二平とともに勉三もこの塾に学び大きな感化を受けている。

 

 2. 兄,依田佐二平の薫陶

善右衛門の長男として生まれた佐二平は,5才にして三余塾に入り,17才で江戸に出て学ぶ。20才で家督を継ぎ(依田家11代),翌年から大沢村名主。その後,県議会議員,賀茂・那賀郡長,衆議院議員など歴任。晩成社設立。また蚕業,農業,海運業の発展に多大な貢献を果たす。

 

少年期に両親を失った勉三にとって,温厚で至誠な7才違いの長兄佐二平の影響は大きかったと思われる。また,この地は二宮尊徳の報徳精神が浸透しており,勉三も「報徳訓」を毎朝唱えていたという。

 

3. 謹申学舎に学ぶ

佐二平をはじめ有力者が協力して開設した郷学校「謹申学舎」。塾長に会津藩の保科頼母(戊申戦争で会津藩の白河方面総督,函館戦争では榎本武揚軍に参加)を迎え漢学を,また静岡藩士山川忠與が英語を教え,数学の講義もあった。勉三も入門している。

 

4. 慶應義塾でケプロン報文と出会う

勉三は江戸に出て慶応義塾に入る。江戸に遊学するとき,江川太郎左衛門(韮山代官)の支援があったという。福沢諭吉の「本邦の人口が年々増加して耕地と相伴わず,今にして不毛の地を開拓せねば食糧欠乏せん」の言葉に深い影響を受け,またこの時期の「ケプロン報文」との出会いが大きな転機になったと考えられる。

 

ケプロン報文は「そもそも本島(北海道)の広大たるやアメリカ合衆国西部の未開地に等しく,その財産は無限の宝庫である。・・・かかる肥饒の沃野を放置するは,日本政府の怠慢と言っても過言ではない。・・・もし放置するなら外国がこの地を侵略するであろう。それは必ず後生に悔いとなろう。・・・」とある。これに接し,北海道開拓の決意をしたとされる。

 

6. ワッデル塾での出会い

スコットランド出身の宣教師,医師のヒュー・ワデルの英語塾で学ぶ。後に,北海道開拓の同士となる渡辺勝,鈴木銃太郎と出会ったのもこの塾生としてであった。

 

勉三は明治9年慶應義塾を退学して伊豆に戻り,兄佐二平を手伝い富岡への養蚕研究や豆陽学校創設に関わる。佐二平明治12年に豆陽学校設立。渡辺勝を首席教員(校長)に迎え,勉三も教諭を務めた。明治14年に北海道開拓を表明し,単身北海道探査。明治15年には依田佐二平,依田園,依田善吾,依田勉三を発起人に晩成社を設立,鈴木銃太郎および鈴木親長(銃太郎の父)とともに渡道。札幌県庁に開墾の許可を願い,十勝に向かう。

 

十勝を開拓地と決めたのは,内田瀞,田内捨六(札幌農学校一期生)による内陸実地踏査記録(明治14年)に書かれた「十勝は最も牧畜に適するところ・・・」に触発されたためと言われる。一方,開拓使庁で出会った渡瀬寅二郎(沼津兵学校附属小学校から札幌農学校卒業,後の興農園創始者)には,「十勝は時期尚早,札幌近郊の開拓を」と勧められたという。しかし振り返れば,十勝入植に尚早の面はあったかも知れないが,晩成社がなかったら十勝の今はあり得まい。

 

下田北高等学校の校訓,校是として「至誠」「雄飛」であったことを思い出す。貧しさ脱却に,徳,忍耐,進取の技をもってする。その基本は教育なり,とする一本気な伊豆人の心意気は,今もこの地に健在だろうか?

 

参照  1) 萩原実「拓聖依田勉三伝」「北海道十勝開拓史話」 2) 松崎町役場HP 3) 松本春雄HP

 

 

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