下田北高校
奥伊豆の閑静な場所(下田市蓮台寺)に県立下田北高校(現,下田高校)がある。私の家は農家で,天城路に連なる山奥(須原)にあったので,下田高校での3年間はバス通学した。自転車で行くこともあったし,たまに高校の裏山から峠を越え荒増(稲梓)に出て,更に山道を歩くこともあったが,山育ちの身にはこの道程も苦に思わなかった(今でこそ山道は荒れ果て通行もできないが,当時はまだ峠越えの道が縦横に張り巡らされ,近道として利用されていた)。
この高校の入学式の日,校長は式辞の中で,当校の前進は私立豆陽学校(明治12年創立)で創立者は依田佐二平,西伊豆の松崎町の人であると話した。その場では「そうか,そうか・・・」という程度のことであったが,依田佐二平の名は記憶に残った。当時,下田北高には河津,松崎,南伊豆,八丈島等からも生徒が集まっており,大学進学を目指すクラスも編成されてはいたが,2年生の後半頃からようやく進学を意識するようなのんびりした雰囲気であった。また,クラブ活動でも稲生沢川で泳いでいた水泳部が県大会で良い成績を上げてはいたが,その他ニュースになるような出来事もなく,凡々たる学校であったように思う。
高校卒業後は浪人生活を経て,「まあ,いいか・・・」と受験した北大で4年間を過ごすことになる。初めて海を渡り(試験場は東京だった),落ち着いたのが恵迪寮。ここには,全国から集まった豪傑が寝起きしていて,金はなかったが理想は高く純粋で,思えば貴重な体験と多くの友情を得ることができた2年間であった。教養課程を終え,進んだ学部は農学部(専攻は植物育種)。そして卒業後,就職したのは北海道立十勝農業試験場,大豆の品種改良(農水省指定試験地)が仕事となった。
十勝では,十勝平野開拓の父と謳われる依田勉三(明治15年,依田佐二平,園,善吾,勉三を発起人に晩成社を結成して十勝開拓に入る)が,依田佐二平の弟であることを知る。彼については多くの歴史資料があり,晩成社の苦難の歴史とともによく知られているのでここでは詳述しない。が,就職した十勝農業試験場の前身は,明治28年(1895)北海道庁が晩成社の社宅の一部を借りて,仮事務所を設置し十勝農事試作場として発足したのが開基とされる。十勝農事試作場はその後十勝農業試験場と名前を変えながら,十勝開拓・十勝農業の振興を技術面で支え続けてきた。
伊豆の出身で下田北高を卒業し十勝農業の発展に関わるという,依田佐二平・勉三との不思議な縁を感じながら,十勝では22年間暮らすことになったのである。仕事柄,十勝の農業現場は庭のような感覚でよく歩き,帯広,大樹,音更などなど晩成社の足跡を幾度となく訪れ,開墾の苦労を偲ぶことも多かった。この地で二人の子供が生まれ家族の核が出来たのだから,第二の故郷と言えなくもない。
さて,十勝は「豆の国」として全国的に有名で,実需者がほれ込む良質な豆の生産地として知られる。十勝小唄(1927年)には「ランランラントセ,カネガフル,トカチノヘイヤニ,カネガフル,狩勝峠で東を見れば,雲か海かや只芒々,十勝平野は涯てしも知れず,あれサ日本一,豆の国…」と唄われている。豆景気に沸く当時の様子が生き生きと伝わる歌詞である。ところで,豆の栽培はいつごろ十勝に入り,定着したのであろうか。
依田勉三ら晩成社の一行は,明治16年(1883)帯広に入り,開拓の鍬を下ろす。食糧としてアワを播き,色々な作物の試作を始めるが,天候不順やイナゴの来襲,兎,鼠,鳥の被害などにより殆ど収穫できなかった様子が記されている。「・・・本年は主に大小豆を播種いたし候ところ,九月二十四日の初霜より数回の濃霜にて大害をこうむり皆無と相成り落胆仕り候・・・」とある。
そのような時,札幌農芸伝習所で学んだ山本金蔵(南伊豆町市ノ瀬出身,渡辺勝の妻カネが入植早々読み書きを教えた中の一人)が数粒の大豆を帯広に送り,栽培したところ安定して収穫ができることが分かり,これを契機に豆類が安定作物として栽培されるようになったという。明治24年(1891)のことであった。豆の国十勝の曙である。
山本金蔵が帯広へ送った大豆が何であったか知る由もないが,十勝で安定して収穫できたことを考えると,「秋田大豆」の系統ではないかと思われる。秋田大豆は,渡島国南尻別村字大谷地の苫米地金次郎が北海道移住の際携帯した秋田大豆から選抜したもので,その地名にちなんで「大谷地」と呼ばれ,その後これから純系分離法によって選出された「大谷地2号」などが,十勝の基幹品種として普及する。大豆栽培は,当初北海道開拓とともに道南地方で始まり,道央を経て,道東の十勝地方へと広がりを見せる。明治43年(1910)には十勝が全道の栽培面積の26%(2万ha),昭和14年(1939)49%(4万ha),昭和40年(1965)65%(2万1千ha)を占め,十勝が主産地となって行った。
十勝農業試験場で大豆新品種開発を担当していた頃(昭和40~50年代),「キタムスメ」「ヒメユタカ」「キタコマチ」「キタホマレ」「トカチクロ」「トヨムスメ」「トヨコマチ」「カリユタカ」「大袖の舞」「トヨホマレ」「ハヤヒカリ」「ユキホマレ」等の育成に関わった。この中のいくつかは,先に述べた「大谷地」の血を受け継いでいる。晩成社の夢と苦労を想像しながら過ごした北海道での研究生活であったが,新技術の普及を通じ十勝農業の発展に多少なりとも寄与できたのではないかと自負している。
そして今,十勝農業は畑作と畜産を主体に発展し,大規模で機械化された生産性の高い農業が展開されている。農家1戸当たりの平均耕地面積は約37.8haと全国平均の約24倍の規模,乳牛飼養農家1戸当たり飼養頭数は約118頭でEU諸国の水準に匹敵する規模である。また,農家戸数に占める専業農家の割合は約73%,主業農家の割合は約90%で専業的経営が圧倒的に多く,産出額2,400億円を超えるまでに発展した。
二宮尊徳の「報徳精神」が根付いていた伊豆に生を受け,幼少の頃「三余塾」(土屋三余)に学び,長じては慶応義塾で福沢諭吉の思想にふれ,北海道の可能性を語る「ケプロン報文」に感化され,ワッデル塾で学び,同志を得,札幌農学校一期生の内田瀞,田内捨六の「内陸実地探査記録」に触発された勉三が,十勝を選び,開拓にかけた夢はいま農業王国として成熟している。最近,TPP議論がにぎやかであるが,外圧に耐えうる農業地域はわが国で十勝だけかも知れない。勉三なら今,何を思うや?
写真上:松崎町三聖苑、写真下:十勝のマメ畑(機械化され、現在この風景を見ることもない)